十年も書けば
自分の実力のなさ、というか不安定さに、もどかしさを感じる。
何をやっていても、やっている途中にグラつく。
自分のやり方、センス、実力を信じて突っ走るということができない。
十年も書いていれば、実力もだいぶ安定するんだと思う。
十年間も、いろんなことを考えて、書いて、悩んで、成功して、失敗してを繰り返していれば、実力はつくと思う。
その頃には、信じぬくことのできる何かを、今よりもたくさん持っているように思う。
一万時間の法則を、僕は信じている。
どんなジャンルの天才も、ひとかどの成功をおさめた者は皆、それまでに一万時間以上の訓練を積んできているのだという。
今は毎日、少なくとも一日2~3時間程度は、小説(小説って呼ぶのにいまだにすごく違和感があるんだけど、ほかの気の利いた呼び方も思いつかないので、まあ小説と呼ぼう)を書いているか、そのための思考や調べもの、勉強をしたりしている。
一年間、365日ほぼ毎日これをやっているから、一年間に1000時間は小説を書くか、その補助的な何かをしている。
今のところ、本格的に書き始めて二年というところだ。
今と同じことをあと八年も続けていれば、確実に実力はつくと思う。
そしてそれは、多分できると思う。
そう信じられるぐらい、今の生活は楽しい。
ただ、お笑いとかと同じで、エンタテイメントというのは、必ずしも「実力のある者」が勝つ世界ではないと思っている。
少なくとも、訓練を重ねることによって得られる「実力」は、必ず面白いものを書けるようになる万能の武器にはなりえないと思っている。
だから、「実力」を得た八年後の自分よりも、今の自分のほうが「面白い作品」を書ける可能性はあると思う。
逆に言うと、八年後の自分が必ず今より面白いものを書けるようになっているかというと、そんなことはないと思う。
読者の多くが何を面白いと感じるかというセンスや大衆感覚のようなものを失ってしまえば、おそらくその先に待つのは「老害」としての自分だ。
積み重ねてきた訓練が、報われなければならないと考え、そればかりにしがみついてしまえば、多くの読者にとって面白いと思える作品を書く能力は、訓練を積むたびに低下すらしうると感じる。
だとするならば、圧倒的に足りない実力のまま、実力者たちと戦おうとする姿勢だって、必要なんだろう。
自分が100%の実力を得るまで待っていたら、もうその時には人生は終わっている、そんな風に思う。
それでも、少しでも確からしい何かが欲しいと思うから、少しでも確からしい「実力」を求めて、僕らは訓練を積むのだろう。
その積み重ねの上に胡坐をかきさえしなければ、それはきっと僕らの力になってくれると、信じているから。




