1 「グラナダ」の朝
バンダースナッチ卿は、遠ざかっていく二つの影を見て、ため息をついた。これで何とかひと段落だ。そう思えば、ほっとできる。ほっともできるが、そのあとに来るのは腹立たしさだ。
バンダースナッチ卿は、キッと、隣に立つ小男を睨みつけた。
「おい、ファンネル部長! どういうつもりだ!」
卿は持ち前の、朝にルパートを怒鳴ったのと同じ声で、目の前の小男を怒鳴りつける。まるで力いっぱい大ドラを叩いたような声が、朝の「グラナダ」に響き渡った。
魔導図書管理局、通称「グラナダ」には、朝だろうと夜だろうと、大勢の職員が働いている。真っ赤な制服であふれるグラナダの玄関ホールは、いつものようににぎやかだ。これから働きに来るモノ、これから家に帰るモノがひしめいていて、憂鬱と陽気の入り混じったざわめきに包まれている。それを切り裂くドラ声に、職員たちがそろって、いぶかしげな顔を声のほうに向けた。
バンダースナッチ卿の姿は、朝のホールでよく目立つ。なにせ、6フィートに届く長身の、オーガのような巨体の持ち主だからだ。今日もその青色の金壺眼をぎらぎらさせている姿を見つけると、職員たちはそれぞれに首を小さく振り、また行きたい方に足を向けた。
ホールに響き渡る大声を上げたバンダースナッチ卿は、それでもまだ収まらず、もう一度その口をガバッと開けた。その大口で、目の前の男を食い殺さんばかりの勢いだった。
「聞いてるのか! ファンネル部長!」
「聞いてますよ…」
白衣で猫背の体を包んだファンネル部長は、相変わらず徹夜明けの青白い顔で、バンダースナッチ卿の横に立っていた。ファンネルは、まるで大声など存在しないかのように、その体のように小さい歯で、むにゃむにゃとあくびをかみ殺している。巨大な瓶底メガネからのぞく充血した眼で卿の赤ら顔を見上げると、歯の隙間から声を漏らした。
「…聞いてるから、ティムの奴を交代させたんでしょうが。でなきゃ、めんどくさい交代なんかやるわけないでしょう?」
「そういう問題じゃない!」
バンダースナッチ卿はさらに顔を真っ赤にし、もう一声怒鳴り声を張り上げる。しょぼくれた中年男が、物珍しげにそれを見上げ、周りはそれについてウワサをする。グラナダでもっともよく見られる光景が、ここでいつものように展開されていた。
怒鳴るだけ怒鳴り、バンダースナッチ卿はぜーぜーと肩で息をしていた。しばらく息を整え、小さく息をつく。あたりを見回すと、ファンネルを、その巨大な手で手招きする。部長の貧相な眉毛がクイッと上がった。
「来い!」
バンダースナッチ卿がその大きな肩をそびやかせて、後ろも振り向かずに、グラナダの奥に向かって歩き始める。ファンネルはやれやれという風に首を振り、何かブツブツつぶやいて、そのあとについて歩き始める。職員がひそひそ話しを始める中、ファンネルは我らが局長の横に並んで歩き始めた。
「どうされたんです?」
ファンネルはその体のようにひしゃげた声で、横を行く局長にお伺いを立てた。ずかずか進んでいくバンダースナッチ卿はその太い鼻柱から、大きく息を吐き出し、そして吸った。
「どうしたんですか、じゃ、ない! なんだって、今日に限って、ティムの奴に当番なんぞさせた!」
また、ホールの隅まで響き渡るような大声だ。それを受けても、ファンネルの寝ぼけ顔はピクリとも動かない。ただ卿の横を歩きながら、つぶやくように言った。
「月の順繰りが、たまたまそうなってたんですよ。気づいてなかったもんで…」
「貴様! また実験にうつつを抜かしとったんだろう!」
「あと少しで、新型の魔導書ができそうなもんですからね…」
悪びれもせずに、ファンネルは大あくびをした。コキコキと首を鳴らすと、さらに赤くなったバンダースナッチ卿の顔を、そのしょぼくれた目でじっと見上げる。そうやってバンダースナッチ卿の顔を見ていたかと思うと、だしぬけに言った。
「いいんですか?」
どこから飛び出したかも分からない、何の脈絡もないセリフだった。何の脈絡もないセリフではあったが、何も問わず、バンダースナッチ卿は大きくうなずいた。
「しかたない。国の話だ。わしらがどうこうする問題じゃない」
「それは、そうかもしれませんがね。正直、わたしは気が進みません」
「わしだって、そうだ。あんなもの、さっさと破棄してしまうに限る」
ずかずかと進むバンダースナッチ卿の横を、ファンネルはしずしずと歩いていく。なにか諦めたような無気力な表情で首を振る。
「その時は、ぜひ私に解体させていただきたいですね。まあ、人の情が変わらないかぎり、望みは薄そうですけども…」
「相手の国の意向だ。さすがにわが国の一存でというわけにもいかん。…お前、何が間違っても手を出すなよ?」
念を押すようにバンダースナッチ卿が、その部下を睨みつける。ひょうひょうと、ファンネル部長は肩をすくめ、その視線をいなした。
「まさか、私は従順な局長の部下ですよ?」
「…本当に大丈夫だろうな?」
心配そうなバンダースナッチ卿をしり目に、ファンネルは小さく首を振った。
「私は国家最高の魔道学者と呼ばれてますがね。停戦条項に首を突っ込むつもりはありませんよ」
その青白い顔を横に振る様子を見て、バンダースナッチ卿はため息をついた。
「…お前がそんなだから余計に心配なんだろうが」
ぼそりとつぶやき、バンダースナッチ卿は階段を上り、二階の自身の執務室、その大きな樫の扉まで歩を進める。ファンネルは何も言わずにそのあとについてきていた。卿が歩いてくると、ルパートがいつの間にか、その扉の横に立っている。ルパートの陰気な目が、バンダースナッチ卿の顔をとらえた。
「バンダースナッチ卿、いくら幻惑をしているからといっても、廊下で国家機密について話されるのはどうかと思いますが…」
「あー、そんなことはわかっとる!」
ハエでも払うように手を振るい、バンダースナッチ卿はずかずかと大股に歩き続ける。ルパートは何も言わずに扉を開けた。
豪華な書斎のような執務室。その自分の席に、卿は迷わず進んでいく。ファンネルも卿の後に続いてルパートの開けた扉をくぐると、音もなく扉が閉ざされた。
バンダースナッチ卿は窓を背にして、自分の席に着いた。座った机の上で手を組んで、バンダースナッチ卿はファンネルを睨みつける。机の前に立ったファンネルの眠たげな目が、じっとそれを見返している。静かな執務室。何の音もしていない。
やがて、バンダースナッチ卿のため息の音が、部屋の中にこだました。
「首尾は?」
静かな、アンダースナッチ卿の声。ファンネルがよどみなく答えた
「今日の、昼過ぎです。到着することになってますよ」
「このことについての機密保持は?」
「私の魔導書を使いにやってます。まあ、卿が廊下で怒鳴っていたことを除けば、完璧ですな」
「いちいち一言多い奴だ。お前が幻惑をかけていたんだ。聞いていたやつなぞおるまい」
「ええ、その点はご安心を。卿に不手際を怒鳴られる哀れな私しか、職員には見えていないでしょう…」
そこでいったん言葉を切ったファンネルが、じいっと、窺うような眼で、バンダースナッチ卿の赤ら顔を見つめた。卿は黙ったまま、その視線を受け止める。会話が、止まる。
ファンネルは小さくため息をついた。
「…しかし、ティムの奴がいなくて、良かったのですか?」
「だまれ」
ファンネルを、バンダースナッチ卿は手を上げて押しとどめる。ファンネルは小さく首を振った。
「万が一、ということがありますよ?」
「そんな話、聞きたくもない。万が一はあり得ないし、あってはならん!」
「万全は期しています。しかし、さすがに今回は…」
「わかっとる!」
なおも続けようとするファンネルを、バンダースナッチ卿の大声が黙らせる。ファンネルはため息をついた。その寝不足の充血した眼を、卿の背後、窓の外に向け、つぶやくように言う。
「…いま、王都正門の所まで来ましたね。あと一時間ほどで到着でしょう」
「…そうか」
バンダースナッチ卿は、再びため息をついた。ファンネルの目が、また卿をじっと見つめる。
「…どうやって迎えます?」
「どうせお忍びだ。わしが迎えに出る。そのあとで、協議したとおりに、おとなしくさせるとしよう」
「おとなしく、ですか?」
鼻から息を吐き出して答えるバンダースナッチ卿に、その首を精いっぱい、フクロウのようにひねるファンネル。瓶底の奥の目を細める様子は、いかにも疑わしげだ。そして、それを否定できないことが、何よりバンダースナッチ卿をいら立たせている。そのハンマーのような拳が机をたたく。
「どうにかする! そうとしか言えんことぐらい、分かっとるだろうが!」
「それはそうなんですがね。だからこそ、ティムのやつがいれば、言うこときかせるぐらい、訳もないでしょう」
「あんなものを抱え込む気は、毛頭ない!」
バンダースナッチ卿は音を立てて立ち上がった。ファンネルに背を向け、窓の外をその金壺眼で睨みつけた。グラナダの二階から見下ろす、王都の光景。その街をゆく人々の中、小さな赤と、長身の黒の姿が、遠ざかっていくのが見える。その後ろ姿が街中に消えていくのを見て、バンダースナッチ卿は大きくため息をつく。そして、つぶやくように、声を漏らした。
「―――戦争兵器なぞ、こっちから願い下げだ」
静かな部屋の中、ファンネルだけが、バンダースナッチ卿の言葉にうなずいた。