初恋~橋崎咲紀の場合~
小さい頃から、あまりわがままを言わない子供だって周りの人達に言われて育ってきた。もちろん心の中では小さなわがままも大きなわがままを言った事はある。でもそれを口に出さなかったのは、わかっていたから。
何でもかんでも、上手くいくはずはなくて。
そんな事を頭の中では十分に理解していた……理解しているからこそ。
やるせない気持ちが募っていく。どうして上手くいかないんだろう。どうして駄目なんだろう。もっと上手く出来るはずなのに、やり方が下手なのか、ちっとも前に進めない。
でも私が悪いのって、ずっと言い聞かせていた。
言い聞かせていたから、わがままを言う必要だって、なかったの。
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稟香ちゃんが橋崎家に来てくれて、そして稟香ちゃんのお母さんが出て行ってから、数週間が経って。ようやく塞ぎ込んでいた稟香ちゃんの顔にもそれなりに表情が戻ってきていた。その事に酷く安心したし、同時に少しだけ不安にもなった。
もしもまた稟香ちゃんが心を閉ざしてしまうような事が起こったら、次も支えてあげられるかわからない。本当にそうなった時、私はもう一度稟香ちゃんの表情を取り戻す事が出来るのか。
そんな不安を、心に抱えていた。
本当に、嫌な予感はよく当たるもので。
こういう時に限って私の勘は鋭くて、嫌になる。
「――実はな、父さんはここにいる高津遼子さんと再婚しようと思うんだ」
リビングのソファーでそう告げられた時、隣に座っている稟香ちゃんの全身が強張ったような緊張感と圧迫感を感じた。明らかに漂ってくる雰囲気が違う。怒り。悲しみ。焦燥。ありとあらゆる負の感情をごちゃごちゃに混ぜ込んで燃え滾る炎で焼き尽くすような、どす黒い感情。
隣にいるだけでこんなにもひしひしと伝わってくるソレに、思わず上体を揺らしてしまった。だってこんなの、怖い。稟香ちゃんなのに、怖い。
でも、私は支えたいって決めたから。
「……稟香ちゃん、大丈夫?」
かけた声は、震えていなかったか。そっと稟香ちゃんの背中に回した手は、震えていなかったか。稟香ちゃんの心の不安を取り除いてあげたいのに、私がこんなんじゃ、駄目、なのに。
そんな私に、稟香ちゃんは小さく頷き返してくれる。
こんな私なのに稟香ちゃんは優しくて。安心と申し訳なさがどっと押し寄せてくる。
ごめんね、稟香ちゃん。ごめんね。
目前にいる『新しい家族』の事よりも、私には隣にいる稟香ちゃんの事しか、頭になかった。
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人生で二度目の、家族が増えるという出来事に最初は目を丸くした。けれどすぐにそれどころではなくなって、私は目の前の事から目を逸らしていた。今はとにかくすぐ傍にいる人しか支えられないって勝手に決め付けて、これからの事を放置していた。
だから、それが祟ったのかもしれなくて。
「まあ……思ったよりは平気ですね。玄一さんや高津さん達が悪い訳でもなければ、母の事が憎い訳でもないので」
何かを飲み込むような顔をしてそう言った稟香ちゃんは、本人も言っている通りで見た目は平気そうだった。「見た目は」と言うのも、やっぱり人の心を完璧に読むなんて事は出来ないので正直に言うとわからない。
でもあの頃――稟香ちゃんのお母さんがいなくなった時みたいに「一人にしてください」とか、そういう直接の拒絶の言葉がなかったから、本当に平気なのかもしれない。
「それよりもあの……圭兎君、の方が私は心配ですけど」
「へっ?」
そう言われて、稟香ちゃんにそう言われて初めて、私は今まで目を背けていた事に直面した。
家の中で圭兎君の姿を探してみても、見当たらなくて。
あれって思った時にはもう遅かった。私が稟香ちゃんの事ばかりを考えて圭兎君の事を考えていなかったから――圭兎君は居場所を探せなくて、毎日の大半の時間をテラスで過ごしていた。
知らなかった、では済まされなかった問題。
私の、せいだ。
初めてテラスに佇んでいる圭兎君の背中を見つけたその日、私は息が詰まって動けなくなった。
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どうして気がつかなかったんだろう。
どうしてこんなにも私は後悔の多い行動をしているんだろう。
「………………」
今日も圭兎君は一人でテラスにいる。何かを待っているのか、全てを拒絶しているのか。わからないけど、話しかけなきゃって。そんなのただの自己満足でしかないし偽善者だって言われても仕方ないと思うけど、心配はしているから。
散々放っていたのに、心配してる、だなんて。
自分勝手が過ぎるけど、私は一歩テラスへと足を踏み出した。
「――寒く、ないの?」
私が声をかけたら、圭兎君は驚いたのか肩をぴくりと震わせた。当然驚かせるつもりはなかったから、心の中で反省して驚かせた事に対して「ごめんね」と謝る。
一体、何に対しての謝罪なのか。本当に驚かせた事に対してだけ? そう自問自答をして、すっと目を伏せる。……謝罪したって、何に対してなのか言わなきゃ伝わらないのに。謝るだけ謝るだなんて、本当に私は卑怯で。
「あ、の……私、咲紀っていうの。二年生だから……いっこ上かな?」
そう声をかけてみても、圭兎君からの反応は一切ない。声を発する事も、頷く事も、ましてやこちらを見ようともしてくれない。それが当然の報いで、私にどうこう言う資格はもちろんない。
沈黙の空間が居たたまれなくて、でもここに来てしまったからもう逃げ場はなくて。どうして無言なのかな……ここに来た時に稟香ちゃんと同じでそっとしておいてほしいとか、そういう事、なのかな……。
事実、今の今までずっと何も干渉してこなかったんだから。
何を今更と思うに決まってるんだ。
だから、ね。
悪いのは私でしょう。
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「――今日ね、午前中にクッキーを焼いてみたの」
何を話しても、何を訊いてみても、何をしてみても、一向に何も返ってこない。本当に何も、視線すらも向けてもらえなくて、こうなると焦るしどうすれば良いのか検討もつかない。
それでも隣に居続けて、圭兎君がテラスにいる時は私もテラスに出て話題を持ちかけるようにした。圭兎君が反応してくれないのは私の話題がつまらないから。きっとそうだと、そう思う事でしかこの気持ちの行き場を受け止めてくれる場所がなかった。
「あんまり美味しくないかもしれないけど……もし良かったら、食べて?」
今日も、何も言ってもらえなくて。何も、起きてくれなくて。駄目かぁと、もう何日目の何回目になるかもわからない溜め息を飲み込んでクッキーの包みをテーブルの上に置いていつものように「風邪引かないようにね」と付け加えてリビングに戻ろうとして。
「――ありがとうござい、ます」
正直言うと、幻聴かと思った。
あまりにも反応を求め過ぎていて、それで勝手に聞こえた事にしようとしていたんだと。
そう、思って。
でも私は幻聴を引き起こせる程、圭兎君の声を知っていなくて。
私は、何にも知らない。
本当に――最低で。
何も知らないから知ろうと思った。
どんな声なのか、もう一度聞かせてほしい。今度はちゃんと、間違えない。もう圭兎君を一人にはさせないって。ちゃんとするから。
「――っ、クッキー! ……好、き?」
自分が思っていたよりも私は動揺していたようで、振り向き様にそう問いかけると――
「――ふっ」
圭兎君が、笑った。
いや、違う。
私が笑われた、んだよね?
馬鹿にされているはずなのに、アクションが起きた事がこの上なく嬉しくて。それと同時に、泣きそうになって。だって圭兎君が喋ってくれただけじゃなくて笑ってくれた、なんて。
そんな……嬉しすぎる事ってあるのかな。
これが現実だと、確かめても良いのかな――。
「わ、笑わないでよ……っ」
たたっと圭兎君の横に駆け寄って、その顔を覗く。
私よりも高い位置にあるその顔はやっぱり笑顔になっていて。笑った、というよりは思わず零れてしまった、という感じだったけど。それでも良くて。
良いの。
「すみません、つい」
やっぱりかと思うけど、それすらも嬉しいんだからもうどうしようもない。
「それと、ごめんなさい」
もうこれだけでも十分なのに、もう一度謝罪を重ねた圭兎君が申し訳なさそうに目を伏せるから。「それと」って事はきっと別の件で謝っているんだと思うんだけど、全く心当たりがなくって。
え、え、としどろもどろな私に圭兎君はもう一度私の目を見てからその頭を私の胸の位置くらいまで下げてさらに「ごめんなさい」を重ねた。
「え、な、何っ? 私、謝られるような事――」
「ずっと……! 無視、してたから……ごめん、なさい」
「っ――」
そんな、だって悪いのは私で。だから……だから。
「わた、し……。だって、ずっと圭兎君の事……放置、して……それでいきなり話しかけたりして……私、最低、なのに……っ」
だから、謝らないで。
「それでも、それからはずっと話しかけててくれたじゃないですか。俺はそれだけで……」
だから、優しい言葉をかけないで。
心が揺れ動いて、泣きそうになってしまう。私がしているのはそんな、褒められたようなものじゃない。ただの自分勝手な自己満足。だから圭兎君が謝る必要なんて、ないのに。
「ずっと気にかけて、くれて……ありがとうございました」
そんな優しい声で、顔で、そんな事を言われてしまったから。
――胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
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幸せだと、確かにそう思えた。
だって『家族』と分かり合えたから。
でも、でもね。
圭兎君との話が終わって部屋に戻っても、心が落ち着かない。
あれからも少しだけ話をする事が出来たし、それ自体は本当に嬉しかった。でも心の底から喜べないのは、きっと誰ともこの喜びを分かち合えないから。
テラスからリビングに戻った時、あまりの静寂さに泣きたくなった。同時に、私も稟香ちゃんに言われる前まではこの静寂に包まれていたんだと思うと、怖くもなった。この静けさの中にいて、本当に私は何も気付かずに生活していたなんて。
本当にごめんなさいと、謝らなければいけないのは私の方で。
今日、変化があったから。今日からはちゃんと私が変わるから。
せめてこの熱が冷めてしまわない内に誰かに話したくて。私は何かと気にかけてくれていた千春の部屋へと足を運んだ。千春は興味ないかな、でもきっと聞いてくれるから――そんなずるい気持ちを抱えたままに。
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一昨日は十五分で、昨日は二十分くらい。
段々圭兎君と話す時間が増えていって、圭兎君の事も少しずつ知れて。だから私は思い切ってある提案をしてみたの。
「――ねえ、圭君って呼んでも良い……?」
今日のお話も終わりかな? ってタイミングでこんな事を提案する私は、やっぱりずるくて。本当にずるいよね……でもね、私なりに近づきたいの。
そんな意味を込めて圭兎君を見上げたら、少し驚いた顔をして私を見つめていた。
「えっと……」
困惑している顔を見て、やっぱり迷惑かな……と心がざわついてしまって。どうしよう、今からでもなかった事にしちゃった方が良いのかな……。
どうしようどうしようと、自分から言い始めた事なのに思ったよりも空気を重くしてしまって少しだけ視界も滲んでしまって。あれ、どうして私こんなに必死なのと、そんな事ないって誤魔化したくて思わず目を逸らしてしまう。
圭兎君は良いって言ってくれるかな――。
少しだけ高鳴る鼓動に気付かない振りをして耳を澄ませて待つ。
「ま、あ……別に良いですけど……」
私が求めたんだけど――いざ了承を得たらそれはそれでパニックになってしまいそうで。混乱する頭を落ち着かせようと頑張って気付かれないように深呼吸をして。
「あ、りがとう……っ」
出てきた声は震えていてちゃんと届いたかもわからない。
あだ名をつけるなんて人生で初めてで。
そもそもあだ名にすらなっていないかもしれないけど……。
やだ。嬉しい。
「ね、呼んでみてもいい?」
私が言い出したんだから、私が呼ばなくちゃ。
緊張しすぎて口から心臓が出てしまいそうで……でもそれは私だけじゃなくて。優しく「どうぞ」と言った圭兎君の言葉もどうやら震えているみたいで。私達って似たもの同士なのかな、そうだと嬉しいねって気持ちを込めて、ありったけの思いを詰めて。
「――圭君」
呼んで、はっとしたの。
名前を呼ぶだけなのにこんなにも手に汗をかいて、目も合わせられない。
圭兎君が……圭君が「はい」って返事をしてくれて、それがどうしようもなく嬉しい。
「圭君、圭君……」
この気持ちを確かめるように何度も名前を呼んで、圭君に笑われた。
「何ですか?」
って。とびきり優しい声で言うから。
何でもないのに、何度も呼びたくなっちゃったの。
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私が中学三年生の秋頃。担任の先生には「特に心配ない」と言われていたけど、やっぱり受験も迫ってきていて自信とか余裕とかが徐々に削られていく季節。
それでも日頃からの習慣はそんなに簡単に変えられなくて。私は周りのクラスメイトがいそいそと帰路に着く中で、一人商店街へと足を運んでいた。
圭君のお母さんが来てくれてからはお手伝いをする、くらいだったんだけど。お母さんが亡くなってしまってからは、家事を出来るのが現状私だけという事で夕飯を作るのは主に私の仕事になっている。その他の家事も大体は私がやるけど……掃除とか洗濯とかは稟香ちゃんも手伝ってくれる。
でも料理は……。うん、出来る人がやれば良いと思うの。
だからそういう訳で今日も晩御飯の食材を調達しようと商店街に向かったんだけど――。
「――あっ、圭君!」
普段はそこでは見る事がなかった背中を見つけて、ついつい大きな声を出してしまう。
「あ、どうも」
私の声に反応した圭君がこちらを振り返って軽く頭を下げる。まだ少しばかりよそよそしい態度も、今は目が合う分、出会った当初よりも打ち解けてくれているんだと思う。
その事にまた胸が弾んで。
何か最近、こればっかりだなぁ……。
「珍しいね。何か買い物?」
自然と隣に並ぶ形になって、動揺してしまう。
いや、私が駆け寄ったんだけどね……。
あれー……?
「ちょっと本屋に行こうと思って」
対する圭君は随分と自然な対応で。
それが普通なんだけどね。変に焦ってる私がおかしいんだけど。
「あ、そうだ、私も買い物あるんだけど、一緒に――」
行かない? と続けようとして、続けようと……して? 止まってしまった。
別に一緒に買い物するくらい普通だよね? 姉弟だもん……。
――姉弟、なんだもんね。
無意識に思った言葉に、胸をちくりと刺された気分になる。
「一緒に、行きますか?」
「えっ」
今日だって、私から言い始めた事なのに。
動揺するのも私、なんて……。
「あ、いや……違いましたか?」
そして圭君を困らせるのも、私。
「う、ううん! 違うのっ……あ、えっと……この場合は違うのが違くて……」
支離滅裂な言葉を並べて身振り手振りで何とかわかってもらおうとして――なのに肝心な言葉は全然口から出てくれなくて――きっとこうしている今も圭君を困らせているんだって、わかってるのに。
あたふたとし始めた私に、圭君は更に困ったような顔を浮かべているから。
「えっと……あぅ……ご、ごめんなさいぃ――!」
「え、ちょっ……!?」
恥ずかしさが頂点に達して、逃げ出してしまった。
――その日の夜。
「あの、圭君……今日はいきなり逃げ出したりして本当にごめんなさい……」
今日も今日とてテラスにて、私は最初に謝罪の言葉を口にした。内容はもちろん今日の商店街での事で。どうしてあんな事になったのか……はそこそこ自覚もしてきていて。
でも、だからって逃げ出してしまったのは私が悪いし、謝らなくちゃって思って夕飯の支度をしている時にどうやって謝ろうかでずっと頭を悩ませていた。結果が率直に謝る事になったんだけど……無難な選択をしたんだけど。
「俺は大丈夫ですけど……何かあったんですか?」
やっぱり優しい圭君は私の心配をしてくれる。その優しい問いかけに私は「何もないの」と答えなければいけないのに。何も言葉が出てこなくて……本当に駄目なお姉ちゃんだなぁと泣きたくなる。
こんな気持ち、認めたくないのに。
嘘だって、そういう事にしてしまいたい。
「……? どうしたんですか?」
いつまでも黙っている私の顔を、圭君が覗きこんでくる。
それだけで私の心臓はこんなにも――。
「ねえ圭君」
「何ですか?」
こんなにも――騒がしくなって。
言えたら楽なんだろうけど。言ってしまえればそれですっきりするんだろうけど。やっぱり姉弟で、なんておかしいよねって自分の中で解決してしまおうとするから。
だから一つだけ、せめて一つだけ。
「――名前、呼んでほしい……な」
まだ一度もその声で呼ばれた事のない私の名前を、呼んでもらいたい。
人生で数え切れる程しか言ってこなかったわがままを、今ここで。
今言えたから。どうせ上手くいかないから、そんな事は理解しているから、と諦めてきた事を、今だけは諦めたくない。やっと、怖くても認めたいと思えたこの気持ちを、なかった事にしたくない。
だから、名前を呼んで……?
そうしたらきっとこの気持ちを、ちゃんと認める事だって出来ると思うから。
「えっ?!」
酷く驚いた顔をした圭君は、夜だから下手したら見逃してしまいそうなくらい僅かに、頬を染めて目を逸らした。ここ最近で私が何度もしていたであろう顔を、圭君がした。
信じられないけれどそれは事実で。その仕草に勇気をもらってしまう。
だってそれって、少しは近づいてるって事なんだよね……?
「駄目、かな……?」
近づいてるってわかっててこういう訊き方をするのはずるいって、わかってるんだけどね。
「駄目ではない、ですけど……」
染めた頬を隠すように右手の甲を口元に持っていった圭君に「お願い」ともう一押しして、あとは待つ事に徹する。だって……こうしたらきっと言ってくれるでしょ……?
本当に、ずるい。
圭君と話し始めてから、私は性格が悪くなってしまったようで。今までならこんな事、言ったりしなかったのに。願ったりしなかったのに。想ったり、しなかったのに。
わがままだって知ってる。わかってる。理解もしていて。諦めなきゃいけない事だって、十分にわかっているのに。それ、なのに――。
それでも、呼んでほしいの。
――そしたら、私も。
「咲紀、さん……」
この想いを――恋と呼べるから。




