第2話 目覚めの森
第2話です。
転生した加瀬――いや、シン=アルバートが初めて異世界の空気を吸う場面です。
静かな導入回ですが、ここから“風の物語”が動き出します。
どうぞごゆっくりお楽しみください。
眩しい光が、まぶたの裏を刺した。
草の匂い。鳥の声。
加瀬――いや、“彼”は、ゆっくりと目を開けた。
視界に広がるのは緑の天蓋。
高い木々の間から、光がこぼれている。
湿った風が肌を撫で、遠くで川のせせらぎが聞こえた。
「……出張先にしては、ずいぶんと空気がうまいな。」
起き上がろうとして、身体の軽さに驚く。
スーツは消え、代わりに粗末なシャツと布ズボン。
腕は若く、指先に皺がない。
「……転職どころか、転生か。」
呟いた声が、森に吸い込まれた。
辺りを見渡しても、人影どころか道すらない。
背の高い草と、木の根が張り巡らされた獣道。
かすかに獣の足跡が続いている。
「会社の備品課でも、ここまでは管理してないな。」
ぼやきながら立ち上がり、歩き出す。
靴の代わりに革のサンダルが足に馴染んでいる。
体は軽い。だが、その中に潜む“異物”の感覚――
何かが、自分の中に流れている。
風が吹いた瞬間、木々がざわめいた。
葉が、一方向に倒れる。風の流れが“見えた”。
「……これは……俺の風、か?」
掌をかざす。そよ風が応えるように形を変える。
目の前の落ち葉が舞い上がり、鳥の羽根のように回転して地に落ちた。
「おお……魔法ってやつか?」
笑いながら手を握る。確かに、力がある。
だが、それをどう使うかはまだわからない。
歩き続けて、日が傾き始めたころ。
小さな小屋を見つけた。煙突から煙が上がっている。
戸口には薪を抱えた老人。
「おぬし、大丈夫かの?」
皺だらけの顔が近づく。穏やかな目に、少しだけ警戒の色。
「……道に迷ってね。」
「森の中で倒れておったぞ。運が良かった。」
老人は手を差し出した。
その瞬間、指先に風が集まる感覚。
まるで、彼の“風”が老人を確かめているようだった。
「……風、俺になってるじゃないか。」
「ほう?」
老人は首を傾げたが、気に留める様子もない。
「まぁ、よい。中へ入りなされ。」
小屋の中は、土壁に木の梁。
小さな囲炉裏が燃えている。煮込まれたスープの匂いが鼻をくすぐった。
「食うか?」
「いただきます。」
差し出された木の椀を受け取り、口に含む。
野菜と豆のスープ。塩気が薄いが、やけに温かい。
「この辺りは……どこなんです?」
「北の森だ。王都からは三日の道のりじゃ。」
老人は薪をくべながら、ちらりとこちらを見る。
「名は?」
「……シン。シン=アルバート。」
とっさに口をついて出た名だった。
自分でも、なぜその名前が浮かんだのかはわからない。
「ほう、シンか。珍しい名じゃな。」
「まぁ、風の音みたいなもんです。」
老人は笑った。
「変わっとるのぉ。」
スープを飲み干すと、急な眠気に襲われた。
体の奥に、じんわりと温かい風が流れる。
老人が布団を差し出した。
「今夜はここで休め。明日になれば、身体も馴染むじゃろ。」
「馴染む……か。」
彼は布団に体を沈め、天井の木の節をぼんやりと見つめる。
ふと、かつての会社を思い出した。
報告書、会議、責任、数字。どれも息苦しい空気だった。
――風通しが悪いと腐るんだ。
自分が放った言葉が、また心の奥で鳴った。
「……まさか、本当に風になるとはな。」
目を閉じると、外の木々がざわめいた。
まるで“ようこそ”と囁くように。
夢を見た。
広い草原を風が駆ける。自分の姿はなく、意識だけが漂っている。
村、森、川、街、そして遠くの城。
風はすべてを通り抜け、どこにも留まらず、ただ流れ続けた。
そこに、人の声が混じる。
――「ありがとう」
――「風が、守ってくれた」
目を覚ますと、朝だった。
陽の光が小屋の隙間から差し込み、木の粉が宙を舞う。
老人が外で薪を割っていた。
「起きたか。」
「ええ、おかげさまで。」
彼は外に出て、森の空気を吸い込む。
肺が喜んでいるようだった。
「……いい風だ。」
老人が笑った。
「風が気に入ったか?」
「ええ。まぁ、俺の同僚みたいなもんです。」
「何を言う、風が同僚とは。」
「俺、前の職場では“風通しの悪いところ”にいましてね。」
老人は腹を抱えて笑った。
「なら、ここは天国じゃな。」
「……そうかもしれません。」
シン=アルバートは、初めて心から笑った。
その笑みを見て、老人は静かに頷いた。
「風に選ばれた者、かもしれんの。」
遠くで鳥が鳴いた。
森の奥で、微かに光が瞬く。
風が彼の髪を撫でた瞬間、どこからか声が聞こえた気がした。
――シン。
振り向いたが、誰もいない。
ただ、森が息づいているだけだった。
「……そうか、風ってのは案外おしゃべりだな。」
新しい世界の朝。
まだ何も知らぬ“風の旅人”が、一歩を踏み出した。
お読みいただきありがとうございます。
第2話では、転生後の静かな導入と、シン=アルバートの「風」との繋がりを描きました。
次回は第3話「小さな村」。初めて人の営みに触れるエピソードです。
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