暗黒の時代
「とどめだっ!」
一人の男がオークを切り伏せる。
あたり一面にはすえた匂いが満ちていて、無数の屍の山と血の河が築かれていた。
男は油断なく周囲を見回し、動く者がいない事を確認してから剣をしまって大きく息を吐き出す。
その額には汗がにじんでいる上に、体には複数の傷とおびただしい返り血がついている。
彼の姿を一目見れば、いかに激しい戦いだったかを察するのは容易いだろう。
(戻るか)
男は踵を返して歩き出す。
かと言って一直線に進んだりはせず、時折背後を振り返る。
モンスター達への警戒の表れだった。
男は生い茂った木々を間を潜り抜け、自らの家へと向かう。
光すら届きにくい森の奥地に人間達の住処はあるのだ。
暦の正確な呼称は忘れられて久しい。
この時代に生きる人々は「光なき時代」、あるいは「魔王の時代」と諦めまじりに呼んでいた。
「ラウルさん、お帰りなさい」
木々が開けた場所に出ると、二人の若者が出迎えてくれる。
二人とも同じ隠れ里の人間だ。
二人はラウルの姿を見ても驚いたりはしない。
彼が出向くという事はそれだけの危険があるという事、そして彼ならば大概の危険は問題にしない強さの持ち主である事を知っているからだ。
隠れ里最強の存在が訳あって戦えぬ今、このラウル・エンヴァースこそが最大戦力なのである。
「それで? イヴリースは?」
ラウルは焦燥を隠し切れぬ様子で尋ねた。
イヴリースとは彼の妻の名である。
「はい、無事お生まれになりましたよ」
笑顔で言われた男は駆け出す。
そしてそれを咎める者はいない。
自らの子が生まれた事を聞かされ、足が速くならない者は父親たる資格はなし。
明言こそされてはいないものの、そういった風土はある。
魔人や魔王が跋扈し、人間は互いに肩を寄せ合って慎ましく生きていかねばならぬ時代なのだから。
家の前につくと人だかりがあった。
「すまん、通してくれっ!」
ラウルの事を認めた人達はさっと道を譲ってくれる。
木と藁で作られた簡素な家の中には、妻のイヴリースと産婆、そして元気な声で泣く赤ん坊がいた。
「おお、ラウルの坊や。無事生まれたよ」
産婆は皺くちゃな顔を嬉しそうに歪め、抱えた小さな命を掲げて見せる。
「ああ……」
ラウルはやっとそれだけの言葉を搾り出す。
いつ誰が死ぬか分からない日々が続く時代において、赤ん坊の姿は神々しく見えたのだ。
誰かが鼻をすする音が響く。
感動のあまり、涙をこぼす者すらいる。
明日が見えぬ時代であっても、新しく生まれてくる命があるのだ。
そしてそれが彼らにとっては勇気の源になる。
「イヴリース、でかした」
ラウルは我に返り、妻に声をかけた。
「あなた、残念だけど女の子みたいなの」
大役を果たしたイヴリースは、弱弱しい声を出し、申し訳なさそうに目を伏せる。
彼女は夫が男の子を欲していた事を知っていたのだ。
それ故の罪悪感だったのだが、ラウルはそんな妻を咎めるほど小さな男ではない。
「何を言う。親子とも無事だった事に勝る喜びはない。養生してくれ」
会心の笑顔で妻を労う。
「はい」
それを見て、イヴリースはようやく安堵する。
愛する男に失望される事を何よりも恐れていたのだった。
「とりあえずラウル坊や。そんな格好のやつに赤ん坊は抱かせられん。体を清めてくるんだね」
夫婦の会話が一区切りついたと見た産婆は、男の身だしなみについて咎める。
里の為に激闘をこなしてきた事は承知しているものの、赤子を抱かせていいかはまた別の問題なのだ。
「あ、ああ」
ラウルは産婆の言葉で、自分がひどい姿をしていた事を思い出す。
「ラウルさん、こっちだ」
一人の若者がラウルに声をかけ、水浴び場に案内する。
もちろん、ラウルは場所くらい知っている。
わざわざ案内してくれるという事は手伝ってくれるという事だ。
服を脱いで水で体を清める傍で、男達が手分けしてラウルの装備を洗う。
鎧も篭手も脛当ても、汚れていないパーツなどない。
「ふう、やっぱり水浴びが一番だな」
人心地がついたラウルはそう感想を漏らす。
モンスターの返り血などおぞましいだけだが、里を守る為にはそんな事を言っていられない。
使命感と責任感で嫌悪感をねじ伏せているのだ。
洗うのを手伝う男達の方は、嫌悪感はほぼない。
勇猛な男の防具に触れ、手入れを手伝うとその武勇が宿るという言い伝えがある為だ。
どの程度信じられているかはさておき、ラウルにあやかりたいと思う男は決して少なくはない。
女達にも人気はあるのだが、妻のイヴリースを憚って色目を使う者はいなかった。
事情があって戦えぬ里の最大戦力とは、イヴリースの事なのである。
清潔な布で体を拭き、渡された清潔な衣服をまとう。
それから一足先に家へと戻る。
残った男達は、ラウルの装備を干して乾かすという役目があるのだった。
久しぶりに赤子が生まれたから、穏やかな日々が続いている。
もっとも、戦いがないわけではない。
ゴブリン、オーク、ポイズンスネークの群れを撃退するのは日常であり、穏やかでない事にならないだけだ。
ラウルも容赦なく駆り出されている。
子供が生まれた事は休む理由にはならない。
むしろ子供の安全の為にも、武勇をふるっておく必要はあった。
「このまま続いてくれたらいいんだがな」
ラウルは一人ごちる。
せめて子供が歩けるようになるまでは。
そういう願いがあるが、果たしてかなうかどうか。
彼が属する里は、数年前にできたばかりなのである。
それ以前いた村は魔人ファルナー率いる軍勢によって滅ぼされてしまった。
ただ、それが原因となってイヴリースと知り合ったのだから、悪い事ばかりではない。
そう信じたいという気持ちがあるのは否定できないのだが。
懸念事項と言えば、イヴリースが動けないせいでモンスター達の屍を処分できない事だった。
地面に埋めたり川に流したりするだけで、どの程度効果が見込めるのか。
あまりないからこそ、定期的にモンスターが接近してきているのではないのか。
誰も何も言わないが、漠然とした不安は持っている。
「ラウルさん、交代です」
若者が寄ってくる。
「おう」
ラウルと仲間達は里へと引き上げようと体の向きを変えた。
その直後、大地が揺れる。
「くっ」
ラウルは反射的にしゃがみ、臨戦態勢へと移る。
だが、他の者達はそうもいかず、転んでしまう。
「地揺れか?」
ラウルの声に焦りと警戒が混ざったのには理由があった。
地揺れは確かに自然に発生する場合もあるのだが、それ以上に魔の眷属達のよって生まれる場合が多いのである。
そして彼の予感は的中してしまう。
「アッハッハッ。人間、みーつけた」
明るく能天気な、それでいて人間達を総毛立たせる女の声が聞こえた。
男達は一斉に武器を構える。
彼らの目の前に一つの影が降り立った。
青い肌にこめかみから生えた二本の黒い角、そして赤い目と黒い尻尾。
黒装束に身を包んだ人に近い人外。
「魔人……」
ラウルは怒りと憎しみ、そして恐怖を込めてつぶやいた。
「ま、魔人……?」
他の男は絶望のうめき声を漏らす。
魔人とはモンスターがある限界を超え、超常的な力と強さ、そして人に近い姿と頭脳を得た存在とされる。
大まかに上、中、下の三段階に分かれているが、基本的には元となった種族が強いほど強い。
例外はいるが、元の種族が強いのに弱い魔人が確認されていないのは事実である。
「アーハッハッ。よくあたしの事が分かったわね、人間。褒めてやるわ」
馬鹿丸出しの態度だったが、誰もそれを気にする余裕はない。
絶対的な力の差を本能で感じ取ってしまっている。
唯一、該当しないのがラウルだった。
「分かるも何も当然だろう。俺の事を覚えていないのか?」
彼の言葉には怒りがこもっている。
目の前の魔人こそが、彼の生まれ故郷を滅ぼした魔人だからだ。
「覚えているわけないでしょう? お前はこれまで踏みつぶした虫けらの違いが分かると言うの?」
魔人ファルナーの答えは明確である。
人間を虫けら以下としか見なしていないのだった。
だからラウルと他の男の違いが分からない。
「クソが。逃げろ」
ラウルは舌打ちすると同時に、男達に声をかけた。
彼らがとても敵う相手ではない。
だからせめて時間を稼ぎ、里の者が逃げられる可能性を高めようとした。
男達は必死で走り出す。
それを見てラウルは剣を抜いて魔人に斬りかかった。
全力で踏みこみ、渾身の力で剣を振り下ろす。
野生のトラをも屠る、ラウル最強の攻撃である。
だが、相手はトラとは比べ物にならぬ存在、魔人だ。
空気を切り裂いて襲う長剣を左手の人差し指だけで止めてしまう。
それでもラウルは止まらない。
過去の魔人の戦いぶりから、これくらいはやってのける敵だと覚悟していたからだ。
剣を離して殴りかかる。
しかし、魔人は優雅にそれを避けて足を引っ掛けて転ばせる。
「【ファイアブレッド】」
それから炎の魔法を逃げる男達に向かって放った。
下位の魔法であっても、魔人の魔力ともなれば人間大の火の玉となる。
そしてそれらは男達をあっさり飲み込み、更に木々を焼き払う。
「あ……」
逃がそうとした者達を簡単に殺されてしまい、思わず声が漏れる。
「アッハッハッ。あたしから逃げられると思ったのかい?」
魔人は嘲笑いながら、隙だらけになったラウルの腹にケリを入れた。
(くっ、だが、最低限の目的は達したはず)
男達は助からなかったが、突然木々を焼く火が発生するという事は、即ち異変が起こった事である。
里の人間達にそれが分からないはずがない。
魔人ファルナーが自分を嬲っている間に、少しでも遠くへ逃げるべきだ。
本来のイヴリースならばそれを拒否して自分のところに駆けつけるかもしれない。
されど今は赤子がいる。
まず守るべきは赤子の方だ。
それが分からない妻ではない、とラウルは確信している。
心の中で妻と子に永久の別れを告げながら、彼はゆっくりと立ち上がった。
「逃げない。お前を倒す」
不可能な事は百も承知である。
ただ、魔人達は真っ向からこう言われるとムキになって攻撃してくる傾向があると聞かされていた。
要するにこのような場合、囮になった人間の心得として。
案の定、魔人ファルナーは笑みを消して真顔になる。
有象無象に過ぎない人間に「倒す」宣言をされたのが、さぞかし不愉快だったのだろう。
しかし、次の行動はラウルの予想を反していた。
「【ヴォルケーノ】」
魔法によって溶岩流を発生させ、一気に後ろの森を飲み込んだのである。
「なっ……」
ラウルは驚愕し、思わず背後を振り返ってしまう。
魔法が放たれた方向に隠れ里があったからだ。
そこに魔人の蹴りが放たれる。
「ぐふっ」
無防備なところにもらった強烈な一撃により、再び地面にはいつくばった。
魔人ファルナーはそんな人間の男の頭を踏みつける。
「アッハッハッ。どうかしら、守ろうとしたものを攻撃された気分は?」
投げつけられた嘲笑に、ラウルは魔人の悪意を悟った。
人の形をした悪魔は、隠れ里の事くらい最初から知っていたのだろう。
知らないふりをしたのは、今のような瞬間を作り出す為。
ラウルはかつてない怒りが湧きあがる事を感じた。
「お前っ……」
里には戦えぬ老人や子供がいた。
何よりも彼の妻と子がいた。
それを燃やされて怒らない男などいるはずもない。
憤激の一撃を繰り出した。
魔人ファルナーはそんなラウルの攻撃を造作もなく避け、右腕を切り落とす。
「ぐああああああああああ」
焼けつくような痛みが、男に苦悶の声をあげさせる。
「アッハッハ。守ろうとしたものを全滅させられた割に、ずいぶんぬるい攻撃ね?」
「く、くそ……」
まだ敵意が衰えぬラウルだったが、続いて左腕が切り落とされた。
再び絶叫が迸る。
「アッハッハ。なかなかいい悲鳴だわ」
両腕を失ったラウルは、両膝をつく。
「ど、どうして、こんな真似を……?」
すっかり闘争心が折れてしまったのか、呆然とした顔で魔人を見上げる。
ファルナーはそれを見て得意げな笑みを浮かべた。
「そんなの決まっている。面白いからよ? 誰かを守ろうとした人間が、その誰かを守れなくて怒るのが! そして怒りと悔しさを絶望に変えるのがっ! 最高に楽しいのよっ!」
高笑いをしながらラウルを蹴り飛ばす。
「人間は実に愚かよね。お前達が逃げられるのはあたし達がわざと逃がしているからなのに。え? どうしてそういう事をするのかって?」
一旦言葉を切って息を吸い、高らかに宣言する。
「そんなの決まっている。お前達人間が最高のオモチャだからよっ! そんなオモチャ、全部壊したら楽しめないでしょう? だから適当に生かしているのよっ! 飽きるまで楽しむ為にねっ!」
「げ、外道が……」
ラウルは息も絶え絶えになりながら、呪いの言葉を吐く。
「いつの日か、いつの日か、きっとお前達を倒す者がはっ」
彼の頭は魔人によって無情にも踏み砕かれた。
彼の身には奇跡は起こらなかったのである。
「弱者の泣き言よね。アウラニース様を倒せる人間なんて、現れるはずがないのに」
魔人ファルナーは侮蔑と畏怖を込めて言った。
侮蔑は人間に対して、畏怖はアウラニースという名の絶対者に向けて。
最強の魔王アウラニースと面識がある訳ではない。
だが、かの存在の怒りを買ったという理由で、何体もの魔王が滅ぼされたという話は聞こえてくる。
ただの魔人にすぎぬファルナーにしてみれば、理解不能の恐怖だった。
(さて、ルーヴェイル様の下に戻りましょうか)
一つの人里を滅ぼした事を特に思う事もなく、彼女はその主君の下に帰還する事にする。
この時、彼女は知る由もなかった。
魔の眷属にとって最大の敵手となる存在が、死ななかった事を。
「決めたわ……」
イヴリースは悲しみを押し殺し、自分自身に言い聞かせるように言った。
彼女は死んでいなかったのである。
優れた「奇跡使い」であった彼女はとっさに障壁を展開し、辛くも一命を取り留めた。
ファルナー最大のミスは、生存者を確認しなかった事であろう。
イヴリースの存在を知っていればあるいはしたかもしれないが、両者は一度も出会った事がなかったのである。
そんな運命の悪戯が、一つの未来をもたらす事になる。
「この子の名はメリンダ。メリンダ・ギルフォード=エンヴァース……」
娘に対して名前を与えたのだ。
ギルフォードとは彼女の実家の姓であり、ラウルと一緒になった時に名乗らなくなったものである。
「古い言葉では“希望を掲げる者”じゃな」
同じく生き残った産婆の呟きにイヴリースはうなずく。
「いつの日か、こんな地獄のような時代に、一筋の希望をもたらす。そんな願いを込めるわ……」
愛する夫を失った悲しみ、里の仲間のほとんどを失ってしまった悔しさ、このような時代に子供を生んでしまった事への罪悪感。
様々な想いがいりまざっていた。
願いを込めて「メリンダ」という名を送ったのは、何も親としての愛情ばかりではない。
イヴリースはそんな聖人君子ではないし、己がそんな人間だと自覚できないほど愚かでもなかった。
メリンダ・ギルフォード=エンヴァース。
彼女は母の願いに応えて暗黒の時代に終止符を打ち、後の世において大英雄「メリンダ・ギルフォード」として不滅の名を刻む事になる。
しかし、それを母が見る事はなかった……。