女のロマン
エルは最後にこの国ホルディアの首魁、アステリアのところに行く。
マリウスが一番警戒している相手だが、エルに言わせればそうでもない。
アステリアは目的が明確で手段は合理的である為、彼女にとってはむしろ読みやすい相手だった。
「どうも。きちんと管理されているようね」
エルは前置きも挨拶も省略して話しかける。
一国の女王が私室で寛いでいる時に窓の外から、と非常識極まりない事をやったというのに、やられた方も驚きは見せなかった。
エルは不意打ちが失敗した事に特に失望はない。
「ああ」
侍女達は唐突で無礼すぎる訪問に目を剥いていたが、女王はそれを無視して声をかける。
「遠いところはるばる来たのだ、茶でも飲んでいくか?」
「仕事はいいのかしら?」
「ああ、既に終わった」
アステリアは読んでいた本を閉じ、イザベラに二人分の茶を淹れるように命じる。
ミレーユとバネッサは残り、それがエルへの警戒を表していた。
「で? 何の用だ?」
「うん? 問題が起こっていないか、と思ってね」
「それだけではあるまい?」
とぼけた顔で言うエルにアステリアは答えた。
沈黙が落ち、ミレーユとバネッサは主君とエルの間に見えぬ火花が散ったと幻を見る。
「せっかくご主人様の絶倫ぶりと好色ぶりを噂で広めたのに、一向にあなたに手を出さなくて、今どんな気持ちって言って欲しい?」
エルは何でもない顔でそう爆発物を投げ込んだ。
アステリアは無表情を決め込む。
「何の事やら、私にはさっぱり分からないな」
声の調子も普通そのものだった。
ミレーユとバネッサが半瞬身じろぎする。
エルは失望を浮かべて言った。
「案外、頭悪い? 腹の探り合いは止めようって言ったつもりだったんだけど。せっかく狂人のフリをして邪神に勝つ条件を整えようとしたけどマリウス様に台無しにされ、血を流しすぎたせいで今更女の幸せを追えなくてご愁傷様とも言った方がいい?」
やはりアステリアは無表情のままだった。
ただ、今度は口を開く。
「やはりお前が一番恐ろしいな。マリウスは戦意なき者に手をあげる事が出来ない。アウラニースは弱き者に興味を持たない。だが、お前は違う」
心情をたっぷりと言葉に込めた後、一言つけくわえた。
「女の幸せを追おうとは思っていない」
「諦めちゃった? まあ、ご主人様くらいだろうからね。あなたに手を出す勇気がありそうな男って」
淫魔の皮肉を鼻で笑う。
そこにイザベラが戻ってきて、紅茶が入ったカップを並べる。
「マリウスも嫌がっていそうだぞ」
「そりゃ、出来る事なら関わり合いになりたくないでしょうね。私だって、面倒だし」
「私を罵倒する為にこの場を必要としたのか?」
アステリアの表情に怒りはなく、好奇心が浮かんでいる。
エルはさらりと言った。
「ううん。そろそろちょっかい出すのを控えてもらいたいなって。私に通用しないって分かれば、少しは自重する事を期待したのよ」
「ふむ。確かに無駄と分かる努力はしない性分だ」
アステリアは紅茶を飲みながら認める。
カップを置いてから尋ねた。
「しかし、何故今なのだ?」
「これまでご主人様の扱いは定まっていなかったからね。いざという時、ホルディアという選択肢があった方がいいかなって」
「だから私の策動を全部知らぬフリを決め込んでいたと?」
エルは紅茶に手を伸ばし、湯気が出ているのを見て残念そうに戻す。
「全部に気が付いていたかは、何とも言えないけどね」
「ふむ」
アステリアは脳で吟味したが、すぐに答えは出る。
危険を冒していい相手ではないと既に判明しているのだから。
ただ、黙って引き下がるには好奇心を持っていた。
「参考の為に聞くのだがな、もし断ったらどうする?」
「アウラニースをけしかける」
アステリアは紅茶を壮大に吹き、むせこむ。
「ただの脅しにしても恐ろしすぎるわ!」
人生で実に久しぶりに叫んでいた。
「脅しじゃないわよ。アウラニース、あれで結構操縦しやすいし」
これをトゥーバン王国関係者が聞けば「お前だけだ」と総ツッコミを入れただろう。
少なくともアウラニースは、マリウス以外の言う事を聞いた試しがない。
アステリアはそこまで知らないので、疑問を持っただけで言葉にはしなかった。
アウラニースが目の前の淫魔の言いなりになるなんてありえないはずだが、それを言ったら人間の言う事を聞くなど更にありえないだろう。
本能がそれ以上知る事を拒絶したのである。
「それより、人払いをしてくれる? あなたと二人きりで会話したいのだけど」
エルの言葉にアステリアは渋面になった。
「それを呑めると思うか? 大体、後で私がこいつらに話せば同じだぞ」
「それでも、よ」
エルは一旦言葉を切り、イザベラを見る。
「頑張って作ったアイテムが全部いらなくなって、ねえどんな気持ち?」
「ムキーッ」
イザベラは顔を真っ赤にして怒った。
エルは次にミレーユを見る。
「すっかり行き遅れのオバサンになって今どんな気持ち?」
「私はまだ二十代だっ!」
ミレーユは反射的に叫んでいた。
そしてバネッサを見て言う。
「存在価値あるの?」
「全否定!?」
人類最強クラスの暗殺者は涙目になった。
「分かった。お前らは出ていけ」
アステリアは額に手を当てながら命令する。
これ以上、かき回されてはたまらない。
そう思って声を絞り出した。
侍女達が退出するとエルを睨む。
「お前、かなり嫌な奴だな」
三人はそれぞれ気にしている事を的確に抉られ、考えるより先に反応してしまったのだ。
イザベラはともかく、ミレーユやバネッサとは接点があまりなかったはずである。
それなのに見事に指摘し、それを己に見せてきた事をアステリアは察知していた。
つまりホルディアの事をきちんと調べ上げている、という牽制だろう。
エルが実はそういう種類の生き物だと、密かに掴んではいたのだが、それでもまだ猫を被っていたらしい。
マリウスの目が届かない場所でだからだろうか。
そう言ったらどんな切り返しが飛んでくるのか、興味はある。
あるのだが話は進むまい。
「情報と実態のすりあわせは終わった?」
まるでアステリアの心を読んだような事を言ってくる。
「うむ。こちらに心理的圧力をかけようと必死なのが伝わって来たな」
やられっ放しではいないぞ、と釘を刺しておく。
「よかった。伝わらない馬鹿だったら相談しに来た意味がなかったわ」
エルはしれっと答える。
その表情から心のうちは全く読めない。
淫魔は人の心を弄ぶ事を生業とする種族だから、ある程度は当然だろうが。
「それで相談とは?」
「子作りの事なの」
さすがのアステリアもとっさには全てを把握しかねた。
「それはどういう意味だ? バーラ妃とロヴィーサ妃、どちらが先だと揉めないのかという事か? それとも、お前達モンスターとマリウスの間で子供は産まれるのかという意味か?」
「前者よ。後者に関しては、前例を確認済み。もっとも、神の力を手に入れた人間の前例はないから、あまりアテにならないかもしれないけど」
エルは同性から見ても艶っぽい笑みを浮かべる。
ただ、アステリアはそれに惑わされる事はなかった。
「通常ならばバーラ妃が先の方が揉めないだろう。ただし、マリウス王の場合は特殊すぎるからな。どちらが先でも構わない。むしろ、どちらにしろ揉め事が起こるのは覚悟しておくべきだな」
「やっぱり?」
エルの表情に驚きはない。
どちらかと言えば確認したとでも言いたげである。
「特殊だから人間の意見を知りたかったんだけどね」
「特殊すぎて読み切れないな。むしろマリウスが好き勝手決めた方がいいんじゃないのか?」
アステリアは正論を言ったつもりだったが、返ってきたのはため息だった。
「ご主人様はああいう性格だから、波風が立たないよう努力をしているのよ」
「だからお前をこっそり寄越したのか?」
「いいえ、私の独断よ」
エルはきっぱりと言った。
「命令された事しか出来ないのは従者失格。頼まれた事しか出来ないのは女失格だと思わない?」
「少なくとも前者には賛成だな」
アステリアは半分同意する。
「とりあえず、参考になったわ。ありがとう」
「一つ貸しにしておこうか」
冗談めかして言った人間の女王に対し、
「私、ご主人様以外の分は踏み倒すわよ?」
冗談めかして応じる。
目が少しも笑っていなかったので、アステリアはさっさと諦める事にした。
「期待するのは止めておこうかな」
肩を竦めて見せる。
「では、また会いましょう」
「今度はマリウス同伴で頼む」
本心だったが、エルは小さく笑った。
「子連れでもいいかしら?」
「ふむ。淫魔も愛する男の子供を産みたい、といった願望はあるのか?」
アステリアの問いを首の動きで肯定する。
「女のロマンだと思うの」
その言葉を残してエルは帰って行った。
(さて、あの腹黒淫魔、どうもっていく……?)
アステリアはかなりの関心を持って事態を見守る事にする。
エルは飛びながら頭を回転させていた。
結局、一番おさまりがいい方法はアレしかないように思える。
だが、かなり厳しくて上手くいく保証は全くない。
運が絡んでくる事だけに、計算通りの答えを出すのは難しい。
(でもご主人様の為だし)
マリウスの為であれば、やるしかない。
戻ったエルは、女性陣にとある提案をする。
胡散臭そうに見てくるバーラとロヴィーサ、興味なさげなアウラニース、更に愛人侍女達も巻き込んだ。
……数か月後、ロヴィーサとバーラが同時に妊娠したと言う報が広まった。
「ふう、狙い通りいってよかったわ」
唖然とする人々にエルはこう漏らし、更に唖然とさせたと言うが、後年においてこれは創作だと決めつけられている。