RPGと冒険物語の親和性
冒険物語の基本は「行って帰る」お話であることと、帰ってきたあと、行く前と比べて「成長している」ということである、と聞く。
ところで、この際の「成長」は「精神的な成長」が通常必要とされるが、僕は必ずしもそうでなくていいと思っている。
「行って帰っ」てきたあとに何故「成長」が必要なのかと言えば、作中での主人公の苦労や体験が、何らかの形で報われてほしいと読者が考えるからだと考えている。
「行って帰っ」てきて、行く前と何も変わってません、というのでは、物語の体験が無駄な時間、無駄な労力、徒労、骨折り損のくたびれ儲けだったという印象になる。
また、変わったと言って、行く前よりも状態が悪化していたら、これも嬉しくない。
多くの人(読者)は、苦労や努力をした人には、それに相応しいと思えるだけの何らかの対価が与えられるべきだ(与えられてほしい)と考える。
そのあるべきと考える姿、願望通りの結果になったときに、読者はすっきりとした気分のいい読後感で、物語を読み終えることができる。
そう考え、僕は「行って帰ってきた」あとの「成長」というのは、「報酬」という性質のものだと思っている。
なので、それが必ずしも「精神的な成長」である必要はない、と考える。
(ちなみに、この物語中での「精神的な成長」をするという綺麗な構造で作られたクオリディアコード4話までの東京編では、成長した後の主人公が「あれ誰? キモイんですけど」と言われていて大変面白かった)
ただ、「報酬」と言って、その体験の結果が「(作中の)お金」なんていう大した価値のないように見えるものに代えられてしまうと、読者の満足には届かない恐れがある。
なので、主人公の「精神的な成長」という、とても立派で素晴らしいと思えるものを報酬にするのがいいという発想になるのではないか、と思う。
なお、現実では苦労や努力をしたからと言ってそれが必ず成果につながるとは限らない、というのは現実の話であって、娯楽作品としての物語のあるべき姿とは話が異なる。
エンタテイメント作品というのは、そういった点においては、現実とは決別するべきである。
もしそこにリアリティが必要なのだとすれば、それは、読者が「嘘くささ」を感じないようにするため、という目的においてのみ妥当すると考える。
要は、『ハリウッド脚本術』で言うところの「信頼性のコスモス」を壊さないことが重要なのであって、現実的であることが重要なのではない。
さて、この「行って帰っ」てきて、「成長」や「報酬」を得るというのは、ロールプレイングゲームの基本構造と非常によく似ている。
僕がRPGと言って真っ先に思い浮かべるのはドラクエⅢ(ファミコン版)なので、そういう話なのだけれど。
行って帰る、という構造は、言い換えれば「日常→非日常→日常」という流れである。
このときの「日常」というのは、主人公の立場や精神状態が安定的で、安心できる状態。
一方の「非日常」というのは、未知や不安や危険にさらされ、足場の不安定な状態。
「サスペンス」という言葉は「サスペンダー」という衣類部品にもあるように「吊り下げる」という意味で、主人公や読者の気持ちが宙に吊り下げられた状態、不安定で不安な状態を意味するらしい。
まさにRPGでは、街という「日常」からスタートして、モンスターの出現するフィールドやダンジョンで死闘を繰り広げるという「非日常」を体験し、また街に戻ってきたり、あるいは別の街に到着したりして「日常」に戻ってくる。
そして、その過程で経験値やお金がたんまり手に入っているという寸法で、「成長」や「報酬」を手に入れている。
これはコンシューマのRPGだけでなく、TRPGでも踏襲している流れだ。
(どちらが先か、ならこれをやった最初はD&Dのはずなので、TRPGなのだろうけど)
つまり、面白さを担保する基本構造が、RPGと冒険物語とで、非常に酷似している。
まったく同じものだと言ってしまっても差し支えないのではないかと思う。