五月十一日――――朝
「ぜぇっ……はぁっ……」
自転車をこれでもかというくらい速く走らせる。
「はぁっ……っ……はぁっ……」
自分の体重に、さらにもう一人分の人間の重みがプラスされて、ペダルを漕ぐ足は「もう限界だ」と叫んでいる。
「圭兎君っ、これなら、タクシーの方が速いんじゃ……」
背中から不安そうな姉の声がする。
本当に学校を休んだ俺達は、同じ学校の生徒とは逆方向に自転車をぶっ飛ばしている。そう、稟香さんの『お母さん』が外国へ行くからだ。
「大丈夫っ……ですよっ! ……タクシーなん、かよりも、断然、速い……ですからっはぁっはぁっ……」
喋るのも辛いし、息をするのも辛くなって来る。
「……無理しないでっ……」
背中にぎゅっとしがみ付いている稟香さんは、震えている様だ。
でも、本当にタクシーよりも速いのは確かだ。自転車なら最悪斜め横断すれば信号に引っ掛からないし、タクシーでは入れない裏道なんてものも使える。タクシーよりも十分は短縮出来る。
「はぁっ……はぁっ……! 稟香、さん! 空港! 降りる……準備!」
立ち漕ぎの全力疾走を始めて四十分くらい経ってようやく、空港が見えた。残り二分ってところだろう。
「到……着!」
言うや否や、稟香さんは自転車の後部座席から飛び降りて空港のターミナルへと突っ走る。
俺は乱れ狂った呼吸を整えるのに少しばかりの時間を消費してからターミナルへと入る。
「はぁっ……お母さん……どこ……」
月曜日だと言うのに、ターミナル内は人でごった返していた。これじゃあ見つけられやしないだろう……。
「っ……! お母さん……!」
それでも稟香さんは、母親に会いたいが為に人混みを掻き分けて突き進んで行く。俺もその後に何とかついて行こうと片目だけを開いて追いかける。くっ……これじゃあその内見失うのがオチだぞ……。
「……どこ……どこっ……」
だが、まだ声があった。声を頼りに、稟香さんを追いかける。大丈夫だ……この声量なら見失わないっ!
そう思い、声のする方する方へと進んでいると――声が、消えた。
「へっ?」
思わず立ち止まる。稟香さんの声が、全くしないのだ。
「り、稟香さん?」
辺りを見回すが、スーツを着た男性や家族旅行中の親子、高校の制服を着ている女子しか見えない。
本格的にヤバい……! これじゃあ向こうが見つけても俺達は会えない!
焦ってさらに先へ先へ進む俺の耳に――涼しげで、でもはっきりとした、姉の声。
「居たっ……お母さん!」
どうやら、見つけた様だ。捜し求めていた人を、彼女は見つけた様だ。
「稟香さんっ……」
確かに声にした方へ進んで、ようやく俺も見つけた。
「あら稟香。何をしに来たの?」
だが、目の前で繰り広げられているのは、とても親子のソレには見えなかった。
必死になって『お母さん』を探していた『娘』と。
そんな懸命な『娘』を冷たく突き放す『お母さん』。
「お母さん……どうしてっどうして外国に――」
「オトコが出来たのよ」
稟香さんの声を遮って冷たく言い放つ母。その言葉にショックを隠し切れていない、稟香さん。
「どうして……私の事は……どうでも良いの?」
決して子供が訊く様な事じゃない事を、稟香さんは訊いた。勇気を振り絞って……否定してほしくて。
「ええ」
だが、あの母親はそれが当然とでも言わんばかりの態度でまた、突き放した。
「っ……」
その言葉に、顔を歪め、静かに涙を流す――娘。
「それじゃあね、稟香」
言いたい事は全て言ったと、そんな表情を残して『お母さん』は歩き去った。
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「稟香さん、帰りましょう……」
取り残された稟香さんの手を握って、歩き出す。ターミナルから出ると、先程まで曇っていた空からはパラパラと雫が。
まるで、心まで濡れてしまった稟香さんの様に。
「っ……お母さん……まだっ……まだ私の気持ち……伝えてない……から……!」
今度はちゃんと、パシッと俺の手を振り払って、稟香さんは走り出した。飛行機が飛び立つ方向へ。
「稟香さん!!!」
慌てて追いかける。少しだけ強くなって来て、地面が軽く抜かるんで来る。くっ……これじゃあ走りにくい。
「お母さんっ……!」
フェンスを横目で見ながら、走り続ける稟香さん。そんな稟香さんに「ざまあ見ろ」とでも言いたげに、飛行機は無情にも――離陸を開始した。
「お母さんっ……お母さんっ!!!」
徐々にスピードを上げて、浮遊して行く機体。稟香さんから『お母さん』という存在を切り離すかの様にして飛行機は――空を舞う。
「お母さん! 待って……まだっ!」
それでも彼女は追い続けた。『お母さん』を求めて、走り続けた。
だが、その想いは届く事が無いと、離れて行く『お母さん』に教えられている。もしも『お母さん』が稟香さんの気持ちを汲んだならば、ここに居るだろう。ここに居て、稟香さんを抱き締めて居るだろう。
「お母さんっ! 私はっ……お母さんの事がっ――」
悪天候の所為もあって見えなくなった機体……『お母さん』を見て、稟香さんは立ち止まり、膝をついて言った。
「――大好きなのに」
確かにそう、ハッキリと言った。
あれだけ冷たく見放した『お母さん』を「大好き」だと。
「はぁっはぁっ……! 稟香、さん……」
膝をついて空を見上げる稟香さんは――、
「ぅっ……ぅぇぇえぇぇぇぇぇえええぇぇぇ――!」
――まるで子供の様に泣きじゃくった。
赤ん坊が母親に「元気だよ」と言い聞かせる泣き声みたいに、大声で泣いた。
大好きな『お母さん』に、自分の気持ちを、一生懸命になって伝えた。
「稟香さん……」
泣きじゃくる稟香さんを、そっと抱き締めた。
もうこれ以上――苦しんでいる稟香さんは見たくない。
これ以上――――泣いている姉を見たくない。
「圭兎っ君ん……! お母さんがっ……お母さんがぁ!」
強くぎゅっと抱き締める。少しでも胸の痛みを消してほしいから……。
「っ! お母さんが……! お母さ――」
これ以上は聞いていられなくなって、稟香さんの顔を自分の胸に押し付けた。口を塞げば、と思ったんだ。
「――――――――!」
それでも稟香さんは俺の胸の中で必死に何かを伝えようとする。
抵抗するから、もっと強く抱き締めた。
「―――――――――!」
ドンッ!
――稟香さんは俺を突き飛ばして、大声で叫んだ。
「圭兎君っ! ……大好きぃ!!!」
そう言って稟香さんは、抜かるむ土の上に突き飛ばされた俺に、溢れんばかりの力で抱きついて来る。
「お母さんも圭兎君もっ……私を――」
ぎゅぅっと、締め付けられる様な感覚を味わった。
「――私を捨てないで……!」
もうこの人は、一人にしちゃ駄目だ。




