六月二十九日――――昼~摩周湖~
「うわっ……」
見た瞬間に、言葉を失ってしまう。
流石は「神秘の湖」と謳われるだけある。そもそも摩周湖というのは、摩周湖の絶景と、屈斜路湖のレジャーで有名な場所だ。
硫黄山の麓にあるつつじヶ原の花畑には『エゾイソツツジ』が咲き乱れ、釧路川の源流では釣りやカヌーを楽しむ人で賑わっている。
泉質の違う幾つもの温泉を巡るのも楽しく、草原や木立の中を馬に乗って摩周湖まで歩くトレッキングもある。
そう――ここ、摩周湖は時の経つのも忘れて自然と親しむ憩いの場なのだ。
――晴れていれば。
「何も……見えませんね」
バスを降りた俺は、上機嫌の咲紀さんに引っ張られて摩周湖まで来た。
そこに広がっていたのは、思い描いていたような幻想的なものではなく、眼下に広がる湖は、濁って見え、何よりこの視界をここぞとばかりに奪う霧。
「着いた~! 摩周湖っ!」
――だが、咲紀さんはこれでもかというくらいに手放しで喜んでいた。
今日は天気もそんなに良くなく気温が低いのか、肌寒い。
俺も咲紀さんも薄着で来てしまったので、やせ我慢がどこまで続くか……。
「摩周湖~!! 曇り~~!!」
……何故曇りでこんなに喜んでいるんだろうか。何も見えないし、寒いし……。
「寒くないですか?」
流石に風邪を引くような寒さではないにしても、体調は心配だ。って……明日帰るとか言ってたけど、泊まる宿とかは取っているんだろうか?
「大丈夫っ!」
はしゃいでいた彼女はスカートを翻して振り返り、笑って見せた。
その笑顔がこの曇天とはミスマッチなはずなのに輝いて見える。きっと彼女には、どんな場所で笑顔を見せても輝いて見える、そんな何かがあるんだろう。
「ところで、どうしてこんな曇りの日に来たんですか?」
「ふふっ……秘密!」
悪戯に微笑んで見せる彼女の周りには霧ばかり。……本当に、どうして曇りの日に神秘的な湖を見に着たんだろう……。
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摩周湖からの帰り、ご機嫌な咲紀さんが「レストランで昼食を食べる」と言ったので、摩周湖からは少し離れた六階建てのデパートに足を運んだ。
「ん~! ここのオムライス美味しぃ~!」
結局摩周湖にいた時間は十五分にも満たず、目的地に着く為に費やした時間の方が圧倒的に長かった。
「圭君も食べる?」
そう言ってスプーンで掬った一口大のオムライスを差し出す咲紀さん。
「じゃあ……お言葉に甘えて、いただきます」
姉弟だから、という理由で自分を納得させ、一口いただいた。
「んっ……美味しいですね」
卵の柔らかな食感に舌鼓を打っていると、彼女が不意に「間接キスだね?」と悪戯に微笑んだ。
「げふっげふっ……! はぁぁ!?」
思わず店内にも関わらずに大声を発してしまった。……けど、これは仕方ないだろう!
「ふふふ……」
慌てふためく俺を見て、咲紀さんは満足そうに笑っていた。
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「今日はありがとう、圭君」
レストランから出て、エレベーターに向かう道中、咲紀さんは恥ずかしそうに笑ってそう言った。
「いえ……こちらこそ誘ってくれてありがとうございました」
エレベーターの入り口横に取り付けられている逆三角のボタンを軽く押すと、オレンジ色に光った。……これで後は来た道を戻るだけ。初めての摩周湖が曇りだったのは少し残念だったけど、咲紀さんは喜んでたし、良いか。
扉が開いて乗っていたお客さん全員が降りるのを確認してから二人で乗り込む。どうやら貸切みたいだ。
「摩周湖、良かったなぁ」
両手を天井に向けて伸びをする彼女に、「そうですね」とだけ応えた。まさかここで「曇ってましたけどね」なんて言えるはずもない。
キィィィィ――――ンという耳障りな音を聞きながら、一階まで降りる。どうやら、途中で乗ってくる人はいないようだ。
「ねぇ圭君」
「はい?」
「また……一緒に行っ――」
ィィィィ――――ゥゥゥン。……ガコンッ。
「へ? な、何?」
突如、エレベーター内の電気が消え、動作が停止した。
「まさか……停で――」
「――きっ、きゃぁぁぁ!」
「ど、どうしました!?」
咲紀さんのいきなりの悲鳴に飛び上がってしまった。……この暗闇じゃあ仕方ないと思いたい。
「わ、私……閉所恐怖症なのっ!!」
ぎゅうっと抱きついて来る彼女の温もりを確かに感じながら、呆然と思う。
「閉所……恐怖症……?」
……って事は――、
「まさか……ここも?」
「うんっ……」
このピンチ――どう乗り切る……?




