君の道、僕の道
バス停へと向かう歩道で先を行く女性が何か落とした。
手帳だろうか、クリーム色のそれは所々に傷や擦れた跡、それにいくつかの付箋が見えた。
僕はその手帳を拾うと前の女性に声をかける。
「あの、落としましたよ?」
スーツ姿の彼女はいきなり声をかけられ少し動揺していたが、僕の手にある手帳を見つけるとハッとした表情になった。
「あ、ありがと」
「どういたしまして」
そう口にすると彼女はニコッと笑い再び歩き出した。
ゴールデンウィーク間の平日の今日ほど憂鬱なものはない。
そしてこの日照りだ。
学ランを脱いで脇で抱えている僕ですら暑いのに上も下も黒の彼女は暑くないのだろうか。
なんて考えていると
「あの、暑くないんですか?」
気がつくと僕は彼女に再び声をかけていた。
どうして僕は声をかけたのだろう。
小テストの成績が良くなかったからだろうか。
はたまた絹糸のような黒髪を後ろで束ねたその姿が美しかったからだろうか。
「そりゃもちろん暑いよ」
再び後ろから声をかけられ動揺したのかワンテンポ間を開けながらも彼女は優しいその声で返事をしてくれた。
「それなら上着くらい脱いだらどうです?」
僕はそういったあとやってしまったと後悔した。
なんだよ女性に向かって脱いだらどうですかって。
デリカシーの欠片もないじゃないか。
心のなかで自分自身を責めていると
「社会人だからねー、あんまりそんなことも出来ないのよ」
どうやら僕の自己嫌悪は空振りだったのかそう思った瞬間、
「それとも私のワイシャツ姿が見たかった?」
不意打ちだった。
イタズラな笑みを浮かべながらの彼女の発言は僕の心を的確に捉えた。
「冗談よ」
僕の表情を読んでなのか、彼女は一言付け足した。
「それに君はあまりそういうことにがっつかなそうだし」
僕の何処からそう判断したのかわからないが、彼女はそう判断したらしい。
「僕の失言でしたけど、そこまでおちょくらなくてもいいじゃないですか?」
「ゴメンゴメン。あまりにも君がいじり甲斐あったからね」
バス停に着く。
「僕はここでバスを待ちますけどあなたは?」
「あら奇遇。私もそうよ」
そう言うと二人して一つのベンチに座る。
雨風に晒されていたせいだろう、だいぶがたがきているようだ。
「ところで先程落とした手帳、だいぶ古い物っぽかったですがなにか大切な思い出でも?」
少し他人のことにズカズカと入り過ぎだろうか。
しかし、僕をそうさせてしまうほどに彼女の手帳は古いものに見えたのだ。
数年なんてくらいではない。
十年、二十年、下手したら半世紀くらい古い物かもしれない。
それくらい歴史を感じさせるほどに色褪せていて、けれども丁寧に使われている印象だった。
「思い出の品ってところかな。とっても大事なものなの」
彼女は僕の質問に答えながら時刻表と腕時計を見比べていた。
三十分に一本出るこの路線バス。
あと十分かからないくらいで来るだろう。
「この手帳ね、生きていた時にお父さんが使っていた手帳なの」
生きていた、という表現に引っかかる。
過去形で放たれたその言葉の意味くらい僕にだってわかる。
「私が小学生の時に死んじゃったの。車に轢かれちゃって」
返す言葉が見つからない。
「その後はお母さんが女手一つで私を育ててくれたの。ちゃんと高校にも通えたわ。でも今は無理がたたったのかお母さん、病気で入院しているの」
彼女は正面、太陽の方をを向き、僕は足元のカバンを見ていた。
なおも彼女の一人語りは続く。
「それでたくさんのお金が必要なんだけど、働き手が私だけだからね。こうやって頑張ってるの」
僕の方を向くと彼女は微笑んだ。
少し悲しそうな、虚ろな目で。
「大変だけどやり甲斐はあるわ。お母さんに恩返しができるって思えるし。それにこの手帳にね、いろいろ書いてあるの」
言いながらおもむろに手帳を取り出す。
「社会人として生きていく上で大事なこととか、上司に叱られたこと、あと私のこと」
道路の先から特有の音が聞こえてくる。
バスが来た。
程なくして僕と彼女の目の前に止まった。
ドアが開き彼女が乗った。
「乗らないの?」
彼女が問う。
けれど僕にはそのバスに乗る資格が無いように思えた。
運転手が僕の方を見てる。
乗らないと悟った運転手はバスのドアを閉め発進させた。
彼女は不思議そうな目で僕の方を見ていた。
僕は歩いてきた道を再び歩きはじめた。




