第一部
その日、まだ暗い名神高速を、僕は西宮から大津へ向かって走っていた。
5月とはいえ明け方前はまだ寒く、吹きつける風が身震いするほど冷たかった。
それは僕が、カワサキの1000ccで名神高速の追い越し車線を飛ばしているからでも
あった。
僕は仕事の時はたまに自動車に乗る時もあったが、バイクというのが好きだった。
もう十五年か十六年、ツーリングだの、散歩だの言ってはあちらこちらを走りに行ったり
していた。空気は壁のように僕を押し戻そうとし、ヘルメットの表面を流れていく風はま
るでうなり声をあげるように低い音を響かせながら後ろへ流れてゆく。タイヤはアスファ
ルトを蹴り、暗い闇を切り裂くように遅い大型トラックを次々に追い越していく。まるで
風に乗って空を飛んでいるような、そんな感覚が好きだった。
高速道路のオレンジ色のランプはカワサキの青い塗装を、深い紫色に見せていた。
天気も申し分なかった。もう少し着込んで来ていればよかっただろう。
カワサキは天王山トンネルを潜り抜け、京都へ向かう坂を登っていった。空は暗いが、か
すかに朝の匂いがした。
夜が明け始めるまでまだ一時間はある。暖かさ本番となった晴れの土日だから多くの車が
出てくるに違いない。たくさんの車が名神高速を利用するだろう。僕は京都付近の渋滞に
巻き込まれないうちに大津まで到着しようと思っていた。そしてハンドルに取り付けた腕
時計を見て時間を計算していた。予定では、大津SAで小休止を取り、琵琶湖の東を北上
する。それから北陸道へ入ってすぐの賎ヶ岳SAまで行く。
彼女は夜中から250ccのヤマハで能登半島の内浦というところから、南下コースを走
っている。計算どおりならば、お互いに待たずに琵琶湖の北で落ち合えるはずだ。
どんな子なんだろうと思った。前日の夕方初めて電話で話をしたが、明るくて楽しそうな
子だった。彼女はある日、僕が開いているページを見てメールを送ってきた。お互いバイ
クが好きだったから、ツーリングの話をたくさんメールで交換したものだった。まあそう
いう話をしているうちに一緒に走ろうということになったのだ。僕は、日本海沿岸は加賀
より北へは行った事がなかった。いつも走るのは四国や九州方面だった。東北や北海道に
も行ったことがあったが、なぜか北陸というところだけは、僕の中で寒くて暗いというイ
メージがあったせいかそれまで行ったことがなかった。
彼女はまだ経験が浅いということもあって、いつも能登半島を走っていて、いちばんの遠
出は金沢だという話を聞いていた。
一緒に走ろうという話になったとき、僕は能登まで行くと言った。しかし、彼女は自分も
走るのだと言い、春の琵琶湖へ行きたいと言った。そしてツーリングに行くことになった
というわけだ。
僕が住む芦屋から琵琶湖は近い。自分の庭みたいなものだから年に数回は走りに行ってい
た。しかし彼女にとっては大冒険だっただろう。初めての遠出、そして初めての高速道路。
彼女がバイクの他に乗れる乗り物は自転車だけだった。きっとその頃は大きなトレーラー
が走っている真っ暗な北陸道を、小さなヤマハでびくびくしながら南へ向かっていたのだ
ろう。
結局大津SAには予定より20分も早く着いた。僕はいつものように給油をし、暖かい缶
コーヒーを買って、タンクバッグに入れてある地図を見ていた。
予定どおりなら僕は、いったん敦賀まで行き、Uターンして彼女と待ち合わせている南下
方面の賎ヶ岳SAへ向かう。彼女がもしまちがってSAへ入りそこねたとしても、長浜か
多賀あたりで捕まえようと思った。「小松を過ぎました」と言うメールが来ていた。とい
う事はだいたいプランどおりに進んでいるということだと思った。僕は高速道路の位置関
係をしっかりと頭に入れておいた。
空が明るくなってきた。先ほどまで暗かった空が、やがて藍色に変わり、コバルトブルー
になった。
東の空はさらに明るい朝焼けの空で、うっすらと赤みを帯びて暖かな感じを与えていた。
それでも明け方はまだ冷えるものだ。僕はコーヒー缶を捨てると、カワサキに向かって歩
きはじめた。それからリヤに積んだ防水バッグから長袖Tシャツを取り出しジャケットの
下に着込んだ。その他に防水バッグに入れていたものと言えば、下着と靴下だけだった。
それからタンクバッグには地図の他にはサングラスと煙草が入っている位で、まるで散歩
にでも行くような荷物だった。琵琶湖へ行くだけなら、その位で大丈夫だからだ。
僕はエンジンを始動しSAの敷地をゆっくりと走りながら、簡単にカワサキの調子を見た。
それから大きく旋回するとランプへ向きを変えた。ヘルメットのシールドを下ろしスロッ
トルを開けると、カワサキはまだ冷たい空気を切り裂きながら本線へ向かって加速をはじ
めた。
途中のパーキングで朝飯を食っていたりしたら、すっかり夜が明けた。僕は右手に朝日を
見ながらひたすら北上を続けた。
僕はひとりで走るときは地図などほとんど見ない。めんどうくさいからだ。適当に北とか
南とかに向けて走るだけだ。しかし、その日はそうは行かなかった。プランどおりに彼女
を迎えに行かなければならなかった。彼女が遅れるのはいいが、僕が遅れたら面目が立た
ないと思った。まあそれでもその日は比較的に時間は余裕があっただろう。
朝の日差しがまぶしい北陸道を走っていると、賎ヶ岳SA2kmの標識が見えた。僕はゆ
っくりとスロットルを戻した。カワサキの速度はみるみる落ちた。
約束の時間にはあと15分あるから遅れずには済みそうだ。しかしどんな子なんだろう。
僕はわずかに緊張していた。
やがて1kmの標識が見えた。僕は左足でギヤを落とし、さらに速度を絞った。優しそう
な子なのは電話したからわかっている。かわいい子だったらいいなあ。
そんなことを思いながら、僕はウィンカスィッチを操作し減速レーンへ入った。
まだ来てないかもしれない。彼女は初心者なのだ。案外時間がかかって、僕はここでしば
らく待つことになるのがおちだろう。今から緊張していてもしかたない。
カワサキを止めてコーヒーでも飲んで、気長に彼女を待ってやろうと思った。
僕はさらにギヤを落とし、SAの敷地へ乗り込んだ。
するとエリアの建物の前の二輪駐車スペースにヤマハの小型車が止まっているのが見えた。
彼女から聞いていた車種で、赤と白の色も同じだ。リヤには大きな荷物をめいっぱいに積
んでいて、その後ろの歩道と駐車スペースとの段に女の子が座っている。赤いライディン
グジャケットの彼女は、カワサキの音に気がついてこちらを見た。あの子だろうか、あの
子に間違いない。僕は彼女のヤマハの隣にカワサキを静かに止めた。彼女はゆっくり立ち
上がり僕を見た。それから僕はヘルメットを取ると彼女のほうに歩いていった。
「川島さん?」
「はい。」
「つかれたんちゃう?おつかれさまあ。」
僕は笑顔を見せると言った。
身長は低いほうだろうか、最初にいちばん思ったのは、髪の毛のきれいな子だなと思った
事だろう。童顔で笑顔のかわいい子だった。きめの細かい白い肌が眩しい子だった。ごわ
ごわの真新しいライディングジャケットを着てはいたが、肩や背中のなだらかな線が女の
子らしさを漂わせていた。おおよそ僕が知っているチームの武骨なお姉ちゃん方とは違う、
かわいらしい人形のような子だった。
「だいじょうぶ。」
彼女はぽっちゃりとした頬に笑窪を作ってそう答えた。
「怖くなかった?」僕が笑いながら聞くと、
「ちょっと怖かったかなあ。」と答えた。
僕は笑いながら無事に来れてよかったと言った。
僕は彼女のヤマハを眺めながら、「これかあ、いいのみつけたなあ」と言った。
僕がしゃがんでエンジンを見ていると、彼女はさっきと同じようにブーツを前に投げ出し
て低い段に座って僕の様子を見ていた。僅かに開かれた両足と、しっかりと閉じられた膝、
ジーンズを盛り上げるようにカーブを描く肉付きのいい太股の形が、彼女の女らしさを強
調していた。僕はかわいい子だなと内心思ってた。ヤマハのエンジンなどほとんど見てい
なかっただろう。
僕は地図を彼女に見せると、プランを説明した。まず木之本で高速を降り、今日は湖東か
ら彦根、近江八幡へ出て予約してある旅館へ行く。明日は大津から湖西へ。湖を縦断して
木之本へ戻ると言った。
彼女は「はい。」と可愛らしい笑顔で答えた。まあ、バイクが似合う子とは言えない子だ
ったろう。どっちかというと、料理でもしていたほうが似合ったかもしれない。
今日のコースは50キロほどで250ccの足でも観光しながら充分に周れる距離設定だ
った。
「飛ばさないから、ちゃんとついておいで。」
僕が優しくそういうと彼女はまた笑顔を見せて頷いた。
カワサキのエンジンを始動するといつもの排気音が、朝の日差しの中に響き渡った。それ
からやや遅れてヤマハの甲高いエンジン音が重なった。
僕は出発準備をし、ミラーを見た。彼女は両足のつま先でなんとかヤマハの車体を支えて
いた。しかし、女の子っていうのは石川からここまで来るくらいなのに、どうしてあんな
に荷物を積んでくるんだろう。
きっと着替えや、シャンプーにリンスに、ペットの猫まで積んでやしないだろうな、と思
うと可笑しくて笑ってしまった。
彼女は車体を支えているのが大変そうなので、僕は右手を揚げ軽く合図すると、さっさと
走りだした。彼女もがくんと車体を揺らし、エンスト寸前でなんとか走り始めた。
高速道路を走るとき難しいのは、合流だろう。バイクのためにわざわざレーンを譲ってく
れる車はいない。しかもここは大型のトラックも多い。僕ひとりならどうということもな
いのだが、彼女は上手くやってくれるだろうか。カワサキとヤマハの距離はだいたい25
メートル位だった。僕が先に合流すると、彼女もミラーを見て上手く合流した。ほっとし
たのは彼女ではなく僕のほうだっただろう。まあ、能登からここまで来たのだから大丈夫
だろうと思ったのだが。
僕は走行レーンの右寄りを走り始めると、左ミラーに彼女が映った。僕はスロットルを時
速80kmちょうどに調整した。
彼女はまだ怖いのか、背筋を伸ばして体を硬くしているようだった。そうそう、それでい
い。バイクが怖いと思っているうちは事故はしないものだ。
木々の緑が後ろへ流れていった。三ヶ月ほど前までは雪が降って殺風景だった景色も梅が
咲いて桜が咲いて、そして若葉の季節を迎えていた。萌える緑と、アスファルトのグレー
の中で、彼女の赤いヤマハはとりわけ鮮やかだった。まるで広い川を一生懸命に泳ぐ小さ
な金魚のように見えた。日が昇り暖かくなりはじめた空気の中を2台は走っていた。
木之本出口を降りて少し走ると、目の前に琵琶湖が広がった。グリーンと青の水は細波に
時々朝の光をきらきらと反射させていた。そして広がる緑はもう近くまできている夏を思
わせるように湖岸に溢れ、まるでこの世のものとは思えない程美しいパノラマを展開して
いた。僕は湖周道路ぞいの公園でバイクを止め、彼女に休憩しようと合図を送った。十キ
ロも走っていないだろうけれど、彼女は今朝まで数百キロを走ってきたのだ。今日はのん
びり周ればいいと思ってもらいたかった。僕はジャケットを脱いで、湖岸へ彼女を誘った。
水と緑の匂いが僕等を包んでいた。静かな中、小鳥のさえずりと波の音だけが聞こえてい
た。
「広いやろ。でも海じゃないねんで。」
そう言うと彼女は、風が気持ちいいと言った。
湖面を渡る涼しい風は、日差しとエンジンの熱で汗ばんだシャツを乾かして涼しくしてく
れていた。湖のほとりには葦や水辺の植物がしげり、数羽の鷺が小魚を探しているのか、
岩の上から水の中をじっと覗き込んだり、湖面を低く飛んでいるのが見えた。
彼女はしゃがみこんで指先を細波に触れていた。美しく透明な水底にはいろいろな色のき
れいな丸い小石がたくさんあった。彼女はそのうちのひとつを見つけ手を伸ばしたのだろ
う。水は彼女の白く細い指を優しく迎えているように穏やかで、可愛らしい指が動くたび
轍と光の輪が広がった。水面を走る煌きは彼女の髪やジャケットを通り抜けているように、
まるで薄いガラスのように透明に見えた。
彼女は僕を見ると屈託のない笑顔を見せた。美しい光景だった。僕はかつて、どこかでそ
んな光景を見たような気がして、ずっと彼女のことを知っているような不思議な感覚を覚
えた。僕はなにかしら怖くなって、
「さあ、もう行こうか。」と言った。
「うん。」
彼女は小さく頷いたけれど、彼女の心はあの自然が作り出す美しい風景の中にあって、ま
だ僕の元へは戻ってきていないようだった。
「来てよかった。」ちいさな声で彼女が呟いた。その声はまるでさざなみのような、小鳥
たちのさえずりのような、そんな静かで、そして安らかさをもたらす響きだった。
僕は彼女を見ていた。道路の側にある家の庭には、鮮やかなツツジの花が咲いていた。僕
には目を覆うほどの春の日の明るい緑や、鮮やかなピンクの花々が、能登からやってきた
彼女をまるで引き立てているように見えた。かわいい頬も笑窪も髪の毛の一本一本まで全
てが眩しかった。彼女が行くところ、暖かい風はそよいで、花は咲き、水はせせらいでい
るように見えた。
長くバイクに乗っていても、あんなに美しさと幸福感を感じることというのは初めてだっ
た。
さざなみ街道沿いには、道の駅や公園がいくつもあり、僕等はいい景色を見つけてはバイ
クを止め湖岸に出た。そして草の上に座りこんでたくさん話をした。彼女は僕をイメージ
してたとおりだと言った。僕はというと、彼女のことをもっと垢抜けなくてどんくさい子
なのだと思っていた。実際、教習所で免許を取るのに大苦戦したらしく、ヤマハを買って
からも支えられなくて、しょっちゅうひっくり返してしまうとメールには書いていた。だ
から、能登からの道のりをいちばん心配していたのは僕だっただろう。しかし運転も心配
したほどではない。そして思っていたより遥かに、見かけも性格も可愛い子だと思ってい
た。
「まあ、イメージどおりかなあ。もっとどんくさいのかと思った。」
僕がそう言うと、彼女は僕を見つめて笑い、
「ちゃんと運転できてる?」と聞いた。
「まあ、いいやろ。」僕はそう答えて笑った。
「しかし、能登からよくここまで来たなあ。」
能登から琵琶湖までは遠い。僕はメールで遠すぎると書いたのだが、彼女は行きたいと言
った。僕は地図を見て細かくチェックポイントを設定し、前日よく寝ておくこと、速度は
80キロ以上出さないこと、そしてもしチェックポイントを大きく遅れたら、次のPAか
SAで止まることを約束させた。もし彼女がたどり着けないときは携帯電話で連絡し、僕
がそこまで迎えにいくことにしていたのだ。
なんとか加賀か福井あたりまでたどりついてくれたら、あのあたりに僕が知っている宿が
3ヶ所くらいはある。そこで泊を入れて、一日遅れで琵琶湖へ行けばいいと思っていた。
しかし、彼女は上手くポイントをくぐって遅れずに来た。大したものだと思った。しかし
さすがに疲れているのだろう。彼女は「ちょっと疲れたかなあ。」と言った。
空はよく晴れわたり、木々はそよかぜにざわざわと音を立てていた。僕の手元にある草た
ちも、過ぎ行く季節を楽しむように小さな小さな白い花をたくさん咲かせていた。小鳥が
僕等の周りを飛び回り、湖はそんな木々や花や鳥や、そして僕等を見守るように、どこま
でも雄大に水をたたえ、ちいさな波の音をたてていた。
「ありがとう。」彼女は膝を抱え水面を見つめながら言った。
突然礼を言われて少しあわてたが、「どういたしまして。」と答えた。それから、
「天気もいいしよかった。来週からはまた雨らしいで。」
「まあ、雨も降らなあかんしなあ。雨がぜんぜん降らないときは、この湖の水も減るんや
で。緑にも水は必要やしなあ。でも美雪が帰るまではいい天気が続くからだいじょうぶや。」
そういうと彼女は嬉しそうに「うん。」と答えた。
ツーリングの日に雨と雪は本当にまいってしまう。はっきり言って、なぜこんなものに乗
るのか正直僕にも解らないときもある。晴れ渡った空の下を好き勝手走っている時はいい
けれど、時として雨に降られて、暑さに泣いて、寒さに震えて。実際仕事でもしていたほ
うが楽だったと思うときもある。でもしかし自然に帰るという意味では良い乗り物だろう
か。まあ、これに勝るものはないだろうと思う。きっと彼女もそれに惹かれ乗っていたに
違いないだろう。
彼女はまるで音楽でも聴くようにいつまでも細波に耳を傾けていた。僕はこの子にとって
いい思い出を作ってやりたいと思った。
彦根からは彼女が前、僕は後ろを走った。前のほうが彼女は自由に走れるし、前を走らせ
た方が僕もミラーで見る必要がない分フォローしやすいというメリットもある。しばらく
走った頃、僕は脇道から街道へ軽自動車が出ようとしているのに気づいた。建物の角から
ちらっと見えたのだ。彼女があまりに車線の左寄りを走っているので、あの軽自動車は彼
女に気づいていない。彼女も軽自動車に気づいていない。軽自動車のバンパーが動いた瞬
間、僕はカワサキのホーンボタンを力いっぱいに押した。軽自動車はがくんと止まった。
彼女は一瞬意味が解らないのかミラーで僕を見たが、軽自動車に気づいて車線の中央へ寄
った。
まったく、時に趣味を超えた危険な乗り物であるのも確かだ。僕は、天気が良いうちにち
ゃんと彼女を無事に能登まで返さなければいけないと思った。
長い間乗っているといろいろなことを経験するものだ。僕はこれまでに大切な人をふたり
失っている。
最初は数年前だった。僕は、大型車ばかりが集まるチームに参加していた。がらの悪い連
中が多かったが、リーダーは温厚な人で、なにかと気を使ってくれて人間的にもいい人だ
った。ただいちばんの飛ばし屋で、定期ランの日、大雨の峠でスリップダウンして僕の目
の前で死んだ。家族も仕事も全部捨てて。その後チームは解散し、それっきりだ。
我々バイク乗りは変わっていると思われても仕方がないだろう。いつも危険と隣り合わせ
なのだ。なぜ乗るのかと聞かれれば、やはりスピードやスリルが楽しいのだろう。しかし、
いつか自分も取り返しのつかないことになるのではないかという恐怖感もある。自分に限
ってそんなことはないと思っていたときもあるが、実際目の前で事故を見るとそうとは言
えなくなった。
しかし危険だと解っていてもやめられないものだ。バイクで走るというのは気持ちがいい。
それにバイク乗りは、一年のランの中で僅かしかない、あの日のような、季節が与えてく
れる美しい瞬間を楽しめる人間たちなのだろう。
そしてあの子もまだ怖さを知らなかったけれど、似た者同士のようなものだったのだろう。
ちょうど正午の頃には近江八幡市に入った。あちこち見て来ているので、まるで自転車で
走っているようなペースだった。
しかし、これ以上彼女を走らせるのは危ないかもしれないと思ったので、まず昼飯を食べ
て、それから旅館へ行き、バイクを預けてあとは近江八幡を観光することにした。
土産物屋に寄ると彼女はちゃんと行ったという証拠だと言って、両親に佃煮のパックやお
菓子を買い込んでいた。それから琵琶湖の小魚を放った水槽を見たり、郷土工芸品を見た
りした。土産物屋の上のフロアはレストランになっていて、そこで昼飯を食べた。朝から
何も食べてないらしく食欲は旺盛のようだった。それを見て安心した。
僕が、「もうあとほんの少しで着くからだいじょうぶやで。」というと、彼女は頬をうっ
すらと染めて「やさしいんですね。」と言った。
近江八幡の旅館は湖周道路から大きく外れ、8号線からさらに外れたところにある。旅館
というよりは民宿なのだが、あるきっかけでここの主人と知り合いになり、それからは、
夏になると避暑のために来る。ここも暑いのだけれど湖がある分、神戸や大阪よりは涼し
く感じるからだった。
いつものように奥さんが出てくると、「いらっしゃい、早いお着きですね。」と言った。
僕は、「いや、これからまだ観光なんです。」と言い、バイクを預かって欲しいと言った。
僕は彼女のバイクとカワサキの荷物を預けると、
「美雪は今日はたくさん運転したからもうバイクは置いとき。でも交通の便がいまいち悪
いから、俺のカワサキで行こう。後ろに乗り。」と言った。彼女は自分もバイクで行きた
いというかな、と思ったが素直にカワサキの後ろに乗った。
そして「後ろに乗るのはじめて。」と言った。
僕は彼女が怖がらないように静かにクラッチをつなぎ、ゆっくりと走りはじめた。
近江八幡は水郷として有名なところだから、水路を小さな船でめぐる「水郷めぐり」の話
をすると、彼女は行ってみたいと言った。
彼女はやってきたちいさなボート位の船に少しびっくりしたみたいだったが、乗り込ませ
ると揺れる船にきゃっきゃきゃっきゃ言って面白がった。
僕は彼女の後ろに座り、ジャケットを脱いでTシャツだけになった彼女の、やわらかな腹
に手をまわして優しく抱いてやった。嫌がらないないかと気を使ったが、彼女はむしろ僕
に甘えるように身を寄せていた。
何人かの人が乗り込むと船の喫水が上がり、安定した。彼女は楽しそうに手を水に浸け、
水草に触わってみたりしていた。僕もレザーグラブで蒸れた手をつけてみると、暖かくて、
重い水の固まりが、淀んでいるように見えながらもゆっくりと指の間を流れてゆき、心地
良かった。きっと今は蛙や魚たちも気持ちがいいんだろうなと思った。僕は二の腕まで水
につっこんで水中に何かないかさがしてみた。彼女は遠くに布袋葵が浮かんでいるのを見
つけて腕をのばした。しかし届かないので、僕は身を乗り出してそれを取ってやった。船
はそのせいで僕の方へ傾き、他の乗客が僕の方を見た。彼女は布袋葵を手に取ってしばら
くめずらしそうに見つめ、そっと水の上に返した。
船頭が櫂を動かしはじめると船は静かに進みはじめ、彼女の布袋葵は船の後ろへ流れてい
った。
彼女はまるで子供のように水面を楽しそうに見つめていた。
光は水面をゆらゆらと輝かせて、彼女の茶色の髪や白い頬をミラーボールのように照らし
出していた。
春の水と土の匂いは、遠い道のりを走ってきて疲れた彼女を安心させ、眠気に誘っていっ
た。そしてやさしく抱いていてくれる僕にも安心したのだろう。水面を見つめながら、
「なんだか気持ちよくて眠くなってきた。」と言った。
彼女の睫毛が揺れて、そして半分ほど閉じようとしていた。
僕はやさしく彼女をぎゅっと抱きしめると、「ええで、寝とき。」と言った。
彼女はまるでおだやかな口調で、「夢の中にいるみたい。」と言った。
「そうやな。静かやな。」
僕が言うと彼女は指先を水面に触れながら、
「ずっとこうしていたい。」と言った。
船は葦が生い茂る狭い水路をゆっくりと進んでいった。
水底までは見えなかったが、水中を水草や、まるで水晶のような酸素の泡が流れて行った。
緑の茂みからは野鳥のさえずりが聞こえ、水は流れ、それに合せるように時間もゆっくり
と流れていた。彼女の指先を包むように水は穏やかに波紋を作り、そして流れていった。
僕はそっと顔を彼女に近づけた。僕の唇が彼女の髪に触れるとさわやかなやさしい香と彼
女の汗の香りが漂った。そしてそれに気づいたのか、彼女の耳は赤く染まった。そして船
縁を置いた僕の手を取り、頬を僕の腕に乗せた。肌が触れ合い、彼女の柔らかな感触が僕
の腕に伝わった。彼女の美しい頬は染まり、熱がまるで僕を焦がすかのように伝わってく
るのを感じた。
どこも緑と水に満ちていた。美しい、そして短い季節だっただろう。
船から下りて船屋の兄さんに写真を頼むと、僕は彼女の肩を抱いてみた。
彼女は僕の気持ちが解かったのか、抱かれるままそっと寄り添って僕の肩に頬を乗せた。
近江八幡の町並みを案内してやる間じゅう、彼女の顔は嬉しそうな笑顔に溢れていた。そ
してときどき僕の腕に甘えてすがり付くようになった。それに僕もたくさん笑った。まあ
一日で恋に落ちるっていうのはああいうことを言うのだろう。
宿への帰り道、僕は少しさざなみ街道へ遠回りをしてやった。夕陽が湖の水をオレンジ色
に染め、ときおり葦の茂る浅瀬から飛び経つサギの黒い陰が見えた。まだほんの少し明る
い西の空が反射して水面はきらきらと光のかけらを放っていた。
ぼくはスロットルを絞り、ゆっくりと走って彼女によく見せてやった。彼女は僕の背中に
ヘルメットを押し付け、それを見ていた。その時、聞こえるはずもないのに、彼女の小さ
な声が「ありがとう」と言った気がした。
僕はヘルメットのシールドを上げ、エンジンの音に負けないように大声で、「明日も良い
天気そうやな。」と言って笑った。すると彼女も「うん。」と答えた。
旅館から歩いていけるほどの距離のところに自然公園がある。残念ながら公園から湖は遠
くて見えないのだけれど、たくさんの木々と草花が植えられていてきれいなところだ。
僕は夕食のあと風呂に入り、それから彼女を誘って出掛けた。つつじや菜の花が一面に咲
いていた。それらは月に照らされて、昼間とは違う深い色彩を魅せていた。僕は木のベン
チに座ると、ビールの缶を出し勢い良く開けた。振り回してきたせいで泡が吹き出し、彼
女はそれを見て笑った。
彼女の分も開けてやり、遠い道のりをよく来たね。といって乾杯した。空には月がかかっ
ていた。
「月夜やなあ。」
僕が言うと彼女も空を見上げて頷いた。
「俺は遠くにツーリングに出かけたら月を見て、たとえばあの月が満月になったら帰ろう
って思うで。こうやって空を眺めてるのが好きやなあ」
そう言うと彼女は僕のどうでもいいような話をうっとりと聞きながら、空を見上げ僕に甘
えるように身を寄せてきた。
いちめんの緑と花と土の香りと月明かりが彼女を包み込んでいた。時間はまるでそこだけ
がゆっくりと穏やかに流れているように思えた。花々のやさしい香りが涼しい風に乗って
ふたりの側を通り抜けていった。
別部屋で頼むと言ったら、三人泊まれそうな部屋を二つも用意している。あまり広すぎて
かえって寝にくそうな気もした。ここも暇なんだろう。もっともここに民宿旅館があるな
んて知ってる人も少ないのだろうと思った。
僕は冗談のつもりで、彼女に「眠れなかったら遊びに来てもいいで。」と言い、冷蔵庫か
ら瓶ビールを出して部屋に持って上がると、ガラスのコップにとくとくと注いだ。部屋か
らも月が見えた。
しばらくして、誰かが戸を叩くので開けてみると、彼女が浴衣に着替えて来た。
僕はたいそう慌てたが、冷静に「まあ、入り。」と言った。
しばらくいろいろな話をして夜が更けた。
「まだ眠たくないんか?」
僕が聞くと彼女は、
「もうちょっと起きてる。」と言った。
そして僕のビールのコップを両手の細い指先で包むように持つと、ごくごくと飲んだ。彼
女の白い頬も浴衣から見え隠れする胸元も、みるみるうちに桜色に染まり、浴衣がはだけ
て首筋と細い肩が、白い蛍光燈の明かりの下で見え隠れした。
彼女はそのまま布団の上にうつぶせになった。僕は「今日はたくさん走って疲れたやろ。
肩でも揉んでやろうか?」と言った。
彼女は「うん。」と言うので、肩を揉んでやった。それから背中も太股も揉んでやった。
彼女のやわらかな体の感触が指先に伝わった。僕の指が彼女の尻に触れると彼女の唇から
ちいさな喘ぎが漏れた。僕は衝動的に彼女を仰向けにするとさらさらと流れる髪に指を通
し、唇を彼女の唇に重ねようと近づけた。
彼女はちいさな声で「いや」と言って横を向いた。僕は強く掴んだ彼女の腕をそっと離し
てやった。彼女は向き直って僕の目を見つめた。僕は彼女の瞳の奥の、まるで夜空のよう
な深さの中に彼女の限りない愛情を感じた。彼女は静かに目を閉じた。僕は彼女の浴衣を
はだけると柔らかな肩を掴んで優しく唇を重ねた。そして彼女の熱く上気した体を抱いた。
全てが終わったとき、疲れきった彼女の中にはもう僅かな体力も残っていなかっただろう。
そして安心したのだろう。僕の胸に顔を埋め、深い眠りに落ちていった。
明くる日、僕等は遅くまで寝て、結局エンジンを始動させたのは10時をまわっていた。
それからさざなみ街道を南へ走り、大津から湖西へ抜けて近くの公園へ行き、クローバー
の絨毯の上で弁当を食べた。彼女は土の香りが素敵だといった。
僕はごろんと横になると、まぶしい青空を見つめながら聞いた。
「能登はどんなところなん?」
彼女は自分が生まれ育ったところを細かく話してきかせた。
僕は彼女の話を聞きながら能登の風景を想像していた。真っ青な日本海、白い砂浜、水田
を渡る風。きっと美しい自然に溢れたところなのだろう。そしてまたかわいい彼女に会い
たいと思った。もうすぐ別れなければならないのは淋しかった。
「ええなあ、夏になったら、次は俺が能登までいくわ。」
そういうと彼女は嬉しそうに、
「うん、おいで。」と言った。
「遠距離恋愛やけど淋しくない?」
僕が聞くと彼女は手に取ったクローバーの白い花を見つめながら、
「うん・・・。」と言った。やはり少しさみしそうに見えただろうか。僕は彼女の肩を抱
くと、
「またすぐに会えるで。」と言った。
大津から北上し、高月町に入ったところで、バイクを止めた。
「もうすぐ琵琶湖とお別れやで。」
そういうと彼女は、淋しそうな表情を見せて
「うん。」と言った。
水は彼女の気持ちを察するかのように、穏やかに、そして優しい音を立てていた。
彼女にとって湖は、きっともうひとつの故郷でもあったのだろう。あの美しい緑と澄み渡
った水は彼女を受入れ、そしてひとつになった。あの子はまるであの日の湖のように美し
い、そして優しい心を持った子だった。
その後、僕等は木之本から北陸道へ入り、僕は予定どおり福井に予約しておいた宿まで彼
女を送った。
僕も福井に泊まりたかったのだが、翌日から仕事があったのでやむを得なかった。
別れ際、宿の前で彼女は僕のジャケットの袖を握ってうつむいた。僕はグラブを外すと、
彼女の頭を自分の胸に押し付けるようにして抱いてやった。彼女の瞳から涙が零れた。
涙は僕の撥水ジャケットの上を転がり、澄んだガラスの玉のようにきらきらとすべり落ち
ていった。僕も別れを惜しむように彼女のかわいい頬に手を当て、指先で彼女の涙に触れ
てみた。暖かい水の粒が僕の指に流れた。彼女の気持ちがたくさん込められた暖かい水だ
った。
「大好きや。」僕は彼女を抱く腕に力を込めて言った。
彼女は僕の胸に顔を埋め、頷いた。そして
「楽しい思い出をありがとう。」と言った。
彼女はまた泣きながら手を振った。別れるのが辛いのは僕も同じだったろう。僕はカワサ
キを旋回させながら、彼女に軽く手を振った。
そして、ヘルメットの中で小さく「また会おうな。」と言った。
後輪に駆動が伝わると彼女の姿は、バックミラーの中に吸い込まれるように小さくなった。
僕は暗い北陸道を自宅へ向けて走った。カワサキは月明かりをめいっぱい受けながら、ま
るで鳥のように夜風に乗って走った。タイヤはアスファルトを蹴り、景色は流れた。その
たび彼女との距離が離れると思うと寂しかったが、でもそれでよかったのだと思った。楽
しい思い出を作ってやれた。そして僕もバイク乗りをやっていてこんなに楽しいことはめ
ったに無いだろうと思った。
次は能登へ行こう。青い海、どこまでも続く北陸道、そしてかわいいあの子。明日は同僚
たちにさんざん自慢してやろう。夏まであっという間だと思った。
エギゾーストノートは闇を切り裂いて高速のオレンジ色の照明は、青く塗装されたカワサ
キのタンクを紫色に染めながら、いくつもいくつも流れていった。晴れ渡った空に月はか
かり、遠くから僕等を見つめていただろう。
その年の夏のことだった。それまで僕等はメールと電話で夏の能登ツーリングの予定を話
したりしていたが、長梅雨と工場の予定が合わずなかなかプランが決まらずにいた。
ある日、いつものように彼女の携帯電話にかけてみた。ところがなかなか出ないのでしば
らく待っていると、彼女のお母さんが出た。僕が挨拶して彼女に代わって欲しいというと、
「琵琶湖に連れて行ってくれた人ですね。」と言った。
「はい。」
僕はどうして彼女の携帯電話にお母さんが出るのか解からなかったが、しばらく間を置い
て、美雪はバイク事故で死んだ、と言った。
僕は思わず気が遠くなるのを感じた。なにを言ってるんだと思った。
先日雨が降りしきる日、ひとりでもういちど琵琶湖へ行くのだと言って家を出て、北陸道
の金沢を少し過ぎたあたりでトレーラーに巻き込まれたのだと言った。
それから僕は工場を休み、そんな馬鹿なことがあるものかと自分に言い聞かせながら雷鳥
で能登まで行った。
そして彼女に会った。彼女はかわいい人形のように花に囲まれていた。まるで微笑んでい
るようだった。もうあの笑顔を見せて僕の腕に甘えてくれないのかと思うと涙が溢れ、泣
いて泣いていろいろ迷惑もかけてしまった。僕のせいですと言うと、彼女の両親はあなた
のせいじゃない。あの子が好きでしたことだから。と言った。
それからしばらくはなにもできず休職していた。
なにもできず酒ばかり飲んでいただろう。カワサキも置きっぱなしにしてあった。
僕は大切な人をふたり無くしている。
最初は数年前、定期ランの日だった。そう、大雨の降る峠道でのことだった。
少し飛ばしすぎだろう。そう思いながら先頭を走るリーダーについて行った。水飛沫が舞
い上がり、ヘルメットのシールドは雨水が張り付いてもう十メートル先も見えないほどっ
だった。グラブもジャケットも浸水していた。目的地の展望台まではもうあと3キロほど
だった。僕は二番手を走っていたが、リヤが左右に振れだしていつスリップダウンしても
おかしくない状態だった。
だめだ。もうついていけない。そう思った矢先だった。緩い下りの右カーブを立ちあがっ
たところで、僕の視界をまるでスキーのように彼の黒い車体が滑って行くのが見えた。
そして彼のバイクはガードレールに鈍い音を立ててぶつかり、さらに激しく回転して部品
を巻き散らかしながら側の畑の中へ落ちた。
彼は衝撃で捻じ曲がったガードレールの手前に倒れていた。レールに激突したときに飛ば
されたらしかった。
頭からも腕からもおびただしい血が雨水の中へ流れていた。ヘルメットすら脱がすことが
できない状況だった。彼はまだ少し震えるように動いていたように思うが、その後はまっ
たく動かなくなった。後続のメンバーが到着するとその状況を見て皆震え上がってしまっ
ていた。僕も動転していたが、ジャケットを脱いで傷口を押さえながら声をかけ続けた。
やがて救急車が来て、救急隊員は慌しく応急処置をしていたが、やがて動きが静かになり、
隊員のひとりがずぶ濡れの僕の肩をやさしく叩いた。僕は「どうして、」と食ってかかろ
うとしたが言葉が出ず、代わりに涙が溢れた。
その時彼がどんなミスをしたのか、なぜあんなことになったのか今はもう解らない。ただ、
あそこは彼が若い頃から何度も走りに行き、そしてこよなく愛した美しいコースだった。
「おまえなら解かるだろう?」そんな声が聞こえるような気がする。きっと今も大好きだ
ったあの道を走っているに違いない。
そしてふたり目は美しい湖を愛したあの子だ。きっと彼女はあの日へ帰って行ったのだろ
う。そう、あの日の美しい自然の中へ帰っていったのだろう。そして今も、走っているに
ちがいない。そばには優しい僕がいて。あの美しい思い出の中に帰って行ったのだろう。
澄み渡る春の水と緑と風と太陽と・・・。
さぞかし痛かったことだろう、苦しかったことだろう。今こうやって思えば涙しかない。
僕が代わりになれたらいいと何度も思った。
なぜひとりで来ようとしたりしたのか。両親も将来も何もかも捨ててあの子は逝ってしま
った。湖を愛して、バイクを愛して、そして僕を愛して逝ってしまった。
バイク乗りはいつか自分の帰るところを見つけるのかもしれない。彼女にとってはあの日
の思い出がそうだったのだろうか。
いちめん花と水と木々の眩しい緑の中で、僕に笑顔を見せる彼女の姿を今も思い出す。か
わいい笑窪を作って、僕の腕にすがりついてはしゃぐ姿はなんて生き生きとしていただろ
う。彼女と共に過ごせたのはほんの数十時間時間だった。しかし、その間に僕等はまるで
短い季節を惜しむかのように確かに生きていた。
月は満ちて、そして欠けてゆく。もうあの日も彼女も戻らない。
僕は月を見ていた。夜勤も半分ほど過ぎた。工場の大きなガラス窓の外には雲ひとつない
空にあの日と同じように満月が掛かっていた。僕は月を見るたびあの日の事を思いだした。
「また会おうって言ったやん。」
そう呟いてみると止め処もなく涙が溢れ、もうどうしようもなかった。僕は、作業着の袖
で涙をぬぐうと、明かりの消えた休憩室への廊下を歩いていった。
あとがき
ここまで読んでくれてありがとうです〜
ここまでは前に書いたものなのですけど、どうも詰めが甘くて上手く書けないなあ。
まあ、ある程度現実にあったことを作文みたく順番に並べて書いてるという気もします。
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第2部 序章
アスファルトから湧き上がる熱気を受けて僕は日本海沿いの国道を金沢へ向かって走って
いた。
太陽の光は容赦なく照り付け、フラッシュライトのようにいたるところで反射して、僕の
ヘルメットシールドの中まで入り込んできた。僕は大きくため息をつくと流れる視界に目
を凝らしていた。昨日まで降っていた雨はやんで空は一転して青さを取り戻した。彼女が
逝去してから一年目の夏のことだった。
僕はあれからなにをしていただろうか。彼女の訃報を聞いてからはまるで鉛の中に閉じ込
められたような、そんな苦痛の中にいた。
僕はずっと人が生きる意味について考えていた。彼女の人生とはいったいなんだったのだ
ろう。バイクにさえ乗らなければ、彼女は今もあの輝くような笑顔を見せてくれたにちが
いない。しかしバイクに乗らなければ僕と知り合うこともなかっただろう。
人は過ぎ去った時を自分勝手に解釈するものかもしれない。今思えば彼女はあの日、あの
とき、まるで美しく輝いていた。残り少ない彼女の人生が燃え上がっ瞬間だったのかもし
れない。それにしても短い人生だと思う。まだ結婚もして、子供も作りたかっただろう。
彼女の生きた意味とは何だったのだろう。それを考えると僕はもう泣くしかなかった。
僕は能登へ行こうと思った。彼女が短い人生を過ごした場所を走ってみたかった。そして、
そうすれば彼女に会えるような気がしていた。
日本海は宝石のような青さに満ちていた。まるで透き通るような青さに僕は驚きながら、
逃げ水の湧き上がる国道を北へ向けて走っていた。
いつもならまるで小学生のように真っ黒になっても元気な僕なのだけれど、その時はまだ
辛かったのだろう、肌を焼く日差しがなにかしら痛く感じていた。それでも一年ぶりに整
備されて目覚めたカワサキは、まるでカモメのように、海上から吹く風に乗って北へ走っ
ていた。
彼女がいてくれたらどんなに楽しい旅だろうと思った。僕はバックミラーで後方を見た。
あの日のように後ろを走る彼女の姿を見ていられたらどんなにいいだろう。しかしもうミ
ラーに映るのは過ぎ去った道でしかない。あの日の思い出も遠く遠く小さくなってゆく。
僕は何を求めて何を探そうというのだろう。
第2部本編へ続く