十二話「決戦」
「最悪だな。ぶん殴りたい」
マリウスが正直に言うと、ナイアーラトテッフは嬉しそうに笑う。
「当然だろうな。しかし、無駄無駄無駄! 私に楯突いても無駄! 私こそが、究極にして至高にして絶対なる唯一の存在! ナイアーラトテッフ様なのだから! お前達人間は、生命体は、私を楽しませる娯楽に過ぎないのだから!」
その笑い声が酷く癇に障る。
しかし、体が自分のものではないかのように動かしにくい。
「ティンダロスでも分かっただろう? 貴様ら被造物は、神には勝てない。貴様が勝てたのは私のおかげだ。分かるか? お前が私に勝てる可能性など、十那由多に一回もないのだ!」
「那由多とか、どこの世界の単位だよ……」
転生前の世界の単位を持ち出され、反射的に突っ込みを入れてしまう。
ナイアーラトテッフは、そんなマリウスを更に嘲って言う。
「お前の知能では、分かりやすく言ってやらねば理解出来まい? 私は実に親切だろう?」
そうやって言葉責めを再開する。
そんなナイアーラトテッフをマリウスは不自然に思った。
神が自分で言うほどに力の差があるならば、どうして力に訴えないのだろうか。
マリウスの自我くらい一瞬で消し去り、乗っ取ってしまえるはずだ。
何故それをやらず、ちまちまと言葉でマリウスを嬲ってくるのか。
(一つめは単に趣味という場合……)
マリウスにじわじわショックを与え、絶望していく様をゆっくりと観察し、じっくりと楽しもうとしている。
この可能性が高いとは思う。
少なくとも一思いに止めを刺してやろう、といった発想とは縁がなさそうな性格の悪さだ。
(そしてもう一つは、力ずくでこれないという場合……)
力ずくで乗っ取ると体が壊れるとか、マリウスを絶望させるのが条件だとか、そういった場合。
これだと力を一切使ってこない説明にはなるし、何やら必死なようにも見える理由にもなっていると思う。
ナイアーラトテッフが言った事が事実かどうか、マリウスに知る術はないのだ。
もしかしたらマリウスの心をへし折る為に、でたらめを言っている可能性もある。
(いや、少なくとも自分が与えた力を自由に取り上げられるっていうのは本当かな?)
でなければ今頃、ティンダロスのように秒殺出来ているはずだ。
いずれにせよナイアーラトテッフは自分で言うほど、全能でも強大でもなさそうである。
ならばただの人間となってしまったマリウスでも何とか出来そうだ。
再度、体を動かそうと試みる。
やはり動かない、がしかし先ほどまでよりも体が軽くなった気がした。
(そう言えばここは精神力の世界なんだっけか?)
ナイアーラトテッフの「お前ごときの……」という言葉を思い出す。
精神力で変わる世界ならば、ナイアーラトテッフに勝てると思えば体が軽くなるのは分かる。
そしてナイアーラトテッフが執拗に言葉で嬲ってくるのも。
(俺は勝つ! 勝ってもう一度、バーラやロヴィーサ、ゾフィ、アル、エル、アウラニースらに会う!)
現金なもので希望が見えただけで力が湧いてくる。
「その目は何だあ?」
ナイアーラトテッフは、そんなマリウスの変化に気づいた。
そして顔を近づけて囁きかける。
「指一本動かす事さえ出来ない分際で、何をする気なのかな?」
「ご主人様」
マリウスの頭にゾフィの声が響いてきた。
「ご主人様」
「マリウス」
アルとエルに妻達、そしてアウラニース達の声も。
「みんな……」
マリウスは思わず声に出していた。
それを聞いたナイアーラトテッフは笑う。
「ああ。淫魔ならばこれくらいは出来るな。ただ、ティンダロス戦で学習しなかったのか?」
神が指を鳴らすと爆発するような音が響き、妻達の悲鳴が聞こえてきた。
「神に被造物の力は通じない」
わざと間を置き、そしてマリウスの耳元で囁く。
「残念だったな。この究極にして至高にして絶対なる唯一のふべしっ」
マリウスの右拳がナイアーラトテッフの顔面に炸裂し、たたらを踏んだ。
「一瞬の隙を作ってくれれば充分なんだよ」
マリウスはゆっくりと右腕を回す。
「意外と大した事ないな、絶対なる唯一のふべしさん」
マリウスは逆に挑発して笑いかけてみる。
「こ、このっ!」
ナイアーラトテッフは顔を真っ赤にして声を震わせた。
「ちょっと動けるようになったからって図に乗るなよ、このあべし」
もう一度殴ると、今度は後ろに吹き飛ぶ。
「隙だらけにもほどがあるわ、間抜け」
マリウスは勝ち誇り、嘲笑を浮かべてみる。
「ふ、ふ、ふ」
ナイアーラトテッフは不気味な笑い声を立てた。
「このナイアーラトテッフ様の力に絶望したいらしいな」
立ち上がると指をマリウスに突きつける。
「いいだろう! お前ごときでも理解出来るよう、我が力を見せてやろう」
「ここからが本当の勝負か」
マリウスは両手を叩く。
勝てると自信を持って言い切る事は出来ないが、全く敵わない相手でもないとは言える。
少なくとも勝負にはなるはずだ。
未だにマリウスの事を見下した態度を取り続けているあたり、足元をすくう機会はありそうである。
(神は倒せるってティンダロスで証明済みだしな)
それが心強かった。
そんなマリウスに対して、ナイアーラトテッフはあくまでも自信満々の態度を崩さない。
「人と神の差異を知っているか? 知らないだろう? 教えてやろう」
ナイアーラトテッフが指を鳴らすと、彼の分身が現れる。
千や二千ではない、一万や二万でもない。
東方攻防戦の際で見た、アンデッドの大軍よりも更に多い事だけは明らかだった。
「精神力だよ。こうして見せれば理解出来るだろう?」
果てが見えぬ世界を、ナイアーラトテッフの分身が埋め尽くす。
「私の精神力は数字で言えば、ざっと一億五千万だ」
数字を突きつけて神は笑う。
「対するお前はせいぜい一か? 一億五千万倍の敵に勝てるつもりでいるのか、お前?」
「ただの、こけおどしっぽいな」
マリウスはばっさりと切り捨てて、ナイアーラトテッフを逆上させる。
「ならばとくと味わえ、一億五千万の力を!」
マリウスは一斉に掴みかかられ、両脇から取り押さえられ、殴られる。
「お前ごときが、人間ごときが、神を超えるとでも言う気か!」
両頬を、腹を、股間を同時に殴られ、蹴られた。
神との最終決戦の割には原始的すぎる戦いで、マリウスは一方的に叩きのめされ続ける。
数が違いすぎる以上、当然の帰結だ。
「馬鹿が。その人間ごときの心を折るのに必死になりやがって。そんなお前の態度は、俺に勇気をくれるんだよ」
マリウスは荒い息を吐きながら、ナイアーラトテッフ憎まれ口を叩く。
「黙れえっ!」
拳の雨と蹴りの嵐がマリウスを襲う。
「勝つのは私だ! たった一人の人間に! 何の力もない凡人に! このナイアーラトテッフ様が! 負けるはずがない!」
数え切れぬほどの攻撃を浴びても、マリウスの意識は途切れず、痛覚も麻痺しない。
恐らくは精神の世界だからだろう。
一発攻撃を食らう度に痛みが走り、マリウスは耐えるしかなかった。
だが、マリウスの心は折れない。
(精神力だけで決まるなら……諦めなきゃ何とかなるなら!)
絶望しないにはそれで充分なのである。
ナイアーラトテッフは知らないのだろうが、転生前の人生は諦めの連続だった。
小学生の頃はスポーツ選手に憧れるも、あっさりと挫折。
ならば勉強で頑張ろうと高校受験で難関校を受験するも、志望校に入れず。
中学、高校と好きになって告白した女子には振られしまい、立派になって恩返しをしようと思っていた両親は、高校の卒業式の日に交通事故で他界してしまう。
そしてそれは決して特別な事ではない。
諦めずに努力すれば夢がかなう、というのは一握りの人間だけが味わえる事だった。
孝行のしたい時分に親はなしという諺もある。
しかし、もし諦めなくていいだけならば。
天災や病気など、本人ではどうしようもない事ではなく、ただ諦めなければいいだけならば。
(諦めてたまるか!)
両腕を振りほどこうともがく。
びくともしないが、諦めない。
どれほど殴られても、執拗に蹴られても、全身で苦痛を味わっても。
諦めないだけで、マリウスは倒れないならば。
(それに、俺は一度置いていってしまっている……)
雪山での事だ。
一種に遊びに行った友達と、ナンパで知り合った女の子達。
ここでマリウスが諦めれば、また置いていく事になる。
ロヴィーサ、エマ、バーラ、ゾフィ、アル、エル、アウラニース、アイナ、レミカ、キャサリン……この際、男は割愛しておく。
彼女達を置いていきたくはない。
「あいつらのところに帰るんだっ!」
とうとう右腕を振りほどく事に成功する。
「な、何だと……」
それがナイアーラトテッフには信じられない。
一瞬、分身達の動きが硬直した隙に、一番近くにいた者を殴りつけた。
殴られた分身は簡単に消滅してしまう。
(いける!)
右腕をメチャクチャに振り回すだけでも、分身達は消滅する。
意外なほどの脆さであった。
「図に乗るなあ!」
再び取り押さえられるも、今度は頭突きで倒す。
「な、何ぃっ」
本体は次々と薙ぎ倒される分身を見ている他なかった。
(な、何故だ……何故戦うのだ。何故諦めないのだ……)
ナイアーラトテッフにはとても信じられない事なのである。
矮小で下等な一生命体にすぎないはずの存在が神に抗い続けている事も、絶対的なまでに強大な力を目の当たりにしても絶望しない事にも。
人間は絶頂期にへこませてやれば、心が折れて転落する脆弱な生き物ではないのか。
自分より遥かに強大な存在を見れば、平伏して許しを請う哀れな生き物ではないのか。
ナイアーラトテッフの失敗はいくつもある。
人間という存在を見下し、理解しようとはしなかった事、マリウスこと山田隆司との直接対決を選んでしまった事が挙げられるだろう。
挫折した経験、大切な者を失う経験、散々苦い思いをしてきた彼にしてみれば、「諦めなければいい」だけのこの状況は、「超絶ヌルゲー」でしかなかったのだ。
だが、ナイアーラトテッフはそのような事を理解していない。
人間は困難にぶち当たれば、必ずしも絶望するとは限らない事さえも知ろうとはしなかったのだ。
諦めさえしなければ何とかなるのであれば、別にマリウスでなくてもすぐには諦めないだろう。
人間が絶望するのは、相手が強大だからではないのだから。
「知らなかったのか、ナイアーラトテッフ。人間は諦めなきゃ何とかなるって事を、希望って呼ぶんだよ!」
マリウスは自分が特別だとは思わない。
今口にした事も、きっと誰かの受け売りに過ぎないだろう。
しかし、人間とはそういう生き物ではないだろうか。
誰かを助け、誰かに助けられ、互いに影響しあって生きていく。
「人」という字は、お互いを支えあっている、という言葉は使い古されているほどだ。
「何なんだ? 一体、何なんだよ、お前ッ!」
「ふん、諦めなきゃいいだけなんざ、ぬるすぎるわっ! いつも何かを諦めさせられる人間を舐めんなっ!」
絶叫した神にマリウスはそう怒鳴り返す。
ナイアーラトテッフは、理解不能の展開に半ば思考停止状態になりつつあった。
ずっと黒幕気取りで行動し、誰かの生き様なり信念なりを受け止めた事などないツケが出始めている。
もっとも、マリウスのものは信念とは到底呼べない。
ただ、死にたくないから必死にあがいているだけだ。
凡庸な男のせめてもの意地でしかない。
それを信念など美化、誇張すれば、大多数の者に笑われるだけであろう。
されど、これまで斜に構え、すかし続け、誰かを嘲笑い続けてきたナイアーラトテッフは、マリウスのあがきさえ受け止めきれない。
世界や生命を創造する力を持っていても、あらゆる事象を影から操る事が可能であっても、その精神は未熟そのものでしかなかった。
もし、ナイアーラトテッフの精神が、力の強大さに比例しているのであれば、マリウスに勝ち目などあるはずもない。
ナイアーラトテッフがそんな存在でないと、マリウスも既に気がついていた。
でなければ一億五千万対一という、絶望的な数の差で、自分が反撃出来るはずもない。
「これでラストーッ!」
マリウスの声が響くと、最後の分身が消滅した。
「ば、馬鹿な……そんな馬鹿な……神である私が、絶対なる唯一神である私が、人間に精神力で負けるなんて……」
「力は神でも、心は神じゃなかったって事じゃね?」
マリウスは面倒くさげにそう言う。
もし目の前の神の精神力が、己がイメージする神仏や仙人のようであったら、そもそも殴る事すら出来なかっただろう。
それくらいの事は弁えていた。
「ちょ、調子に乗るなよ? 私はまだ諦めたりしないぞ」
ナイアーラトテッフは震え声でそう言い放つ。
それを聞いたマリウスは、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「それは好都合。今までお前に召喚されたりした人達の分、俺がたっぷり返してやるよ」
「な、何……」
神は怯えたように後ずさりをする。
心理的に完全に圧倒されてしまっていた。
「まあ泣いて謝っても許さないけどな」
やけに生き生きとしている、とナイアーラトテッフは感じた。
「も、もしかして、お前の本性……」
「泣いたとて、決して許さん、ホトトギス……俺、才能ないなぁ」
自分に呆れながら、握り拳を固める。
そして神に叩きつけた。
「ぶへっ」
ナイアーラトテッフは呆気なく吹き飛ぶ。
だが、マリウスは油断しない。
(手応えがなさすぎる)
いくら精神力で決まる世界だからと言って、仮にも神を一方的に叩きのめしているというのは不自然だ。
どんでん返しの一つや二つ、用意されていると見るべきであろう。
マリウスはナイアーラトテッフを殴り続けながら、警戒を怠らなかった。
だが、一方的な展開は終わらない。
「こ、このクソ野郎……」
ナイアーラトテッフは、ぼろぼろになりながらマリウスを睨みつける。
まがりなりにも神だけあって、根性はあるようだ。
そんな神を見てマリウスはとある推測を口にする。
「お前、もしかして俺の力を封じていられるのは、この世界にいる間だけなのか? だから不利な状況が続いても、撤退しないんだな?」
「き、貴様……馬鹿じゃなかったのか?」
ナイアーラトテッフは愕然として、思わず答えていた。
その反応にマリウスは顔をしかめる。
「思考に没頭しようとするたび、強制的に停止させられていたんでな」
答えになっていない事を言う。
馬鹿なのか煙に巻いているのか、ナイアーラトテッフには判断がつかなかった。
されど、一条の光明を見つけた気がして叫ぶ。
「馬鹿じゃないなら分かるはずだ! ティンダロスが滅び、私まで滅んだら世界はどうなると思うっ?」
「どうなるんだ?」
マリウスに訊き返され、ナイアーラトテッフは内心でほくそ笑みながら言った。
「神の力が完全に消滅したら、この世界は終わる。だから神は滅んではいけないのだ。それを理解したら手を引け!」
マリウスは目を丸くし、そして言う。
「でも、俺達の勝った方が、相手の力を奪えるような流れじゃなかったっけ?」
「ぐっ」
ぴたりと言い当てられて言葉に詰まる。
「神にしか出来ぬ芸当」とでも言い返せばよかったのに、それすら出来なかったナイアーラトテッフは震え声で言った。
「貴様に神の力を御せると思っているのか?」
「俺が勝てる程度の力だったらな」
神の脅迫に対してマリウスは即答する。
「大体、ここで見逃したらお前がもうちょっかい出してこない保障なんか、どこにもないじゃないか」
「わ、私は神だ。神は約束を守る」
哀願するような声を出されたが、マリウスは何の感銘も受けない。
「散々、他を馬鹿にして、弄んでた奴に言われても説得力ゼロなので」
「わ、私は最強のあべし」
マリウスは何かを言いかけた神を殴る。
「究極あべし」
更に殴る。
「至高あべし」
まだまだ殴る。
「無敵あべし」
どんどん殴る。
「絶対あべし」
更になぐる。
「唯一あべし」
とことん殴る。
「も、もう勘弁してくれ」
とうとう降参した神にマリウスはとどめの一撃を繰り出す。
断末魔の絶叫が響いた。
マリウスが跳ね起きると、そこには心配そうな顔をした妻達の顔があった。
「大丈夫?」
「随分とうなされていたけど……」
「ああ」
マリウスは短く返事し、自分の体をすみずみまで確認する。
今までにない力が溢れてくるかのようだった。
そこにイザベラが駆け込んでくる。
「出来ました! エリクサー! て、マリウス様が起きてっ? またこのオチですかーっ!」
イザベラが涙目になって叫ぶ。
それを見たマリウスが真剣な顔をする。
エリクサーは精製に最低でも一週間はかかる代物だ。
材料を集めるところから始めるならば、余計にかかるだろう。
「俺、どれくらい寝ていた?」
「一か月です。本当に心配したんですよ」
ロヴィーサがほっとしたような表情で言った。
「んん? 何か変わったな?」
アウラニースは不思議そうな顔で、覗き込んでくる。
どうやら直感で察知したらしい。
「それよりも」
マリウスは気がかりだった事を尋ねる。
「夢の中で皆の悲鳴が聞こえた気がするんだが、大丈夫なのか?」
一同は顔を見合わせ、アウラニースが得意げな顔をして胸を張った。
「オレがアウラニースばりあ~を張ったからな。褒めていいんだぞ」
「おー、偉い偉い。さすがアウラニースだな」
「えへん」
アウラニースは嬉しそうな顔で胸をそらす。
「説明になってねぇ」と思ったが、どうやらアウラニースがとっさに守ってくれたのは事実のようである。
妻と召喚獣の表情を見て察し、納得する事にした。
アウラニースがこれだけ得意げなのであれば、本当に大した事はなかったのだろうから。
空気が重いと感じたマリウスは、和らげようと冗談を口にする。
「ティンダロスは死んだろす?」
「さて、仕事に戻りましょうか」
女達は無表情になり、立ち上がる。
アウラニースですら例外ではない。
「ご、ごめんなさい」
マリウスは頑張って謝り倒すはめになった。
え? シリアスだって?