四月二十二日――――試合後
千春は昔、サッカー少女だった。
サッカーが大好きだった彼女は、小学校低学年からずっとサッカークラブに入っていて。俺が橋﨑家に来た時は、まだサッカーをしていた。
……だが、彼女は頑張り過ぎた。努力し過ぎた。
努力して培った彼女の才能は――憎まれ過ぎた。
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将来がかかっている試合――それは、千春のチームメイトにとっても同じ事だ。
彼女がドリブルでかいくぐった、敵と『味方』。その光景は、良い様に見れば『独走』で悪い様に見れば――孤立。
この試合で、誰よりも活躍しなければいけない。その気持ちはフィールドに居る全員が同じ。
焦燥感に掻き立てられた翼川のチームメイトは――仲間割れをした。
味方が、分からない程度で足を出した。
この種目がバスケじゃなかったら、バレなかったかもしれない。
この試合が体育館じゃなかったら。芝生の上だったら、キュッなんて音は鳴らなかったのに。
焦って焦って……どうにかしなくちゃと思って出した足は、無情にも千春の足を絡め取った。キュッという――汗で滑る床に響いた摩擦音……つまり、犯人を示す足音と引き換えに。
ガンッと、千春が頭から床に落下して後頭部を打ち付ける音が総合体育館を制す。千春に足を引っ掛けた翼川のチームメイトは、顔を青くして呆然と立ち尽くしている。
「「千春っ!!!」」
俺と咲紀さんの声が重なる。選手家族専用席に座っていた俺と咲紀さんは、一目散に飛び出した。幸い、床との距離は無に等しい。
席から飛び降りて、急いで千春の元へ駆け寄る。
「千春! 大丈夫!?」
咲紀さんが青ざめた顔で声をかけている。俺も必死になって声をかけるが、どうしても『あの時』の事が脳内を駆け巡る。
『あの時』、千春が努力して培った才能を憎んだとあるサッカー少女は、試合中に千春の膝を蹴った。
スパイクで。
あの時――三年前も俺達は家族で応援をしに行って、衝撃を受けた。こんなにも残酷な世界があるのかと、我が目を疑った。
膝を押さえて崩れた千春の姿を、今でも覚えている。
痛みに苦しみ、傷口を押さえていた手から逃げ出して来た血筋が、瞼の裏に焼きついている。
「何で……」と呟いた彼女の声を、昨日の事の様に思い出せる。
今、千春は目の前に倒れている。あの時と、全く同じじゃないか。何で人間はこうも恨み恨まれ生きているんだ。和気藹々と、なんて思わないのか。
「千春……!」
彼女の努力が報われる日は――来ないのか。
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結局試合は翼川高校の棄権負けとなった。
あの後、すぐに立ち上がれなかった千春は、『爆弾持ち』とされ、将来性は無いと断言された。
そして彼女は今、悔しそうに総合体育館の外に飛び出した。
「はぁっ……はぁっ……千春、どこだ……」
さっきまでの晴天が嘘みたいな、土砂降りの雨。
ガンッ! ガンッ!
その中で微かに聞こえる、何かを殴る様な音。
「千春……」
雨で滲んでよく見えないが、あれは間違い無く――千春だ。
総合体育館の壁を外から何度も何度も殴りつけている。
「千春」
傍に寄って、声をかける。だが、彼女は振り向かなかった。振り向かずに、俺と会話をする。
「ねぇ……頑張ったらダメなの? 努力したら、ダメなの?」
苛々している彼女の感情が、痛い程によく伝わって来る。
「ダメじゃないですよ。努力する事は良い事ですから」
「じゃあ、じゃあ何で……誰よりも頑張ったあたしがこんな目にあってるの? 何で……!」
ガンッ! と、また打撃音が響く。
「………………」
そして、その問いに対する答を、俺は持ち合わせていない。
「あたしが何したって言うのっ!」
ゴンッ!と、今度は千春が総合体育館の壁に頭突きをかます。
「確かに、あの子がした事はただの八つ当たりですよ。でも、千春がした事は、全部無駄でしたか?」
「もう無駄でしょ! もう終わったのよ! 結局あたしは将来を掴めなかった、ただそれだけが残ったのよ!」
彼女の言う事はもっともだ。
「それだけじゃない……残ったものは、それだけじゃないだろ!」
思わず、声を荒げてしまう。
彼女は、残ったものがそれだけじゃない事に、もうとっくに気がついているはずだ。
「少なくとも俺は、千春の事を見直した。すっげぇ奴だなって、本気で思った。結果だけが全てじゃないだろ……過程だって、大事だろ」
そう言うと、千春はくるりとこちらを向いて、突進して来た。
「ぐぅっ……」
丁度その額が鳩尾に当たって、苦しくなってしまう。
「あたしだってそんな事分かってる!」
これは、彼女なりのハグなのだろう。
「でももう終わったの! あたしは将来性が無い、それでもう終わったのよ!」
胸の中でそう叫ぶ彼女の頭を優しく撫でながら、諭す様に語りかける。
「また始めれば良いじゃないですか……三年前と同じ様に……あの時、千春は三年でエースになれたんだ。……今度は一年半でエースになれば良い……バスケで培った才能は、きっと次に繋げられるから。誰よりも努力してたって事くらい、分かってる。あんなスカウトマンなんかよりも――」
「――俺達家族の方が、分かってるから」
「うっ……ぅっ……!」
彼女は今回、失う物が多かった。
得た物は、少なかった。
でも、失った物と得た物だったら――得た物の方が、大切だった。




