野球。
サークルで書こうとしたらページ数をオーバーしていました。なのでここに投稿します。
刃物のように鋭く切り込んでくる日差しが、むき出しになった半そでの腕を焼く。
目を瞑っていても分かるほど視界を埋め尽くさんばかりの青が頭上から被さり、灼熱を帯びた空の腕で魂まで引き抜かれそうになる。空と魂を綱引きし、自分の側に僅かに引き込んで薄く目を開ける。汗で滲んだ視界に色が映え、最初に網膜を刺激するのは細かい砂粒が鍋の底のように弾ける褐色の地面。視野の中心へとラインを引くように白い線がその上を走っている。
鼓膜の奥を引っ掻くようなワンシーズン早目の蝉の声が聞こえる。周囲の熱が音の波長を歪め、一定して響く蝉の声がわんわんと反響する。僕は頭を振ってその声を振る切ろうとした。正面に視線を戻す。
白い線で囲まれた箱のような場所に、人が立っている。黒い靴先が身じろぎするたびに、カチャカチャと音を鳴らす。その上は少し茶色く汚れたズボンをはいており、白地に青空と同じ色を引き移したラインの入ったユニフォームが体の力に反応して皺が寄っている。
僕はそのユニフォームを着込んでいる人間と目を合わせる。強い意思が宿った眼、敵を見る眼。奥歯を噛んでいるのか、頬が若干強張っているのが分かる。汗の浮いた焦げた肌が固く引き締まっている。自分も同じだから分かる。汗で吸い付いたユニフォーム。自分のものとは思えぬほどに砂まみれで乾いた指先。
同じだ、と僕は確信する。違うのは相手の指先には銀色のバット。僕の指先には赤いラインの入った白球。指に力をこめるとざらざらとした白球の表面の感触が伝わってくる。こちらも敵を見る眼を相手に注ぐ。バッターボックスに立った時点で、マウンドに立つピッチャーとバッターは対峙する敵同士になる。数年来の敵と相対したような緊張が走り、喉の奥へと唾が飲めなくなる。渇きを訴える喉がさらにひりと痛み、魂の手綱を空に取られそうになる。そうさせないために僕はバッターの後ろにいるキャッチャーへと思考を走らせる。
背後で今か今かと待ち構える気配がする。今はツーアウト、二、三塁。記憶の中にあるスコアボードへと僅かに視線を転じる。九回裏、二対三。ここで押さえなければひっくり返される。極度の緊張に晒された手足が外界の温度とは反比例して冷たくなり、引きつった唇の端に砂の混じった風が吹き込んで気持ちが悪い。唇の端を拭う位、出来なくはないがそうしてしまうと緊張の糸が途切れてしまいそうで精一杯我慢をする。
白球を掴む手に力を込める。炎天地獄の下、冷たい指先でボールを握りキャッチャーへと目をやる。事前に約束されたサインが出され、僕は頷いた。空に引き込まれそうになっていた魂を一気にこちら側に引きずり込み、指先へと全神経を集中させる。足を僅かに上げて勢いをつけ、指が染み付いた変化球の所作を半自動的に行う。振りかぶった腕から手へと力がひとつの大きなうねりとなって移動し、白球が指から離れた。
瞬間、魂は遥か彼方へ。炎天地獄の釜の底で力をぶつけ合う者達を俯瞰する。それとほぼ同時に鋭い金属音がマウンドに立つ僕を貫いて球場を見下ろす僕の魂も置いて青い空の彼方へと突き抜けてゆく。
その音が吸い込まれてゆく空を僕は振り返った。鳥の一声のような鋭い音。それは僕に夏の終わりを告げた。
「カッ、キーン!」
帰り道の小学生の一団がはしゃぎながら通り過ぎてゆく。プラスチック製の黒いバットを持った小学生を先頭に、二、三人が続く。きっとこれから野球でもするのだろう。僕は指に染み付いた白球の感触を思い出していた。投げる瞬間、指の腹から離れる時の妙な浮遊感。表面がざらざらしているせいか、手離した途端、余計に鮮明に感じられるその存在感。蘇りかけた感覚を閉ざすように僕は拳を握った。
野球はもうやっていない。夏の大会の切符はつかめず、予選敗退。文字通り砂を噛み、泥を呑む覚悟で挑んできた三年間はあっけないほどの幕切れだった。
相手が悪かった、仕方がないと皆は言う。相手は毎年、決勝へと確実に歩を進める強豪校だった。だから何だ? と僕は思う。負けは負けだ。それ以上でも以下でもない。結果が全て、勝負の世界に分け入れば分け入るほどにそれは痛いほど理解させられる。
軒を連ねる商店街のショーウィンドウに映った自分の姿にふと目が行く。野球で敗れて不良を地でゆく少年の姿、がそこにはあった。皆、これすらも仕方がないという。野球に高校生活を捧げてきた人間の反動精神、それを受け止めてやろうと皆が慰めめいた視線を振りまく。
冗談じゃない。負けた人間をそんな眼で慰撫することがどれほど傷口に沁みるかなど考えもしない。そんな眼が嫌で染めた茶髪を揺らして、鞄を片手に商店街を歩いた。最寄りにゲームセンターがあったが、あそこは煙臭い本物の不良のたまり場だ。僕のような中途半端に人生を挫折したつもりになっている人間は、やさぐれるにしてもその一団に入ることは違う気がして躊躇してしまう。結局は中途半端。本物の不良になることも出来ず、かといって元に戻る気もない。たまに時間がじりじりと削られているのを感じるときがある。きっと、これが浪費というものなのだと僕は感じていた。あの日に自分から魂すらも奪い取ろうとした熱気のようなものではない。魂すらも捧げるという刹那にかけたものはもう感じない。代わりに魂が少しずつ削れて変容しているのを感じた。一瞬で奪い取るものが善ならば、今の僕の行為は悪か。不意に考え付いて、らしくないと首を振った。
野球少年をやめて不良少年になった自分を持て余す家にも帰る気になれず、僕は商店街から少し歩いたところにある河原で足を止めた。足元にある緑色の葉が太陽光に反射して鋭く輝く。緑の上に座り込む。道は小高い堤防にあった。下の土手をジョギングする人も見える。河を挟んで近くの野球場が見え、そこから絶え間なく声が上がった。きっと少年野球チームが練習をしているのだろう。あの日と同じ、灼熱で周囲の音が歪んで聞こえる。
寝転んでみようか、と思い上体を後ろに反らしかけたその時である。音が歪まないほどの近くで自転車のベルが鳴り、頭の上を風が吹きぬけた。
その風が吹いていった方向に目をやる。そこには自転車に跨った若い女がいた。買い物帰りなのか、自転車の籠にスーパーの袋に包まれたネギが突き出ている。女は髪の毛を赤く染めた変わった風貌をしていた。僕の方を見、顎で頭の上をしゃくる。道に目をやると生々しいブレーキ痕が白く刻まれていた。恐らく僕が上体を下ろそうとした際、頭の部分が道にはみ出たのだろう。その時に道の際を走っていた女の自転車が前に出た頭に驚き、急ブレーキをかけた、ということだと理解した。
女は自転車を止めて暫くこちらを見ていた。見たところ目鼻立ちも整った美人なのだが、顎を突き出して鼻息を荒くしているところを見るとそうは思えなくなる。その眼に宿る必死さに、僕は謝るのも馬鹿らしくなって女から顔を背けた。腕を枕にして寝転がろうとすると、「ちょっと、ちょっと!」と図々しい声が後頭部に突き刺さった。僅かに背後を見やると、女が自転車を道の脇に止めてこちらに近づいてきていた。マズイ、と思いつつここで謝るのも情けないと判断した頭はそのまま無視を貫いた。
「寝転がったの、謝ってよ」
思っていたよりも子供じみた言い方に虚をつかれた気分だったが、僕は聞こえていない風を装った。
「えー、無視とか」
女の声が頭上から降り注ぐ。知ったことではないと瞼を閉じようとしたとき、首筋に何かが触れた感触を覚え、僕ははねるように起き上がった。見ると、女が屈んでキョトンとした表情で僕を見つめていた。女の指先が目に入る。ネイルアートを施した指が太陽を照り返して僅かに輝いた。その指先で触れられたのだと直感し、僕は首を手で覆った。女は悪びれもせずに口を開いた。
「首筋のところでぴっちり、焼けている部分とそうじゃない部分が分かれているね。何かスポーツしてたの?」
「……関係ないでしょう」
低い声で言うと、女は黙ったが、その目は好奇心旺盛な子供のように僕を上から下まで見つめている。値踏みされているような視線に不快感を覚えながら、僕はその場を立ち去ろうとした。
その瞬間、
「分かった。野球だ」
女が発した声に僕は思わず振り返っていた。「どうして」という声を漏らしてからしまったと感じた。その時にはすでに遅く、女はにやりと笑った。
「そこの野球場で少年野球がやっていたからテキトーに言ってみたんだけど、当たってた?」
女の問いかけに今度は無言を返事にした。当てたからといってどうなのだろう。お前に何が出来る。そのような顔を作ったつもりだったが、なぜか女は笑った。僕は女の指が触れた首筋を手で覆いながら、その場を後にしようとした。その背へと声が掛けられる。
「燻ってるんだねー、少年」
歌うような声に僕は眉根を寄せて振り返る。別に燻っているわけではない。もう野球とは完全に縁を切った。そう言おうとした僕の口を遮るように、女は立ち上がって伸びをしながら言葉を発した。
「そうだなぁ。たまには体を動かしてみたいし、よし」
女は自転車へと歩み出した。帰ってくれるのかと思い僕もさりげなくその場から離れようとしたが、女は籠の中から玉ねぎとネギを取出しそれを持って僕の前に立ち塞がった。僕は女の右横を通り抜けようとする。それを女が体ごと移動して制した。
「野球しよう、野球」
女がおもちゃをせがむ子供のような無邪気な口ぶりで言った。僕は勿論、その言葉を問い返した。
「野球すんの。これと、これで」
女がネギと玉ねぎを交互に上げる。僕はその視線を後から追うように女が両手に握ったネギと玉ねぎを交互に見比べた。
「これと、これで?」
僕が指差して尋ねると、女は「うん、そう」と何が問題なのか分からないと言ったように応じた。
「冗談じゃない。これは、野菜でしょう?」
「うん。バットとボールがないから野菜で。ダメ?」
女が首を傾げる。駄目とかいう以前の問題であるのは明白で、僕は口を開けたまま唖然とするしかなかった。その無言を肯定と受け取ったのか、女は僕に玉ねぎを持たせた。薄い皮の感触はざらざらとした白球とは正反対のものだった。女の目を見つめる。本気、云々よりも正気を疑ったが女の目は正気を通り越して真剣そのものだった。
「じゃあ、道は危ないから土手でやろう。ほら、こっちこっち」
楽しそうに女は斜面を下る。僕は玉ねぎに視線を落としながら、文句を垂れつつ緑の斜面を降りた。何を考えているのかは知れないが、こんなことをしても何の得にもならない。それどころか、食べ物で遊んでいる時点で人として駄目である。女は一足先に土手に降りて、バットよろしくネギを振り回していた。傍目にも痛々しいその格好に目を覆いたくなったが、玉ねぎを受け取った手前そうもいかなかった。この玉ねぎを自転車の籠に戻してここから立ち去る手もあると思い立ったその時、
「どうしたー? ピッチャービビッてんのー。さっさと来なさいよ。それとも、負けるのが怖い?」
なぜだか目の前に現れた奇妙な女に負けることだけはしたくなかった。僕は舌打ちをひとつ、土手に降りた。ネギを掴んだ女と対峙する。ちゃんとしたマウンドでもないのに、指先から熱が奪われてゆくのを感じた。あの日と同じ感触に体がなってゆく。まだ忘れてはいない。バッターを目にすれば習い性で体が勝手に反応する。
「来なさい。一球入魂、って感じで」
ネギを掴んで女が勇ましく言った。一球入魂。その文字の示すとおり、僕は一球に魂を込めていたことを思い出す。空との魂の綱引き。空の引力から魂の手綱を無理矢理引き取り、球に乗せる。その行為を何度してきたことか。
「……後悔、しないでくださいね」
僕が最終確認の言葉をかける。「どーんとこーい!」と女が赤い髪を揺らした。
馬鹿げているのは分かっている。玉ねぎとネギで野球なんて、とどこか冷静な自分は客観的に見ている。
止めておけ、得にもならない。
分かっている。だけど、負けたくない。背を向けることへの恐怖が体の底から湧きあがってくる。
僕はあの日と同じように、足を僅かに上げ、その瞬間に発生するばねのような反動を肩から腕に腕から指先へと伝達させた。蝉の音階を外した鳴き声が聞こえる。指から流れるように離れてゆく玉ねぎ。あの日とはかけ離れているはずなのに、魂の像があの日の視界とぴっちりと合致した。
瞬間、女が奇声を上げてネギを振った。耳の奥に残った鋭い金属音は鳴らず、代わりのように玉ねぎの落ちる音が耳に届いた。
「いやはや、やっぱりこうなっちゃったか」
女が玉ねぎを拾い上げる。その手でついた砂を払い、服でごしごしと拭った。ネギを肩に担ぎ、女は僕へと歩み寄ってきた。手に持った玉ねぎを僕の手に握らせ、女は満足そうに頷いた。
「うん。やっぱり強い。こんなところで立ち止まってないでさ、もうちょっと連投してみなよ。まだ少年の人生は試合終了の号令は鳴らないんだから」
玉ねぎ越しに手を重ね、女は歯を見せて笑った。
玉ねぎを僕の手に乗せたまま、女はネギを自転車の籠にさして去ってゆく。僕は手にある玉ねぎに目を落とした。
「まだ、試合終了の号令は鳴ってない、か」
僕はとんでもない女に絡まれたのだと思い、くすりと笑った。あの日の代わりにもならない白星。だが、半端者で人生を削るよりはマシになれる白星に思えた。
掌に収まった玉ねぎに視線を落とす。まだこの手に魂の手綱はある。いくらでも再挑戦の機会が与えられていることを奇妙な女に教えられて、僕はらしくもない微笑をひとつこぼし、日が傾きかけた土手を歩いた。
遠く、試合続行の笛の音が耳を掠めた気がした。
僕自身は野球はあんまり得意ではないんですが、書いていて夢破れて燻ったとしても、誰かの思いもかけない行動で取り戻せる明日もあるのかもと思えました。こんな女の人が本当にいたら、ちょっと引きますけれど(笑)




