四月六日――――夕食
何とか咲紀さんが(一階の)窓から飛び降りるのを阻止するのに成功した俺は、早速稟香さんに数学の問題を教えてもらっていた。
「ここはこっちのをこうしてやると楽なんですよ」
「……なるほど」
稟香さんの説明は、簡潔で分かりやすい。数学の苦手な俺でも簡単に解けてしまうくらいに。
「この公式は七問目のこの問題にも当てはめる事が出来て、色々と便利なんですよ?」
「ほうほう」
相槌を打ちながら手を動かす。稟香さんが指で示しながら教えてくれるので犬みたいに目を動かす事も忘れない。しかし、こうしてスラスラ問題が解けると勉強出来る人みたいで良い気分だな。
「それでここの答えが七になる……と」
「よく出来ました」
軽く手をパチパチと叩いて俺を褒めてくれる稟香さん。……いや、嬉しいけど何か恥ずかしい。
そしてそれから、ついでにという事で何問か問題を解くのを手伝ってもらい、飛鳥さんと千春が帰って来るまで、勉強は続いた。
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「ただいまー……ってこんな時間に勉強かよ」
千春がリビングに来て、開口一番にそう言った。
「「「おかえりなさい」」」
千春の後ろから少し送れて飛鳥さんが現れる。やっぱり部活が終わったからか凄く疲れた表情をしている。いや……と言うよりは千春が部活終わりなのに疲れていない様に見えるのがあるからか。
「それじゃあ、勉強は一旦ここでやめてご飯にしましょうか」
立ち上がって首を左右に倒すと、コキコキと心地好い音が鳴る。
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「ん、美味しいな」
飛鳥さんがカレーを一口食べて感想を述べる。やっぱり自分で作った料理を褒められると嬉しいよな……作った甲斐があるし。
そうして楽しくご飯を食べていると――
――ガチャッ。
「……っ」
玄関から聞こえて来る音に対し、稟香さんの手が一瞬止まった気がした。
「今帰った」
重い声が、部屋中に響く。たった一言そう発しただけで妙な緊張感に包まれてしまう。
「おかえりなさい」
全員で声を揃えて挨拶を返す。
[人の発言にはきちんと返事をする事]
いつか玄一さんにそんな事を言われたっけな……。あの頃はお互いに笑顔で話せる関係だったのにな。
リビングにやって来た玄一さんは、俺を見るなり「フンッ」と鼻を鳴らした。……そんなに気に入らないですか……そうですか。
「お前達に話がある」
そう言った玄一さんの顔はどこか曇っている。それを読み取って、全員がスプーンを置いて玄一さんの元へと向かった。話はソファで、だ。
「……実はな、父さんは再婚する事にしたんだ」
……………………………………は?
「相手は同僚の女性でな」
いや、男性だったら困るわ。
「それでだな……お前達も今、難しい時期だろう? 思春期とかいう年頃だろう? だからな――――、」
おい待て。
「父さんは――、」
待てよおい。再婚って――
「この家を出て行く」
――何なんだよ。
「きちんとお前達には生活費を毎月送るし、必要なら連絡をくれればいつでも金は送る」
金と土地だけ渡すから後は自由にってか?
「頼むぞ。……父さんだってな、幸せになる権利は有るんだ」
そうして玄一さんは、世界で一番卑怯な言葉を口にした。
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「……っざけんなよ」
玄一さんの居なくなったリビングでそう呟く。玄一さんはその同僚の女性……つまり再婚相手にこの事を伝えると言って出掛けた。
「何が再婚だ……っざけんな……!」
ガン! と壁を拳で殴る。痛かった……。でも、それ以上に心が痛かった。
「じゃあ母さんはどうなるんだよ……ここに置いてけぼりかよっ!」
ガン! 「自分勝手な事言いやがって!」ガン! 「母さんは……俺達はどうなるんだよ!」ガン! 「俺達の幸せはどうでも良いのかよ!!!」ガンッ!
見ると、指の付け根のごつごつした部分――中手甲頭――の部分に血が滲んでいた。
ガン! 「いい加減にしろよ……何でそうやって俺達から全部奪ってくんだよ!」ガン! 「子供よりも自分が大切なのかよ……!」ガンッ!!
「圭君、やめて……」
咲紀さんが不安そうな顔で近付き、俺の……血の滲む拳を優しく握り締めてくれる。だが、構わずに逆の手で同じ事を続けた。
ガン! 「何で……何であんなに嬉しそうな顔して話すんだよ!!」ガンッ!! 「そんなに嬉しいのかよっ!!」
「圭君……お願い……」
ぎゅっという感覚。咲紀さんが俺を落ち着かせる為に、後ろから抱き締める。それが温かくて温かくて……涙が溢れて来た。
「だって……!」
「お願い。私達の為に……怒らないで……」
抱き締める力が強くなるのが伝わった。そうか……苦しいのは俺だけじゃ……ないんだよな。
「……あらあら、カレーが冷めちゃいましたね。温め直して食べましょう」
背後から、信じられない程に冷たい声。
「稟香っ……お前は……!」
飛鳥さんが心なしか、声を荒げる。
「改めて……頂きます」
「お前は今がどういう状況かわかって――――」
「やめなよ……」
稟香さんにずかずかと近付く飛鳥さんを、千春が止める。その声を聞いて動きを止め、苛立たしげに舌打ちをするだけに留める飛鳥さん。
電子レンジで温め直したカレーを食べ進める稟香さんの右手が――――微かに震えている気がした。
やがて稟香さんがカレーを食べ終わり、食器を台所に置いてリビングから出て、階段を上った。
「ぅっ……っ……」
リビングに響く、すすり泣く声。
崩壊なんて――
――本当にバラバラと崩れるんだ。




