「主人公の物語」と「世界の物語」
僕はときどき、物語構築の勉強をし直そうと思って『ハリウッド脚本術』を読み直すことがある。
そしてその都度、そこに書かれている冒頭の一文に、忘れていた大事な景色を思い出させてもらうことになる。
それは、こんな一文だ。
「人類は数千年にわたってストーリーを語ってきている。我々は数え切れないほどに焚き火を囲んで座り、部族の冒険談が、言葉の魔術で文化的な期待や神話的記録へと紡がれていくのを聞いてきているのだ」
小説の技術論ばかりを考えていると、この「景色」を忘れる。
物語とは元来、焚き火を囲んで集まった者たちに向けて話すようなものであったということを、である。
焚き火を囲んで、そこに集まった人たちに向けて物語を語り始めようと想像してみたとき、僕らはまず、何を語ろうとするだろうか。
僕はまず、集まってくれた人たちがわくわくするような話を始めようと考える。
それは往々にして、主人公の物語だ。
聴いている者たちの意識を、主人公の視点に合わせて、主人公に感情移入させ、その主人公が冒険活劇を繰り広げる様を語るだろう。
それは例えば、見知らぬ森の中で目覚めた主人公が、周囲を散策しているうちに凶悪なモンスターの群れに襲われ、それを手にした剣でばったばったとなぎ倒すような血湧き肉躍る冒険であるかもしれない。
それは主人公の物語だ。
その主人公が住んでいる世界がどのようなものなのか、あるいはどういう法則で動いているかなんていうことは、主人公から見えるものしか語らないし、主人公から見えるようにしか語らない。
少なくとも、まずはそういう形態をとる。
あるいは、ある程度主人公の物語を語った後に、ほかの視点からの物語を語ることもあるかもしれない。
それは多角的な視点から物事を見ることで、物語の面白さを増すための技法だ。
ほかのキャラの物語が、主人公の物語と交差したときに生じる、言わばクロスオーバーの面白さである。
世界観をしっかり組んだときに陥りがちな罠が、「主人公の物語」よりも「世界の物語」を優先してしまうことだ。
「世界の物語」の都合を優先に考えて、「主人公の物語」を蔑ろにしてしまう。
語り出しから、読者がわくわくしないような物語を、読者に押しつけてしまう。
全体像を俯瞰的に見ている作者は、読者の視野を見失ってしまう。
物語に複雑さと厚みをもたらすために用意したはずの緻密な世界が、主人公の物語を逆につまらないものにしてしまう。
目的と手段の転倒が起こってしまう。
そういうことのないように、僕らは「焚き火を囲んで語る」という原風景を、たびたび思い出すようにすべきなのではないかと思う。