初恋~橋崎稟香の場合~
私が『橋崎稟香』になると聞いた時、目の前が真っ暗になると同時に少しだけ嬉しかったのを覚えている。
母親の再婚は、これで何度目だったか――考えるだけで頭痛がするというのに、懲りずにまたするなんて、やっぱり私には理解ができなくて。でもお母さんが幸せになるというのなら、私は別にどこに連れて行かれようが構わない、とは思っていた。
子の幸せは親の幸せ――なんて聞いた事があるけど、それって結局逆もまた然りでしょう?
だから次の家でも私はお母さんの為にいい子でいようと思っていた。
でもそう思って想っていたのは、私だけだったみたい。
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お母さんが、出て行った。
理由はどうやら父親――橋崎玄一さんと上手く行かなかったようで。ほぼ毎日のようにリビングから怒声に似た何かが部屋まで響いていた。
またなのね、と思う事を止められない。前も、その前も、ずっと前だっていつもお母さんは新しい父親と喧嘩をして出て行く。そこには当然私もいる訳で、新しい家に引っ越してはすぐに出て行く、なんて事がとても頻繁に起こっていた。
だから相手の家族からしたら驚かざるを得ないのだろうけど、私にとってはそれこそもう『いつも通り』くらいにしか思えなくて。むしろ「この家ではお母さんは幸せにはなれなかった」と思えば出て行くのも当然のような気がした。
――稟香は大人ね。
そう言うお母さんの優しい声が、大好きで。
だから私は精一杯大人を演じていた。
それ、なのに。
「稟香、あなたはこの家に残りなさい」
――そう言って橋崎家から出て行ったお母さんの声と背中が、忘れられない。
何で、どうして。だって今までだって私はお母さんと一緒にいたのに。
あの日、私が橋崎家に取り残されて。
私は酷く心を閉ざした。
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お母さんが出て行ってから、転入することになった中学校での日々は苦痛でしかなかった。
風景が全て灰色に見えて、興味本位で近づいて来る女子も、下心丸出しで寄って来る男子も、私には見分けがつかなかった。というよりは、目の前にいるのに視界には入っていなかった。
そんな日が、続いて。
――転入してすぐに、名前も知らない男に告白された。
放課後の校舎裏に呼び出された、ベッタベタな告白。
展開が読めていたから、校舎裏までの道のりでどう断ろうかをずっと考えていたくらいには、興味がなかった。前の学校で使っていた常套句でも使ってさっさと帰ってしまおう。
「橋崎、俺……橋崎の事が好きみたいなんだ。付き合ってください」
彼の名前は何だったか……。クラスでは顔良し・性格良しで人気があると聞いた事があったような気がする。
曖昧な記憶を辿って、でもどうせ断ってしまうのだから彼の情報などどうでもいいか、と思って口を開いた時――
『稟香、あなたはこの家に残りなさい』
どうして、今。
お母さんの言葉を思い出したのか。
どうしてお母さんは私を置いて行ったのか。
もう一度、会いたいのに。
ああ――私が大人じゃなかったから。
お母さんの気持ちを、わかっていなかったから。
ねえお母さん、私が恋を知れば――お母さんに少しでも近づけば――
「…………………………よろしく、お願いします」
――戻って来て、くれますか?
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そういう経緯で付き合い始めた彼だから、もちろん上手く行くはずもなかった。
きっとお母さんもこういう事だったんだろうな。くらいには思えたけど、私とお母さんでは決定的な違いもあって。
「……稟香さ、俺といても楽しくない?」
楽しくない。この二週間、一緒にいる時間は他の誰よりも多くあったというのに。
――そんなの、当たり前だ。
私の事を好いて告白してくれた彼。
対して私には、彼への気持ちがこれっぽちもない。
「………………ごめん、俺達別れようか」
正直言って、安心した。
目に見えない何かから解放されたような、そんな錯覚さえ覚えて。
でも最後までわからなかった。
お母さんは一体、何を求めていたんだろう。
そんな事、恋を知らない私には、わかるはずもなかった。
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またいつの通りの日常に戻って、でもすぐにいつも通りではなくなった出来事。
――橋崎家に、圭兎君とその母親がやって来た。
リビングで二人を紹介された時、思わず唇を噛み締めていた。誰かが悪い訳じゃない。そんな事はわかっていたけれど、やるせない気持ちがあるのは仕方のない事だと自分に言い聞かせていた。
それでも正気ではいられなくて。玄一さんがあれやこれやと話している内容を全力で聞き流す為に、肉体的な痛みを与え続けて耐え忍ぶしかなかった。
お母さんは玄一さんの事を愛して再婚した訳じゃなかったのかもしれない。
でも玄一さんも、お母さんの事を愛していなかったのかもしれない。
そんなのって……。
「……稟香ちゃん、大丈夫?」
隣に座る咲紀さんが他の人には聞こえないくらい小さな声で私を気遣ってくれて、こんな状況でもこの人は優しいんだなと、伝える事は出来ないけれど、小さく頷く事で答える。
今、私の隣に咲紀さんがいなければ。声をかけてくれなければ。そっと背中に手をあててくれなければ。私はどうしていたかわからない。唇を血が出る程に噛んでいたかもしれない。叫んでいたかもしれない。暴れだしていたかもしれない。
――そんな事はしてはいけない。
だってこれは、制裁だから。
ただお母さんの気持ちが知りたくて、彼に対する心もないまま二週間付き合った私への、罪滅ぼしにもならない天罰なのだから。
そう思って、私は自分の心に蓋をすることにした。
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「稟香様っ!! 俺、飯門星太郎と申します! もし宜しければお付き合いしていただけないでしょうかっ!!」
中学三年生の頃の事。
一年も経てば流石に私の心も大分落ち着いてきていて、周りとのコミュニケーションも取れるようになって。
だから……なのかはわからないけれど、こうして交際を申し込まれる事もそこそこ多かった。
「ごめんなさい、お気持ちは嬉しいのですけれど――」
この学校でも使う事になった常套句を並べて、深く頭を下げると、前方にいる飯門君から「うがーーーー!」と叫び声が上がる。驚いて前を向けば、彼は天を仰いで頭をガシガシと掻いていた。
「あーーー! 玉砕したーっ! 稟香様! 俺、稟香様の弟の圭兎と同じクラスでそこそこ仲も良いんです! 今度一緒にいる時に話だけでもしてください!!」
「え、圭兎君と……?」
――そう言われてから、初めて下級生の事を気にかけるようになった。
気にかける、と言ってもそもそも教室のある階が違うから、廊下ですれ違う時に盗み見る程度。
朝、玄関で別れてから教室に行くまでの背中。移動教室で忙しなく廊下を移動している背中。昼休み、友達(飯門君もいたかしら)とグラウンドで走り回る背中。そして放課後、友達と一緒に帰っている背中。
注意して見てみれば、今まで気が付かなかった光景がたくさん溢れていて。
でもいつも、圭兎君の背中を見ている事しかなくて。
まあその内どこで笑っている顔でも見る事が出来るでしょう。って。
――無意識だけど、圭兎君の姿ばかりを捜していた。
「――それ、恋なんじゃない?」
昼休みの教室で誰かが誰かへと発した言葉に、ハッとする。
そういえば今の今まで考えていなかった事。
恋。……恋?
これが、恋……?
もしもこれが恋だとしたら……お母さんもこうしていたの?
そう考えた途端に、心臓が早鐘を打ち始めた。
こんな、こんな気持ちは知らない。
でも、ねえ……これが。
『恋』なの? 教えてよ――お母さん。
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「――稟香さん、今帰りですか?」
もやもやとした得体の知れない感情が胸中を駆け巡っていた冬の真っ只中。
こんなにも外は寒いのに、圭兎君の事を考えているだけで全身の温度が上がるような気持ちを抱えたままのある日。昇降口から出て今まさに帰宅しようとしていた私の耳に届いたのは、私の事を絶賛悩ませ中の圭兎君、本人だった。
「あら、圭兎君もですか?」
振り返ればそこには少しだけ疲れたような表情を浮かべた圭兎君が立っていて。
今日も笑顔は見れそうにもないかも、なんて馬鹿な事を考えていると、一緒に帰りましょうというお誘いを受けた。……特に断る理由もないし、一緒に帰る事になったのだけれど。
何となく、気まずい。
「やっぱりこの時期になると寒いですね……」
私が飽きてしまわないように、隣から話題を投げかけてくれる圭兎君に「そうですね」と素っ気無い返事をしながら、どうしてこうなるのか必死に考えていた。
隣にいるだけで気まずさを感じる。喧嘩をしている訳ではないし、何か生活をしている上で不満に思っている事がある訳でもない。
じゃあ、どうして。
「稟香さん? どうかしましたか?」
ぼーっと考え事をしていたら、いつの間にか圭兎君の顔が目の前にあって。
目の前? 何? と突然の事に理解が追いつかない。どうしてこんなに近くに圭兎君の顔があって、どうしてそれだけの事なのにこんなにも心臓が暴れだすのか。
わからない。知らない事だらけの感情。
だから、私は――。
「……ああすみません、虫が飛んでいるなと思ったら圭兎君でしたか」
「ひでえ!?」
――冷たい態度を取る事で、自分を守ったの。
わからない事は怖いから。
本当は知りたい。でも、今の私にはそれすらも怖いと感じてしまう。今のままの方が、言い表し難い感情は残ってしまうけれど……冷たい事を言っていれば、いつかうやむやに出来てしまうと。
圭兎君の方から離れていってくれるはずだ、と。
思って――。
「……美人だから余計に心に刺さるんですけど」
それ、なのに。
「び、じんって……」
圭兎君の言葉に、ぶわっと熱が頬に集まる。
何を言われたのか一瞬理解が出来なくて、反芻してみてようやく言われた言葉の意味がわかって。
まずいと思った。
冷たい態度が、崩れそうになる。
「――そ、んなナンパにホイホイついて行く程、安い女ではありませんよ?」
圭兎君の顔を見ていられなくて、目を逸らすように横を向く。
熱い。寒いのに熱い。
「ナンパって……」
困ったように呟いた圭兎君が、ぶつぶつと文句を言いながら歩を進めて行く。その背中を見ながら、私も止めていた足を前に進めて。
……あ、また背中。
最近いつも圭兎君の背中を見ている気がする。
気のせいなんかじゃなくて、事実なのだけれど。どうしてこんなにも背中しか見れないのかしらって首を捻ってみても答えがわからなくて。ならせめて、圭兎君はどう思っているの? って。
言えなくて、訊けなくて。
ただ圭兎君の背中を追いかける事しか、出来ないの。
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「――稟香ちゃん大丈夫? 具合悪いの?」
圭兎君に冷たい態度を取り始めてから数日が経った時。相も変わらず何の運命の悪戯なのか、やたらと学校から帰る時間が被ってしまって。冷たい態度を取るなら振り払うべきなのに、何故だかそうする事が出来なくて。
一緒に帰る道が、いつしか特別なものに思えてきてしまって。
そんな、ある日の事だった。
家に帰ってすぐ、出迎えてくれた咲紀さんにそんな事を訊かれた。そういえば最近、圭兎君に心配される事が増えたけど……そんなに目に見えてぼーっとしているのかしら。
自分の体調の変化にも気付かないくらい抜けているとは思ってなかったけど……。
「いえ、大丈夫です」
本当にどこか具合が悪いと感じている訳じゃないからそう答えたのだけれど、咲紀さんの目から心配の色は消えてくれない。冬の寒さで知らない内に体調が崩れていたのかもしれないし……今日はなるべく早く寝よう。
そう思って靴を脱いで部屋へと続く階段を上っていく。
――最近何だか、上手くいかない。
もう寝てしまおうかしら。夕飯……は喉を通るかわからないし。寝たら少しはこの気持ちの正体も、わかるだろうか。ずっと考えているのに辿り着けない答え。これが恋なのか、それとも全く別のものなのか。
考えれば考える程、頭が痛くなってきた。
やっぱり寝てしまおう。
倒れ込んだベッドの安心感と暖かさに、私はすぐに意識を手放した。
「――ん」
頭が、ガンガンする。
目を開けても視界がぼやけている。
あれ……私……。
――コンコン。
『稟香さん? 入っても良いですか?』
あれ? 部屋の扉の外から、圭兎君の声がする。返事をしないと、と思うのに上手く声が出てくれない。とにかく起きないと……。
ぼやける視界のまま、どうにか起きようと両手を顔の横について腕に力を入れる。――でも何故だか力が入らなくてただ少しベッドが沈むだけ。これじゃあ本当に具合が悪いみたいじゃない……。
何とか声だけでも良いから出したい。
――何でも良いから、早く。
「……けい、と……くん」
やっと絞り出せた声は、酷く掠れていて。
『稟、香さん? 入りますよっ』
ガチャリと音を立てて開いた扉の隙間から漏れた光に目を細める。
眩しい……光が目にしみてきて、頭痛が更に増した気がした。
「稟香さん、やっぱり具合悪いんですか?」
駆け寄ってきてくれた圭兎君の手が伸びてきて、私の額に優しく触れる。
ひんやりとした体温が額を通して伝わってくる。気持ち良い。少しだけ頭痛が和らいだような、そんな気分になっていく。もう少しこのままでいてほしい。
「けいと、くん……」
どうして優しくしてくれるの? 私は圭兎君に酷い態度を取り続けているのに。どうして呆れないの? どうして、今の私を受け入れてくれるの?
わからない。から、知りたいの。
知る事は怖いと思っていたけれど、今はもう、知りたいの。
教えてほしい。
傍にいるだけで治まらない動悸を。
こんなにも熱くなる体温を。
その意味を全部、教えてほしいの。ただ知りたいと願っているだけじゃいつまで経っても知れない気がするから。ただ傍にいるだけでは、もう遅いと知ってしまったから。
だから、ねえ――
「けいとくん」
――気付いたら勝手に手が伸びていて。
私に優しく触れていた圭兎君の手を取って、額からずらして頬に押し当てる。さっきよりは少しぬるくなってしまったけれど……それでも私の体温よりも断然低いから、縋り寄るように手に頬を擦り付けてしまう。
何をしているんだろう、私は。こんなはずじゃないのに。なのに……私の心が暴れる。自分から触れたくせに、恐らく圭兎君以上に動揺している。自分の意思に反して勝手に体が動いてしまう。
「り、稟香さん?」
頭上から圭兎君の上ずった声が聞こえてきて、胸が苦しくなる。ごめんなさいと――困らせてごめんなさいと謝りたいのに、声は出ない。
「――稟香さん、大丈夫ですよ。ちゃんと傍にいますから」
頬に触れさせた圭兎君の手の親指が、そっと私の目元を拭う。
少しだけ湿った感覚があって、これは何? と考える必要もなく、泣いている事に気が付く。
『――稟香は大人ね』
そうお母さんに言われたあの時から、泣くのは子供のする事だと勝手に結論付けて、泣かないように決めていたのに。圭兎君の前では、それすらも守り通せない。
嫌……大人でいないとお母さんは戻って来てくれないのに。泣いている場合じゃない、のに。
「……っ」
溢れる涙が、止まらなくて。
お母さんへの想いも圭兎君への思いも、いつの間にかどちらの方が大事なのか見分ける事が困難なくらい大きく膨れ上がってしまっていた。
圭兎君の事を考えるだけで、胸が張り裂けてしまいそう。体調が優れないから、では説明がつかない程に高まった体温の意味がわからなくて――でも本当はとっくに見当はついていて。
知っているけれど知らないときめきが、これ以上ないくらいに暴れている。
どくどくと、心臓が脈打って。熱くて。
あつくて。
「……え、て」
「稟香さん? どうしましたか?」
消えないこの胸の高鳴りが私を惑わせる。
「――――――――――おし、えて」
これが、恋なの?
教えて――圭兎君。




