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第1話 終わりの会議室

はじめまして。

この作品は、定年間際のサラリーマンが“風”として異世界に転生する物語です。

「働くこと」「責任」「自由」――そんなテーマを少しだけ風に乗せて描いていきます。

どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。

朝九時。

商社のフロアには、コーヒーとプリンターの匂いが混じっていた。


加瀬慎一郎――五十五歳、部長職。

灰色のスーツに地味なネクタイ、皺ひとつないワイシャツ。

だが彼の眼差しには、どこか醒めた光があった。


「おはようございます、部長。例の会議資料、今朝の分、机に置いてあります」

若手の課員が声をかける。

「うん。ありがとう」


加瀬は軽く頷きながら、机の端に積まれた厚い資料の束を片手で撫でた。

数字、表、報告、提案――どれもよく出来ている。だが彼はそれを開かない。


代わりに、ブラインドの隙間から外を見た。

冬の風が街を抜ける。いつも通りの冷たい朝。

それが最後の日になるとは、誰も知らなかった。


――午前十時。定例の部長会議。

狭い会議室に十数名の管理職たちが揃う。

壁際の時計が針を刻む音だけが響いていた。


「それでは、社長室からの通達を伝えます」

総務の人間が読み上げる。声は震えていた。


――商社本部、解体。


その瞬間、空気が凍った。ざわめきも怒号もない。

ただ、誰もが現実を理解できずに沈黙した。


「……は?」

営業一課長が思わず漏らす。

「どういう意味ですか? 本部ごと? うちの取引先は? 契約は?」


質問が飛ぶ。だが誰も答えない。

沈黙を破ったのは、加瀬だった。


「まぁ、風通しが悪くなったんだろ。」


ぼそりと呟いたその声は、妙に穏やかだった。

数名が彼を睨みつける。


「部長、何言ってるんですか! 本部が潰れるんですよ!」

「潰れるものは潰れるさ。」


誰もが息を呑む。だがその表情に、怒りも焦りもなかった。

代わりに、どこか懐かしいような笑みが浮かんでいた。


加瀬慎一郎は、“仕事をしているふり”が上手い男だった。

定時には帰る。昼は喫煙所でコーヒーを飲みながら談笑。

部下からすれば「何もしない上司」。


しかし、上層部だけは知っていた。

この男は、危機の前触れをいち早く察知し、

波が来る前に人を動かす。

彼の何気ない一言で、会社はいくつもの損失を避けてきた。


――風を読む。

それが、加瀬の仕事だった。


だが今回は違う。

いくら風を読んでも、この会社にはもう風が通っていなかった。


「再就職、どうされます?」

人事の若い女性が恐る恐る尋ねる。


「うーん……面倒だな。次は“風”にでもなるか。」


冗談のつもりだった。だが彼女は笑わなかった。

目に涙が溜まっているのが見えた。


会議室を出た後、廊下に一人残り、加瀬はネクタイを外した。

その布が風に揺れる。外のビル風が妙に心地よかった。


「……この会社、風通しが悪くなったのは、いつからだろうな。」


彼は最後に机の引き出しを開け、十年前の写真を取り出した。

海外出張の時、同僚たちと笑い合って撮った一枚。

まだ誰も疲れていなかった。


「良いチームだったんだけどな。」


夜。外は嵐のような風が吹いていた。

非常階段のドアがバタバタと鳴り、どこかで書類の山が崩れる音がする。


彼はひとり、暗い会議室に戻っていた。

最後の報告書に印鑑を押すためだ。


――押印。


「これで終わり、か。」


窓の外、雷が走った。照明が一瞬、消える。

停電かと思ったが、それは違った。


風が――吹き込んできた。


会議室の窓が爆音と共に破裂する。

冷たい空気が全身を包み、紙が舞い、机が滑り、彼の体が宙に浮いた。


「……おいおい、会社が潰れるって、そういう意味かよ。」


皮肉混じりの声が、風に溶けた。


その瞬間、世界が白く弾ける。

音も、痛みも、重力も――すべて消えた。


目を開けると、草原が広がっていた。

澄み切った空。どこまでも続く緑。


「……社畜の地獄も、ずいぶん風通しが良くなったな。」


彼は空を仰ぎ、吹き抜ける風を一度、深く吸い込んだ。


不思議と、恐れはなかった。

むしろ、安堵に近いものが胸を満たしていた。


――いい風だ。


それが、加瀬慎一郎――

後のシン=アルバートがこの世界で

最初に発した言葉だった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

この物語は“仕事人の転生譚”として少しずつ世界が広がっていきます。

次回は「目覚めの森」。新しい風が吹きます。

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