七月八日――――夜~帰路~
「……帰りますか」
もう家を発ってから小一時間は経過している。そろそろ戻った方が良さそうだな……これから咲紀さんの誕生日パーティーだってあるし。
――そう思って言ったのだが、咲紀さんは一向に動こうとしない。
「咲紀さん?」
呼びかけても返事は無く、ずっと俯いたままの状態が続く。数分間そのままだったので、流石に心配になって顔を覗いた。
「咲紀さ――」
――俯いた咲紀さんの眉間には、皺が寄っている。ただそれは怒りとかではなくて、何かを堪えているようにも見える。
下唇を強く噛み締め、肩を小刻みに震わせて。何かを決心したように口を開いては、また閉じるを繰り返している。
……どうしたんだ? こんな表情をするのは咲紀さんらしくない。
「圭君……」
遂に顔を上げた咲紀さんの目には――熱い何かが灯っていた。
「は、はい」
――そして咲紀さんは、黙って目を瞑り、顔をこちらに向けた。
「っ――!」
この至近距離、手を伸ばせばすぐに届いてしまう。そして咲紀さんは自らそれを求めて来た……。
心臓が高鳴る。赤みを帯びた頬、背伸びをしている為に震える足。その全てが、今の咲紀さんを表しているようで。
――生唾を飲み込んで、肩に手を置く。その瞬間、咲紀さんの体がビクッと跳ね上がった。
一度、大きく深呼吸をして――いざ顔を近付ける。
お互いの鼻息がかかる程度の距離になり――もう届く。そんな時だった。
――ドンッ!
「へ……?」
ズザッ! と音を立てて、尻から地に。一瞬何が起きたのか分からず、目を見張る。
目の前には両手を突き出して立ち尽くす咲紀さん。そして尻餅をついている俺……。
――咲紀さんが俺を……突き飛ばした?
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「………………」
「………………」
お互いに無言のまま、帰路に着く。結局あれからは何も無く、ただ咲紀さんが「ごめん、ごめんね」と謝り続けるだけだった。
……正直、何が起こったのかは今でも分からない。
あの咲紀さんが俺を突き飛ばすだなんて、初めての事だったし……何よりそうする理由が見当たらなかったから。
「圭君……ごめんね……」
次第に家が見えて来たところで、咲紀さんは立ち止まった。それに合わせて俺も足を止める。
「いえ。大丈夫ですよ」
これしか言う言葉が見つからなかった。どうしてですか? と訊くのは何だか違う気がしたし……。
「圭君っ……ごめん……私……っ私ぃ……」
嗚咽交じりに声を発し、咲紀さんはボロボロと涙を流し始めた。ど……どういう事なんだ?
「咲紀さん? 泣かないで下さいよ……」
こんなところで泣かれるのは困る――というより、咲紀さんに泣かれるのは困る……。何と声をかければ良いのか分からないし、俺まで悲しくなってしまう。
「私っ……圭君の事っ……大好きなのにぃ……!」
溢れ出る涙を服の袖で拭って、咲紀さんはまた俯いてしまった。今度はしゃがみ込みでもしない限り、その顔を窺う事は出来なさそうだ。
「咲紀さん……」
横に並んで……せめても、と思い背中をさすった。――さっきキスを拒まれたばかりだ、迂闊に抱き締めたりなんて出来やしない。
離されてしまえば――少しでもまた近くに寄るのが怖い。
それをたったの一度でも胸に抱いてしまうと、中々辛い事だった。
「本当にごめんなさいぃ……私……っ……」
「大丈夫ですよ、俺は」
咲紀さんは遂に、その場に崩れ落ちてしまった。
「さ、咲紀さん……」
その小さな背中を見ていると、妙に不安が胸を掻き立てた。何なんだ今日の咲紀さんは……。そんなにいつまでも泣かないで下さいよ――
――俺は……どうすれば良いんですか……?




