初恋~橋崎千春の場合~
最初はぶっちゃけ、興味なかった。
興味がなかったというか……少なくとも関わろうとは思ってなかった。だってあたしにはサッカーがあったから、他の事に現を抜かしてる暇もなかったし、抜かすつもりもなかったし。
その上、あたし達の家にはあいつが来る前にもう一人、あたしの一歳上の姉になる家族が増えていた。それだけでも中学生だったあたしには理解が追いつかなくて四苦八苦したっていうのに。
まさか家族がもう一人増えるなんて。
まさか同い年で仲良くなるなんて。
まさか――特別な感情を抱くなんて。
思ってもみなかった、が普通でしょ。
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中学一年生の春から、あたしは部活動で男子に混ざってサッカーをやっているような女子だった。
あまり中学校で女子サッカー部があるような地域じゃないのはわかっていたし、それでも同級生や先輩に何人か女子部員がいたから、何不自由なくやっていけたし。
文句も不満もなかった。それは周りも同じだと、信じていた。
「いやー! 今日の練習も疲れたね!」
その時あたしには同じサッカー部の、仲の良い友達がいた。他の同級生よりも特に仲が良くて、いわゆる『親友』と呼ばれる間柄だったのかもしれない。お互いに確かめ合った事はないけど。
きっとそういうのって、確かめ合うものでもないと思ってたし。
「ねね、千春! 帰りにどっか寄って行こ!」
中学生らしい普通の関係。友達と帰りにどこかで遊んだり、話したりなんていう何でもない日常が何よりの宝物だった。だから非日常なんて望まないし、今のままで十分幸せで。
そう、思っていたのに。
――そんな日常は、ある日突然変わってしまった。
平日の部活帰り、家の前に知らない車が停まっていた。お客さんかな? と首を傾げて鍵を使って家に入れば、玄関には見たことのない靴が二人分。ハイヒールと白の運動靴。
「ただいまー」
リビングの扉を開けながらそう言えば、ソファーには家族四人と知らない人が二人。
お父さんにお客さんなら納得できたけど……稟香も加えての四人っていうのは、何となくただ事じゃないんだろうなってくらいの予想はできて。
「おかえりなさい、千春」
でも咲紀が笑顔で「おかえり」って言ってくれるから、そんなに大事でもないのかな、それともまだ話は始まってないのかな。なんて事を考えながらとりあえず空いていた飛鳥の隣に座る事にした。あたしがいて良い話なのか知らないけど、ここに全員が集合している時点で、多分あたしもいなくちゃ駄目な話なんだろうなって予想はついていて。
誰が何を言い出すんだろうって黙って待っていたら、口を開いたのはお父さんだった。
「……千春も帰って来たところで、お前達に報告がある」
ああやっぱりあたしが帰って来るまでは他の誰も、何も知らない状態だったんだ。
これから告げられる、あたし達のこれからを。
「実はな、父さんはここにいる高津遼子さんと再婚しようと思うんだ」
………………………………は? というのが第一声にならなくて良かった。
心ではもちろん不満全開で言ってやったけれど。
いや、だって。
何それ。おかしいでしょ。
だってつい数週間前に稟香の母親と再婚したんでしょ。確かに稟香の母親はすぐに離婚して出て行った。それはまるで稟香をこの家に預けることだけが目的のように、本当に、すぐに。
だからってそんな……。
ちらりと視線を流してソファーの反対側に座る稟香の表情を窺おうとするけれど、視線で飛鳥に止められる。
目が「駄目だ」と語っていて、萎縮して視線を前に戻す。そこでようやく、あたしは目の前に座る二人――高津遼子さんと、その子供と思われる男を見た。
見た、というよりは観察した、と言う方が正しいのかもしれない。
高津遼子さんと呼ばれた女性は少しばかり痩せた体つきで、常に穏やかな微笑みを浮かべている。優しそうだし、温かそうな人。
そしてその隣にいる男は、顔を伏せていて表情がわからない。歳は同じくらい……? か、あたしより上か、といったところ。座ってるから身長もわからないけど、多分飛鳥よりも高いと思う。
「それでな、遼子さんの息子さん――隣に座っている圭兎君がこれからお前達の弟になるからな」
お父さんにそう言われ、そして母親に促されて、圭兎は会釈をするように更に頭を俯かせた。そしてそのまま動かないから、表情はもっとわからない。
それから何やかんやと説明があって、お父さんに「部屋に戻っていいぞ」と言われたのは帰宅してから一時間以上が経った頃だった。
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部屋に戻っても、ずっともやもやしていた。
新しく弟になるという圭兎のことも――稟香のことも。
話が終わって部屋に戻る時、稟香の表情は髪に隠れて見えなかったし、今日は帰ると言った圭兎の顔も見る事が出来なかった。
二人がどんな表情だったかはわからないけど、きっと似たり寄ったりの表情だったんだろうな。
「はぁ……っ~~~!」
言いようのないもやもやが体中を駆け巡っている。
気になる。稟香は今、すぐそこの自室にいるんだろうから会おうと思えば会える。でも、なぁ……。
会ってくれるはずがない。
この家に来た時、酷く塞ぎ込んでいた稟香が。
やっと少しずつ心を開いてくれるようになったのに。また稟香が来た当初のような、塞ぎ込んだ稟香に戻ってしまうの? それだけは、嫌。ようやく笑顔も見られるようになって会話だって弾んできたのに。
気が付けばあたしは、サッカー以外の事も考えるようになって。
――やるせない気持ちを抱えたまま、少しずつ時間は進んで行った。
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圭兎(あたしと同い年らしい)が家に来てから、大きく変わった事があった。
大きく、とは言ってもあたし達の家ではそれが珍しいというだけで、他の家庭からしたら何も驚くような事ではないんだろうけど。少なくともあたしは、『そこ』を使う人を十三年間生きていて初めて見た。
――圭兎は、よくテラスにいた。
何か意味があるようにも見えないし、何の意味がないようにも見えない。夜、夕飯を食べ終わってからとか、休日とかは常にテラスにいたと思う。来たばかりの頃は、「まだこの家に馴染めなくて居場所を求めているんだろう」くらいにしか考えていなくて、それは他のみんなもそう思っていたようだ。
実際に、圭兎が家に越して来た当初は誰も圭兎に声をかけていなかった。それは少しの間続いていて、きっと圭兎もこっちの方が良いんじゃないか、なんて勝手に決め付けていたあたし達。
しかし、たった一人を、除いて。
咲紀だけを、除いて。
どうしてか咲紀だけは少し時間が経ってから、圭兎をやけに気にかけていたし、実際に誰よりも接触していた。まるで圭兎が来たばかりの頃の無干渉が嘘のように。
圭兎がテラスにいる時は必ずと言って良い程、隣には咲紀がいた。テラスに出て、咲紀はいつも圭兎に話題を持ちかけていたし、圭兎も徐々にそれに応えるようになっていって。
最初は全く、無言だったのに。
咲紀が少しずつ、圭兎を変えていった。
それと同時に、咲紀も少しずつ変わっていたのかもしれない。だって今まで男の事ではしゃぐ事なんて一回もなかったはずで。それがある日、
「聞いて千春! 今日ね、圭兎君がねっ――」
って、咲紀が圭兎にテラスで話しかけてから初めて返答をもらった日、顔をこれ以上ないくらい綻ばせてあたしの部屋に突入してきた。咲紀は元から可愛らしい顔立ちをしているけれど、その顔が最大限に活かされた、女のあたしでも息が詰まりそうな笑顔だった。
相当嬉しかったんだろう。何日も何日も話しかけ続けて、ようやくもらえた返事が。
それから咲紀は、その日圭兎と話した内容を毎日あたしに教えてくれるようになった。好きな食べ物だとか、趣味だとか、得意な事だとか。おかげであたしは圭兎とあまり会話をしていないのに、圭兎の事に詳しくなっていて。
部活で帰りが遅くなっても咲紀は必ずあたしの部屋に来たし、いつもの笑顔を見せながら話をしてくれた。鬱陶しいとは当然思わなかったし、むしろ疲れているあたしにとっては咲紀の笑顔は癒しにもなっていたから。
咲紀が喜んでいるのは、あたしも嬉しい。
ただ単に、そう思って咲紀の話に耳を傾けていた。
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――あたしの毎日は、あまり変わらない。
周りが変化して、進んで行く中で、やっぱりあたしにはサッカー以上に夢中になれるものを見つける事が出来なくて。まあ別に不満なんてないし、サッカーさえあれば良いと思っていた。
そんな、中学一年の夏だった。
とても大事な、サッカー選手としての将来に大きく影響する試合。
――あたしは、絶望を知った。
仲間からの裏切り。今までの努力が崩壊した瞬間。人の、何年もかけて積み上げてきた努力は、こんなにも脆く、儚いものなのかと、思い知った。
その日あたしは、何よりも信頼していた『サッカー』を失った。
「何で……」
そう呟いた声は、誰かに届いていたのか。
膝に走る激痛は、どうやったら和らぐのか。
痛い。痛い。痛い。
心が、痛い。
「千春! 千春!」
「千春さん! しっかりしてください!」
「千春! 大丈夫か!?」
あたしの名前を呼ぶ声がする。
咲紀、稟香、飛鳥、そして、
「――――――!」
圭兎の、声がした。
次に目が覚めた時、まず始めに視界に入ったのが咲紀の泣き顔で、思わず笑ってしまいそうになったのを覚えている。でもすぐに違和感を覚えて、顔からだけではなく、心からも笑っている余裕が消えていく。
足が、動かない。というか、ここは、どこ。
「咲紀……」
「千春っ! 大丈夫!? 千春――!」
泣き顔が、もっと歪んでいってしまって。ついに大泣きし出した咲紀の涙が何粒も顔に降り注ぐ。何で、どうして泣いてるの? 咲紀、泣かないで。
「咲紀さん、落ち着いてください」
そう言って咲紀の背中をさする稟香の顔も、今にも泣きそうで。
――ああ、そういえば稟香があたし達に打ち解けてくれるようになったのも咲紀が気にかけていてくれたからだと、どうして今そんな事を考えているのかわからないけれど、この状況から目を逸らせと本能が語っていたから。
だから、本当は知りたくなかった。
もう、サッカーが出来ないなんて。
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光を失った。
希望も夢も、一緒に。
先がない。
もうあたしには、何もない。
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「――――はぁっ……!!」
また、だ。
あの試合の日から、毎日同じ夢を見る。
グラウンドを駆け回ってサッカーをするあたしが、チームメイトに膝を蹴りつけられる。でもこれは夢なんかじゃない。本当にあった、事。
夢となって何度も、何度も「これは現実だ」と叩きつけられて、毎晩うなされて夜中に目が覚める。起きた時には動悸が激しくて、汗もびっしょりと掻いていて。そして極めつけは――
「痛っ……ぅ……」
膝が、痛む。
そんなはずはないのに。
痛み止めを飲んでいるし、効果はこんな夜中に切れるものじゃない。だから、おかしいのに。一度鋭い痛みが走って、じわじわと広がっていく。医者に相談しても、原因はわからないの一点張り。
手術は成功したんだ、と。
その言葉を聞いて咲紀が泣いた時、どうすれば良いのかわからなかった。
大丈夫と言いたいのに、言ってしまったらもっと泣く気がして。ずっと「成功したならどうして」と繰り返す咲紀を見ていると、あたしまで心が抉られそうになった。
あの試合の日から、毎日咲紀は泣いている。
お見舞いに来てくれて、最初は笑っているのに、すぐに辛そうな顔をして、泣いてしまう。
そんな咲紀を見るのは嫌だった。だって咲紀は笑顔が似合う人だから。泣き顔なんて駄目だよ。でも泣かせてるのは、あたしの怪我。動けないあたし。だから、だから。
もしもそれが原因でこの幻の痛みに悩まされているというのなら――。
もしもそれが原因で咲紀が泣いているのだというのなら。
――決心した次の日から、リハビリを始められるよう頼んだ。
まだ始めるのには少し時間が必要だと言われたけれど、その事を咲紀に話したらまた泣かれた。でも。
「良かった……! 良かった……千春、頑張ろうねっ……一緒に、がんば、ろ……っ」
泣いていたけど安心してくれていたみたいだから、少しだけ安心した。
――その次の日から、咲紀に笑顔が戻ってくれたから。
あたしの勇気が足りなかったんだと知って――幻の痛みも、消え去ったから。
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リハビリは想像を絶する過酷さを伴ったけど、家族の支えもあってどうにか乗り越えられて。学校への復帰には少し時間がかかったけど、普通に生活も出来るようになって。
でももう、サッカーは出来なかった。
怖かった。
グラウンドに、立てなかった。
スパイクシューズを、履けなくなっていた。
あたしに怪我をさせた子は――あたしが心のどこかで『親友』だと勝手に思っていたあの子は――転校していた。
「ふぁ…………何か、受験生って言ってもあんまり実感ないですね」
何もしないまま、中学三年生を迎えていた。
「アンタはどこの高校行くの?」
あたしと圭兎が中学三年生なんだから、必然的に他の三人はもう高校生な訳で。これまた必然的に、あたしは圭兎と登下校を共にすることになっていた。
「俺は……天川高校、かな……。千春は?」
天川高校って……咲紀と稟香が行った……。
「へえ……あたしは……翼川。飛鳥と同じとこ」
高校は、別なんだ。
まあ天川は地元でも通う人が多い学校だし、妥当と言えば妥当なんだけど。それにしてもやっぱり、あたしが怪我をしてからずっと支えてくれていた咲紀と稟香と圭兎と離れた学校に通うのは、寂しいと思う気持ちもあって。
「翼川? あそこってスポーツに力入れてるとこ――千春、何か始めるんですかっ?」
驚き半分喜び半分?
圭兎の顔が少しだけ輝いて。
「え、ま、まあ……何かは、始めたいなって」
あたしも、変わりたかった。
もう一度だけでもいいから見たい景色が、あった。
「そっか……俺、応援してますから」
応援すると言ってくれる人が、こんなにも近くにいるから――。
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翼川に入学して――入学するまでは相当大変だったけど――あたしはバスケを始めた。
高校から始めるという事で、中学までに始めていた子達との差は当然あって。だからあたしは努力した。今度こそ、絶対にあんな思いはしたくない。あんな痛みを味わいたくない。
頑張って、頑張って、頑張った。
頑張ったら、咲紀が笑ってくれた。
前みたいな笑顔で、あたしの頭を撫でてくれた。
飛鳥も安心した顔で見守っていてくれた。
稟香も……あまり多くは語らなかったけど、困った時とかにいつも話を聞いてくれた。
圭兎は、ずっと応援し続けてくれた。
応援してくれていたのはもちろん圭兎だけじゃないし、それだけで頑張れていた訳でもない。でも中学生の頃、リハビリが上手くいかないあたしの事を、いつも最後まで見ていてくれて。
学校に復帰して(ただでさえ苦手な)勉強についていけないあたしの勉強の面倒を見てくれて。
何だかんだでいつも、支えてくれて。
だから圭兎に応援されたら頑張れる気がした。
――だって、ずっと見ていてくれたから。あたしの事を、きっと理解してくれているはずで。
圭兎のかけてくれる言葉なら、何でもそうなる気がして。我ながら馬鹿みたいに単純だなぁとも思うけど、それでも何故だか頑張れたのは……きっと圭兎のおかげで。
たくさんのありがとうを伝えたいのに、素直になれない。でもそんなあたしでも傍にいてくれたから。
「千春――バスケ、頑張ってください」
「――うん、頑張る」
だからありがとうを言う代わりに、あたしの頑張る姿を見てほしかった。
圭兎の応援のおかげで、こんなに頑張れてる……って、知ってほしい。
自分でもわからないけど……いつしか圭兎が、特別な存在になっている自覚だけはあった。
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高校に入学してからのバスケをしている日々は、充実していた。新しい環境。新しい仲間。新しい目標。新しい事は全てが新鮮で、毎日が刺激的だった。
家族が支えてくれて、応援してくれて。そんな幸せな事ってないでしょって、あたしは胸を張りながら体育館を走り回っていた。頑張ってるんだよって。あの時に――サッカーをやっていた時に――負けないくらい笑って走ってるんだよって。
残念ながらその姿を見られるのは同じ学校に通っている飛鳥しかいないんだけど。
圭兎とも咲紀とも稟香とも学校が離れてしまったから。
だから、ね。
いつか絶対に、試合を見に来て。
それまでに誰よりも上手くなってみせるから。
――あんたの応援で頑張れたあたしの姿を、見てほしい。




