第1話『死人と罪人だけの世界へ』
「──死人と罪人だけの世界へ、君を導こう。」
面会室に現れた“仮面をつけた面会者”は俺──猪川日生[いのかわ ひなせ]にそう告げた。
冗談だと思った。
夢だと思った。
だが──それは、紛れもなく現実だった。
何故だろうか?
驚きはするものの、納得が勝ってしまった。
40年前、俺が“あの死体”を見つけたあの日、あの瞬間から、すでに俺の運命は狂い始めていたからだろうか…
「猪川、面会だ。」
背中越しに刑務官の声がした。
疑心暗鬼に、ゆっくりと振り向いた。
40年前には身寄りがいない俺に面会なんてあるわけがない。
そう思いつつ立ち上がった俺の腰は、妙に軽かった。
──ジャラジャラ
牢から出ると、刑務官に手錠をかけられ、前を歩いた。
面会室なんていつぶりだろうか。
40年前、弁護士に罪を認めるよう促された時以来だろうか。
──ポンッ
刑務官は俺の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「素直に罪を認めて反省していれば、すぐ行けたのにな。」
「え…?」
犯罪絡みの話を振られた時はいつも『俺は冤罪だ、クソ野郎。』と言い返していた。
刑務官ならどつかれ、囚人仲間なら笑い合っていた。
だから今回も、普通ならそう返すはず──だったが、言い返せなかった。
こんなことは獄中生活40年目にして初めてだ。
コイツの言っている意味が全くわからなかったからだ。
確かに、最近は反省しているように見えているのかもしれない。
仲良しの囚人仲間が居なくなって、この絡みが減ったからな。
でも、『すぐ行けた』ってどういうことだ?
面会室?それとも──
──ドンッ‼︎
「さっさと進め‼︎」
痛っ‼︎
知らぬ間に立ち止まっていた俺を蹴った。
お前が余計なこと言うからだろ。
──そんなこんなで、面会室に着いた。
ガラス越しには、見知らぬ仮面の面会者がいた。
後ろに従える部下も奇妙な仮面をつけていた。
ソイツからファイルを受け取り、紙を眺めていた。
「さあ、座りたまえ。」
少し低いが、恐らく女性の声だ。
勘だが、20代ぐらいの若さだろう。
俺は椅子に座って女と向かい合った。
緊張して手汗が出てきた。
童貞の俺が若い女性と話せるなんて、これ以上にないご褒美だ。
「君は私を知っているか?」
「い、いや、すまないがわからんな。」
女は紙をめくる手を止めた。
紙に書かれている文字を指で追っている。
「私は死人と罪人の世界の案内人だ。」
「は、え、何の世界って?」
「君の名前は猪川日生。歳は60歳──」
え、いや、会話をしようぜ。
俺の質問が悪いのか?
「合っているか?」
「えっ?」
「よし。」
何が『よし。』だ。
ダメだ、コイツとは分かり合えないのかもしれない。
これがジェネレーションギャップというやつなのか。
「40年前、幼馴染の笹部常和[ささべ ときわ]の死体の第一発見者として通報。数々の証拠から、警察は猪川を連続殺人犯として捜査を開始。猪川は罪を認め、無期懲役の刑に処された。何十年もの間、反省の色を全く見せない問題児であり、『冤罪だ』と言い続けていた、と。」
──ギュッ
俺は腹が立って、机の上で拳を握った。
コイツの態度に対してではなく、その紙の内容に対してだ。
他人からしてみれば合っているのかもしれない。
だが、俺からすれば間違っている。
だって──
「俺は冤罪だ。その紙の内容は出鱈目だ。」
女は後ろの部下の方を向く。
「全然反省していないじゃないか。」
「い、いや〜そう言われましても。僕はあくまで通達を受けた者なので…」
女は深くため息を吐いた。
「冤罪ね…罪を認めたって書いてるけど?」
「…弁護士に言われたんだ。裁判は勝てないから、罪を認めてしまって死罪を避けるべきだって。」
「なるほどね。それで認めた、と。この国の闇を感じるね。」
「冤罪なら冤罪だって貫き通せばいいのに──」
──ドカンッ‼︎
俺の拳が思いっきり机を叩いた。
背後で座っていた刑務官も驚いたことだろう。
部下はそんな俺を見てかなりビビっていたが、女は微動だにしなかった。
「お前らに…‼︎お前らに俺の苦痛がわかるわけねぇだろ‼︎」
先ほどまで緊張していた自分が嘘のようだ。
怒りで身体全体が熱くなってきた。
何故か涙が出てきた。
身体の熱を冷ますように伝って落ちるのを感じた。
「常和が死んだ時点で俺のメンタルは耐えられなかった‼︎そのうえ、取調室で殴られ、弁護士からも見放され、親も兄弟もいない俺に『冤罪だ』って言い続けろって?…人生をやり直せたって無理だ‼︎」
ダメだ、涙が止まらない。
拭っても拭っても止まらない。
「40年前、君の身に何があった?」
「え、先輩。そんなこと聞いてどうする──」
「君はちょっと黙りたまえ。」
「は、はい…」
「どうだ?少し、私たちに昔話をしてくれないか?」
俺は少し躊躇した。
でも、話したかった。
他人に自分の過去へ興味を示されたことなんてほとんどなかったからだ。
俺は回想した──
【回想】
──40年前、10月26日、当時20歳の大学2年生。
風が冷たくなり始め、街路樹の葉は赤色や黄色に染まり、足元に積もり始めていた。
──シャカッシャカッ
大学の講義が終わり、颯爽と自転車を漕いで帰っていた。
今日は常和の20歳の誕生日。
運良くプロ野球の日本シリーズの試合チケットを当てた俺は、常和を誘った。
俺もプロ野球は大好きだったが、常和は俺以上だった。
そんな常和の喜ぶ姿を見れただけで、俺は幸せだった。
またそんな姿を見れるんだと思うと、ワクワクが止まらなかった。
──身支度を終えた。
──カチッ
──ガチャッ
部屋の電気を消し、アパートを出た。
野球観戦のはずなのに、俺は香水やアクセサリーもつけ、一張羅を着た。
もちろん、常和の誕生日プレゼントも持っている。
常和のアパートまで徒歩だ。
早めに出ておいて損はないだろう──
──常和のアパートに着いた。
予定時刻よりも10分も早く着いていた。
まあいっか。
常和のことだ、早めに準備しているだろう。
そう思って、アパートに入ろうとした時だった。
──ドカンッ‼︎
「痛っ‼︎」
アパートから出てくる誰かにぶつかり、尻餅をついてしまった。
相手は微動だにしなかった。
謝ろうとした時には、すでにどこかに行ってしまっていた。
何故だろうか、自分よりも背が低い気がしたのに、岩のように重く感じた。
自分の体幹の弱さを実感した。
──なんて言ってる場合じゃない。
俺は急いでプレゼントに傷がないか、箱を開けて確認した。
中身はイヤリングだった。
「よし、大丈夫だ。」
俺は今日、常和に告白するつもりだ。
幼馴染だって好きなものは好きなんだ。
もっと先の関係になりたい。
告白の時にプレゼントが壊れてました、なんてカッコつかないもんな。
俺は一応服の確認もし、整えてアパートに入った──
──部屋の前に着いた。
──ピンポーン
インターホンを鳴らした。
返事がなかった。
もしかしたらトイレに行ってるのかもしれない。
そう思って、5分ほど待ってみた。
──ピンポーン
またインターホンを鳴らしてみた。
でも、返事がない。
常和は一人暮らしだ、家を出ていたら誰も返事しないもんな。
そう思って、また待ってみた。
──ピンポーン
返事がない。
予定時刻を20分も過ぎている。
どうしたんだろうか?
常和は時間にシビアなはずだ。
今日は野球観戦だし、なおさら懐疑的になった。
──コンコンッ
「おーい、常和〜。いるか〜?」
返事がない。
おかしい。
何かあったんじゃないか?
俺はドアノブに触れてみる。
──ガチャッ
鍵が開いている。
不用心だな。
「常和〜、入るぞ〜?」
俺は家に足を踏み入れた。
何か嫌な匂いがする。
まるで、包丁で指を切ったときみたいな匂いだ。
──カチャッ
部屋に入るドアを開けた。
ドアの足元には血の海があった。
「えっ…⁉︎」
俺は前を見た。
常和は死んでいた。
鉄の細い棒がこめかみを突き刺していた。
俺は咄嗟に駆け寄った。
「おい、大丈夫か‼︎おい‼︎」
返事がない。
もう冷たかった。
「おい‼︎返事しろって‼︎」
もう返事をしないことぐらいわかってた。
でも死んでいるなんて思いたくなかった。
指は少し硬直し始めていた。
俺は119に電話をした。
俺の白い靴下は真っ赤に染まり始めていた──
──5日経った。
俺は病院にいた。
常和の両親も実家から駆けてきていた。
5日間ずっと泣いていた俺の背中を、常和の両親はさすってくれていた。
1番苦しいのは両親の方なのに、なんてその時は考えている暇もないぐらい悲しかった。
警察が来た。
「猪川日生さん、事情聴取を行いますので、同行お願いします。」
俺は涙を拭った。
パトカーに乗って警察署まで向かった──
──取調室で俺は衝撃の通達を受けた。
「今回の事件は最近多発している連続殺人事件の手口と似ているんだけど、君が殺ったんだよね?」
「えっ…?」
全く意味がわからなかった。
確かに、俺は何も考えず常和とか凶器とかを素手で触ってしまっていたのかもしれない。
でも、どこかの監視カメラを見ればアリバイなんて幾つでもあるだろう。
そんなことをあれこれ話したが、警察は全く聞く耳を持たなかった──
──これから先のことはよく覚えていない。
というよりも、思い出したくないと言った方がいいのかもしれない。
検察には、取調室でアザができるほどに殴られた。
やる気のない国選弁護士には、罪を軽くするために罪を認めるよう促された。
面会室に一度だけ訪れた常和の両親には、『お前がやったんだろ』と言うような眼差しで「一生恨んでやる。」と言われた。
俺は自分を何度も恨んだ。
どうしてあの時、もっと早く常和を助けに行かなかったんだって。
でも、俺はそれ以上にずっと、毎日忘れることなく恨んだ。
俺の人生をめちゃくちゃにした“本当の連続殺人犯”を──
【回想終わり】
「──ってな感じだな。どうだ散々だろ?」
沈黙が続く。
部下は指をイジっていたが、女は黙って話を聞いていた。
「戦争、孤独、死──恐怖の対象は様々だ。だが、それらが本当に恐ろしく感じられるのは、すでに起きたことを“知る”時ではない。むしろ、それらが近づいていることさえ“知らない”時なのかもしれない。…知った時にはもう手遅れだからな。」
「そうだな…」
俺は涙を拭った。
ここまで俺のことを理解してくれる人間は初めてだった。
少し前向きな気持ちになれた気がする。
「どうだ、少しは気が楽になったか?」
「あぁ、ありがとうな。」
「他人に自分の話を理解してもらうのは気持ちがいいだろ。」
「あぁ。当時の俺にアンタみたいな味方がいたら、『冤罪だ』って言い続けられたのかもしれないな。」
「そうだな。」
──パンッ
女は勢いよくファイルを閉じた。
部下は少し飛び跳ねた。
「さて、本題はここからだ。時間がない。一つだけ質問をしよう。」
「質問?」
「…生まれ変われるなら、何になりたい?」
「え…?」
「なんでもいい。動物でも、特定の人間でも。ただし、この世に存在するモノだけだよ。」
俺は目を閉じ、少し考えた。
脳の中の小さな俺が、土に埋もれた答えを必死に掘り探している感覚だった。
でも、掘るまでもなかった。
そこには、最初から見えていた大きな木の芯があり、その年輪に──答えは刻まれていた。
「なりたいモノはたくさんある。イケメンになってモテたいし、天才になって賢い大学に行きたいし、運動神経が良くなってアスリートになりたい。亀になって長生きしたいし、ライオンになってジャングルでブイブイ言わせたい。でも──」
──ニコッ
俺は久しぶりに笑った。
「──結局俺は、俺になりてぇや。」
「…‼︎」
女と部下は分かりやすく驚いていた。
表情を変えるはずのない仮面もが、驚いていた顔をしているように見えた。
「…し、質問を変えよう。君を今から違うモノに変えてあげる。これは絶対だ。現実にいるモノだったら何でもだ。それならどうする?」
俺は即答した。
「それでも俺は、俺になりたいや。」
「本気で言っているのか…?」
「一度は俺のまま一生を終えてみたいな。俺になれるのは俺だけだし。」
「そ、そうか…」
再びファイルを開いた。
──パラパラッ
紙を次々に捲る。
──ピタッ
捲る手を止めた。
少し紙を眺めていた。
「私だけか…よし。」
「え、ちょっと待って下さいよ、先輩‼︎それは流石に──」
「私は私、君は君だ。」
「い、いや〜そうは言っても──」
何の話だろうか?
2人で会話が進み過ぎて、置いてかれている感じがした。
女は立ち上がった。
「話は終わりだ。…さて、死人と罪人だけの世界へ、君を導こう。」
「えっ…?」
『案内人』って言っていたことは本当だったのか。
少し疑った。
でも、何故か納得してしまう自分がいた。
冤罪で狂わされた身だ。
変なことが起こっても受け入れてしまう嫌な耐性がついてしまっていた。
「君の人生を20歳からやり直してあげよう。ただし、生きる世界は『死人と罪人の世界』だ。気を抜いてはいけない。」
「20歳から?」
俺は少し嬉しかった。
若返って生き返るだけでない。
なぜなら──
「“その世界”には、連続殺人犯も、常和もいるのか?俺の冤罪が晴れるかもしれないのか?」
「さあ、どうだろう?教えてしまったら、人生の面白さが減ってしまうだろ。生きて、君の目で確かめてみればいい。君の脳で解き明かせばいい。」
俺はすごくワクワクした。
この感じは少し懐かしさを感じた。
「一つだけ忠告をしておこう。私はいつでも君の側にいる。わからなくなった時、死に際に追いやられた時、君の“睾丸”を思い切り殴ってくれ。」
「え、“睾丸”って“キンタマ”だろ?なんで⁉︎」
絶対嫌なんですけど⁉︎
腹痛確定演出じゃん。
ワンチャン気絶するって。
「では、また会おう。幸運を祈る。」
──ドカッ‼︎
刑務官だろうか。
俺は背後から誰かに思い切り殴られ、机に頭を打ちつけられた。
俺はそのまま気を失ってしまった──
──目を覚ます。
もう陽が落ちており、少し肌寒くなっていた。
山の頂上で、大きな木にもたれかかって座っていた。
目の前に広がる山麓の都市部には高層ビルが立ち並び、ポツポツと明かりが灯り始めていた。
今の日本はこんな感じなのかもしれないなと、少し感慨深くなった。
立ち上がってみた。
頭が痛い。
頭を押さえると同時に、上から押さえた長い髪がヒョコッと目の前に顔を出した。
俺は驚いた。
白髪と黒髪が混ざっていたからだ。
俺は黒髪だけだったはずなのに何があったんだ?
そんなこと考えたってわかるわけがないか。
お金も何もないが、とにかく休めるところを探すことにした。
本当に若返っているのか、鏡で確認したいしな。
割と近くに村があったので、そこへ行くことにした──
──村に着いた。
少ししか時間が経ってないのに、かなり肌寒くなっていた。
木造の家が並んでいたり
さっさと泊まれる宿を探したいところだが、出歩く人が全然いない。
もう廃村しているのだろうか?
どうしたものか。
そんな時、1人の人間──いや、狼を見つけた。
でも二足歩行をしているな。
何かわからないが、近づいてみた。
──やっぱり狼だ。
何か鼻歌を歌っている。
日本語は通じるのか?
話しかけようか迷った。
ここは“死人と罪人の世界”だ。
何が起こってもおかしくない。
でも、行動しないと何も起こらない。
「あの〜、すみませ〜ん。」
狼が振り向くや否や、バケモノを見たような顔をして驚いた。
──バシャッ‼︎
狼は手に持っていたバケツの水を倒した。
「や、やめてくれ‼︎水を汲みに来ただけなんだ‼︎」
「え?」
予想外の反応だった。
狼はかなり震えていた。
俺は何か悪いことをした気がした。
──ギィッギィッ
倒れたバケツに、もう一度井戸水を汲み直した。
「先ほどは驚かせてしまいすみま──」
振り向いた時には狼がいなかった。
どうやら井戸水を汲んでいる最中に逃げられてしまったらしい。
俺の顔には何か付いているのか?
何をそんなに驚く必要があるんだ?
1人で考えても何一つわからない。
とりあえず、宿探しを再開しようとした時──
「や、やめてくれ‼︎水を汲みに来ただけなんだ‼︎」
さっきの狼の声が近くで聞こえた。
俺はマズいことが起こっている気がして、声の聞こえる方へ走った──
──ここら辺から声がしたんだけどな。
周りは暗く、茂みでよく見えない。
だが、少し進んでみると灯りが見えた。
その方向へ進んだ時──
「──さっきから『水を汲んでました』って言ってるがな、その肝心の水はどこにあるんだ?あぁ?」
咄嗟に茂みに隠れた。
知らない声だ。
そっと覗くと、狼が2人の男に囲まれている。
「“テイルズ”は嘘をつくのが得意だと思ってたがな。」
“テイルズ”?
何の話だろうか?
狼は声を震わせ、泣きそうになっていた。
「金ならいくらでもあげる‼︎だから助けてくれ‼︎お願いだ‼︎」
「金?それだけじゃ足りんな。」
2人の男は腰に据えた刀を抜いた。
刀を狼に向ける。
「俺たちはちょうど腹が減ってるんだ。」
「今日は良い酒が呑めそうだな。」
狼が殺される…‼︎
助けようと思った。
でも、少し躊躇してしまった。
俺の目的は冤罪の真実を知ること。
こんなところで死んだら、元も子もない。
だが──昔の俺が許さなかった。
時は金なり。
善は急げ。
あの事件で俺は、時間がいかに大切かを知らされた。
今ここで迷っている時間が、1つの命を奪うかもしれない。
そんなことに気づいた時には、すでに俺は震える足に抗い、茂みを駆け出した──