肉塊
視た。
その認識を持ってしまったら、その人はターゲットになる。
最初にその坂で人が死んだのは、六月の終わりだった。
大型ショッピングモールの裏手にある、長い坂道だった。
ショッピングモールは丘の上に建っている。駐車場から下へ伸びる坂は幅も広く、歩道も整備されていた。近隣の住民が駅へ向かうときにも使う、ごく普通の道だ。
だから、最初はただの事故だと思われた。
坂の途中で、男性が一人倒れているのが見つかった。
外傷はほとんどなかった。
しかし、顔だけがおかしかった。
頬が左右から押し潰されたように歪み、輪郭そのものが四角く変形していた。
顔の中央には、さらに奇妙な跡があった。
真四角。
そこだけ皮膚が焼け焦げ、ただれ、炭のように黒くなっていた。
警察は事件性を疑った。
だが、凶器も犯人も見つからなかった。
次に二人目が死んだ。
その三日後には三人目。
さらに一人。
同じだった。
顔だけが、まるで同じ型に押し込まれたように四角く変形している。
中央には、焼けただれた真四角の跡。
誰も原因を説明できなかった。
そして五人目が死んだ翌朝、坂道は封鎖された。
それでも原因は分からなかった。
監視カメラには、被害者が突然立ち止まり、何かを見上げる姿しか残っていなかった。
その数秒後。
画面の中で、その人間が倒れる。
何も映っていないのに。
まるで、そこに何かがいるように。
事件発生から八日目。
警察は大規模な捜索を行った。
坂の上から下まで。
周囲の林。
ショッピングモールの屋上。
駐車場。
使われていない倉庫。
あらゆる場所を調べた。
そして、坂の頂上に差しかかったとき。
先頭の警察官が立ち止まった。
その人間が何を見たのか、後ろにいた者たちには分からなかった。
ただ、しばらくして全員が同じ方向を見た。
そして――
見つけた。
坂の頂上に、三体の巨大なものが立っていた。
高さは四メートルを超えていた。
遠目には、人間のように見えた。
肩幅が広い。
腕が長い。
胸板が厚い。
男性の身体を、そのまま何倍にも引き伸ばしたような姿。
しかし、腰から下は人間ではなかった。
両脚の代わりに、巨大なタイヤがついている。
戦車のような車輪。
それが何のためについているのか、誰にも分からない。
そして顔。
それだけは、人間の形をしていなかった。
異常に大きな四角形。
古いテレビの画面のような頭部。
目も鼻もない。
口もない。
ただ、中央だけが、真四角に焼けていた。
皮膚とも肉ともつかないものが、黒く溶けている。
それが三体。
並んで立っていた。
誰も撃たなかった。
撃てなかった。
見ているだけで、本能が「近づくな」と叫んでいた。
そのとき。
三体の首が動いた。
一体目が正面を向く。
二体目が右を向く。
三体目が左を向く。
そして、そのままゆっくりと回り始めた。
三体が同時に、周囲を見渡している。
三百六十度。
死角がない。
その動きが止まった。
一瞬の静寂。
次の瞬間。
三体が、同時に走り出した。
タイヤが地面を削る。
坂を下る。
あまりにも速かった。
警察官たちが散る。
だが、三体は迷わなかった。
一体が一人。
もう一体が一人。
そして最後の一体が、一人。
三人に向かって一直線に突っ込んでいく。
その顔から、青い光が放たれた。
光を受けた三人は、その場で硬直した。
倒れた。
死んでいた。
顔は、これまでの死体と同じだった。
四角く潰れ。
中央だけが、焼けただれていた。
それから坂は完全に封鎖された。
誰も近づかなくなった。
それでも、原因を知らないわけにはいかなかった。
俺が警察に呼ばれたのは、その数日後だった。
俺は昔から、幽霊が見えた。
人には見えないものが見える。
だから事件を担当していた警察官のおじさんが、もしかしたら何か分かるかもしれないと思ったらしい。
「怖かったら無理しなくていい」
そう言われた。
「ただ、一度だけ現場を見てもらいたい」
俺は頷いた。
高台のショッピングモールに着いたとき、まず驚いたのは、警察の規模だった。
巨大な駐車場の一角が完全に封鎖されていた。
テント。
通信機器。
発電機。
警察車両。
特殊部隊。
狙撃班。
救急車。
何十人もの警察官が、坂を見ながら息を潜めている。
まるで、巨大な獣を狩るための軍隊だった。
駐車場の周囲には大きな布が張られていた。
外から中が見えないようにするためだという。
「ここまでやっても、まだ撃てないんだ」
俺が言うと、おじさんは苦笑した。
「撃てないというより、撃つタイミングがない」
布の隙間から坂を見る。
「今は坂の途中にいる。三体とも、こちらの方向を見ている時間が長い。だから近づけない」
「何か分かった?」
おじさんは少し黙ってから答えた。
「いくつかある」
声を落とした。
「あいつらは、こちらを見つける」
「それは分かる」
「違う」
おじさんは首を横に振った。
「あいつらが、こちらを見ていることが分かるんだ」
俺は意味が分からず、黙った。
「顔に目はない。どこを見ているのかも分からない。それなのに、見られている人間は全員、自分がターゲットになったことを理解している」
「……見られたら、分かる?」
「そうだ」
おじさんは坂を見た。
「そして、ターゲットを決めると一直線に来る」
「逃げられないの?」
「距離による。ただ、逃げるだけじゃ無理だ」
おじさんは木々の向こうを指した。
「視界から完全に隠れれば、攻撃は止まる」
「完全に?」
「身体の一部でも出ていたら駄目だ。頭だけ隠しても、足が見えていれば狙われる。車の陰に入るなら、車体の向こう側まで完全に隠れる必要がある」
俺は思った。
かくれんぼみたいだ。
ただし、鬼に見つかったら死ぬ。
しかも鬼は、三体同時に周囲を見渡す。
「今、警察は何してるの?」
「隠れながら距離を詰めてる。攻撃するには近づかなきゃいけない。でも近づけば見つかる」
そのとき。
ズン。
地面が揺れた。
一度。
ズン。
もう一度。
遠くから、何かが地面を踏み潰している。
そして、音がした。
「……正面を確認」
俺は顔を上げた。
「今の、何?」
おじさんは首を傾げた。
「何が?」
「声」
「聞こえなかった」
俺は布の隙間から外を覗いた。
いた。
三体が坂の下を見ている。
背中しか見えない。
それでも、気持ち悪かった。
人間の男性のような身体。
太い腕。
広い背中。
だが、そこには皮膚の色をした部分がほとんどない。
黒ずんだ何かが全身にこびりついていた。
赤黒い。
錆びた鉄のような色。
その臭いが、風に乗ってこちらまで届いた。
腐った肉。
血。
鉄。
俺は思わず口元を押さえた。
「……臭い」
「何?」
「こいつら、臭い」
おじさんは何も感じていないようだった。
俺はもう一度、怪物を見た。
「三時方向を確認」
声がした。
今度ははっきり聞こえた。
「……」
「正面、確認」
三体がゆっくり動く。
「九時方向、確認」
俺は息を呑んだ。
「おじさん」
「何だ?」
「あいつら、喋ってる」
おじさんの表情が変わった。
「何て言ってる?」
「見てる方向」
「……本当に?」
「うん」
俺は耳を澄ませた。
「正面」
三体が正面を向く。
「三時」
右を向く。
「六時」
背後を向く。
「九時」
左。
その順番で、三体は周囲を確認していた。
俺は確信した。
「見てるタイミングが分かる」
おじさんを見る。
「その声に合わせて、背後から攻撃すればいいんじゃない?」
おじさんは何も言わなかった。
ただ、無線を手に取った。
それから数分後。
作戦が始まった。
俺は布の隙間から怪物を見ながら、声を聞いた。
「正面確認」
「今」
俺が言う。
警察官が動く。
「三時方向確認」
「今」
別の部隊が移動する。
「六時方向確認」
俺は息を吸った。
「……今」
銃口が上がった。
一斉射撃。
乾いた銃声が駐車場に響いた。
弾丸が一体の後頭部へ集中する。
巨大な身体が揺れた。
黒い肉が崩れる。
そして、一体が消えた。
「やった!」
誰かが叫んだ。
俺も思わず息を吐いた。
だが。
残った二体が、同時にこちらを向いた。
動きが違った。
さっきまでとは比べものにならない。
首が跳ねる。
タイヤが地面を削る。
そして――
青い光。
「伏せて!」
叫んだ瞬間、何かが目の前を横切った。
木が消えた。
土が吹き飛ぶ。
悲鳴。
一人の警察官が物陰から飛び出した。
その瞬間、二体の顔がそちらへ向いた。
青い光。
悲鳴が途切れた。
「隠れろ!」
おじさんが叫ぶ。
俺は地面に伏せた。
耳元を風が通り過ぎる。
心臓がうるさい。
怖い。
今まで幽霊を何度も見てきた。
だが、これは違う。
幽霊なら、こちらを見つけることはない。
こいつらは違う。
こっちが見ていることそのものを、知っている。
そのとき。
声が聞こえた。
「対象確認」
俺は顔を上げた。
違和感。
さっきまでと何かが違う。
「対象確認」
二体の声が重なっている。
「対象確認」
俺は怪物を見る。
一体が、俺のいる方向を向いた。
俺は息を止めた。
だが。
すぐに別の方向へ向いた。
俺は気づいた。
「……違う」
おじさんが振り向く。
「どうした?」
「こいつら……三体で一つなんだ」
「何?」
「一体が消えたから、残りの二体が急に動き始めた」
俺は怪物を見た。
「たぶん、三体で周囲を全部見てる」
「だから?」
「一体がいなくなったから、見えてない場所が増えた」
俺は息を整えた。
「残り二体が、その穴を埋めようとしてる」
おじさんはすぐに無線へ向かって話し始めた。
俺は怪物の声を聞いた。
「正面確認」
二体が正面を見る。
「三時方向確認」
二体が右を見る。
「六時方向確認」
二体が背後を見る。
「九時方向確認」
左。
同じだった。
一体減っても。
二体で一つの目を作っている。
なら。
その「目」を使えばいい。
「次、俺が合図するまで誰も撃たないで」
俺は言った。
「撃ったら、こっちを見る」
おじさんが頷く。
俺は怪物の声を聞いた。
「正面確認」
「まだ」
「三時方向確認」
「まだ」
「六時方向確認」
二体が背後を向く。
「今!」
銃声。
背後から撃たれた一体がよろめく。
もう一体が振り向く。
だが、その瞬間には別の場所へ警察官が移動していた。
「右!」
射撃。
「左!」
射撃。
怪物が振り向くたび、別の方向から弾丸が飛んでくる。
まるで、怪物自身に見せられている視界を利用するように。
やがて一体が崩れた。
残り一体。
静かになった。
俺は息を吐いた。
だが、おじさんが叫んだ。
「まだだ!」
最後の一体が、こちらを向いていた。
俺は動けなかった。
見られている。
いや。
違う。
俺は見ている。
怪物は、俺が見ていることを知っている。
怪物が走り出した。
速い。
あまりにも速い。
俺は走った。
駐車場を横切る。
車の陰へ。
だが、足音が止まらない。
「対象確認」
声が近づいてくる。
「対象移動」
俺は大型トラックの陰へ飛び込んだ。
身体を完全に隠す。
静寂。
怪物が止まった。
俺は息を殺した。
数秒。
十秒。
二十秒。
何も起こらない。
やがて。
「対象……」
声が途切れた。
俺はゆっくり目を開けた。
怪物が、トラックの向こうに立っている。
顔をこちらへ向けている。
見えていないはずなのに。
まるで、いる場所を知っているようだった。
俺は震える手でスマートフォンを取り出した。
カメラを起動する。
画面越しに怪物を見る。
その瞬間。
怪物の頭が動いた。
俺は確信した。
「やっぱり……」
こいつは、見るものを探している。
人間そのものではない。
「認識」を探している。
なら。
スマートフォンの画面を、トラックの外へ滑らせた。
怪物が動いた。
青い光。
スマートフォンが消し飛ぶ。
その瞬間、俺は叫んだ。
「今!」
銃声。
一発。
二発。
三発。
数えきれないほどの銃弾が、怪物へ集中する。
身体が揺れる。
黒い肉が剥がれる。
四角い顔がひび割れる。
そして最後に。
顔の中央にある、真四角の焼け跡が大きく割れた。
怪物は音もなく崩れた。
肉の塊になった。
それから、煙のように消えた。
誰も喋らなかった。
長い沈黙のあと、誰かが小さく笑った。
助かった。
終わった。
そう思ったのだろう。
俺は笑えなかった。
鼻の奥に、まだあの臭いが残っていた。
腐敗臭。
鉄の臭い。
そして、あの声。
俺は坂の頂上を見る。
何もない。
三体が立っていた場所には、黒い焦げ跡だけが残っている。
「終わったな」
おじさんが言った。
俺は頷かなかった。
「……おじさん」
「ん?」
「さっき、最後のやつが言ってた」
「何を?」
俺は答えた。
「対象確認」
「それが?」
「俺じゃなかった」
おじさんの顔から笑みが消えた。
俺はゆっくり振り返った。
駐車場の向こうには、ショッピングモールがある。
何百枚ものガラス窓。
その一枚に、俺たちの姿が映っている。
警察官。
車。
テント。
そして俺。
その背後。
ガラスに映った俺のすぐ後ろに。
何かが立っていた。
巨大だった。
四角い。
顔の中央だけが、真四角に焼けただれている。
俺は振り返らなかった。
振り返ってはいけないと思った。
けれど、ガラスの中のそれは、ゆっくりと顔を上げた。
そして。
声が聞こえた。
今までとは違う。
一体ではない。
二体でもない。
もっとたくさんの声が重なっている。
「「「「対象確認」」」」
俺はガラスを見た。
そこに映っているのは、俺だけではなかった。
ショッピングモールの中。
窓。
鏡。
車のボディ。
スマートフォンの画面。
あらゆる場所に、四角い顔が映っている。
一つ。
二つ。
十。
もっと。
その全てが、こちらを向いていた。
俺はようやく理解した。
あの三体は、最初から三体ではなかった。
俺たちは三体しか見ていなかっただけだ。
視えるものしか、存在しないと思っていた。
だから、見つけたと思った。
倒したと思った。
でも違った。
あれは、ただの一部だった。
俺は目を閉じた。
けれど遅かった。
もう、知ってしまった。
視てしまった。
その認識を持ってしまった。
だから。
次のターゲットは――
俺だった。




