俺は彼女の猫谷さんと、ちょっとだけ変わった夜を過ごした
「はい、これ今日のおやつ。
イチゴ味のミルクプリン」
猫谷美心は、ピンク色のプラスチック容器を誇らしげに差し出した。
「……作ったの?」
「もちろん。透くん、甘いの好きでしょ」
透、折中透は、ぽつんと小さく笑った。
ソファの端でそれを受け取って、ふたをあける。
「ありがとう。
かわいい」
「味もかわいいよ。
っていうか、わたしのこともちゃんと褒めてよね」
「美心は……かわいすぎてちょっと反則」
「……っ、透くんって、ほんとそういうとこずるい。
……けど可愛い…」
「…なんか言った?」
「……もぉ、透君のバカ…」
するとやがて、頬を赤くしながらも、美心はテーブルの反対側に腰を下ろした。
ふたりとも高校二年。
隣のクラスで、文化祭の準備がきっかけで話すようになった。
透は、親の都合でひとり暮らしをしていて、周囲からは“クールなやつ”と思われている。
けど、美心は知っている。
この人、全然クールじゃない。好きな子には甘すぎる。
「で、今日は何しに来たの?」
「うわ、ひど。
彼女が彼氏の部屋に来るのって理由いるの?」
「いや、ない。
むしろありがたい」
にやりと笑って、透はプリンをひとくち。
口元がふわっと緩む。
「……ほんとにうまい。
これ、プロ級」
「やった。
……透くんがそうやって素直に褒めてくれるの、好き」
「じゃあ毎日言おうか」
「ほんとに?
じゃあ朝起きたら“おはよう、美心かわいい”、ってLINEしてね」
「やる。
なんなら即スタンプも送る」
「……まって、ほんとにしそう」
笑い合う空気に、部屋がふんわり甘くなる。
カップからスプーンでプリンをすくいながら、美心がぽつりとつぶやいた。
「……ねえ、透くん。
一人暮らし、さみしくない?」
すると、一瞬だけ彼の表情が曇った気がした。
しかし、一瞬過ぎたのでよく見えなかったが。
「んー……さみしいときもある。
夜とか、静かすぎるし」
そりゃあ、そうだろう。
夜なんて親元で暮らしてても怖いしさみしいのに、一人暮らしなんだったら尚更そうだろうし。
………。
……すると、私の思考の中にこんなものが出てきた。
「そっか……。
じゃあ、わたし、もっと来ようか?」
無理そうな提案である。
身勝手だが、許してほしい。
無理なら無理と言っても良い。
ただ、透君のそばにいたいだけだから。
彼の返事はというと、
「……来て」
それは意外なものだった。
透君の声が、少し低くなった。
そして真面目なトーンで、私の方を見る。
「ほんとに、もっと来てほしい。
鍵、渡そうか?」
「えっ、鍵……?」
「無理だったらいい。
でも……合鍵、持っててほしい。
美心だから渡したいって思った」
美心はしばらく固まったまま、スプーンを止めた。
どきどきどきどき。
鼓動がうるさいくらい跳ねている。
そして、少しの沈黙を挟んだ後、美心は言葉を発した。
「……うれしい。
もらっていい?」
「…うん」
透は、リビングの鍵置きから小さなシルバーの鍵を取り出して、そっと彼女の手に乗せた。
冷たいはずなのに、やけにあたたかい気がした。
「ふふ、なんかもう……夫婦みたい」
「それは、いずれ……ね?」
「わっ、なにそれ、先の話しすぎでしょ!」
「でも、冗談じゃない。……本気だよ、美心」
そのとき、時計が午後五時をさした。
窓の外が、オレンジから少しだけ夜に染まりはじめている。
美心は、カップの底をスプーンですくいながら、口を開いた。
「じゃあ、ちゃんと料理も練習しなきゃなあ。
お嫁さん修行ってやつ?」
「待って、やば、かわいすぎて息止まる」
「透くん、死なないで。
ご飯作る人いなくなる」
「じゃあ、ずっとそばにいて。
死なない程度に甘やかして」
「……うん、ずっといるよ。
毎日、今日みたいな午後を過ごすの」
鍵をにぎりしめるその手は、少しだけ震えていた。
でもそのぶん、彼女の笑顔は確かに強かった。
―――
午前0時を少し過ぎたころ。
透はふと目を覚ました。スマホの通知音でも、物音でもない。
なのに、妙な胸騒ぎがして起き上がる。
ピンポーン。
まさか、と思った。
けれど、それは紛れもなく玄関のチャイムだった。
寝間着のまま、そっとドアを開けると、そこには猫谷美心が立っていた。
「……こんばんは」
「……おいおい、猫じゃないんだから、夜に出歩くなよ」
「猫です。にゃー」
「ふざけてる場合か。
どうしたの、こんな時間に」
「なんか……眠れなくて。
透くんの声、聞きたくなっちゃった」
その一言に、透はあっけなく負けた。
怒る理由が全部、甘やかす理由に変わっていく。
「入れよ。寒いだろ」
「ありがと」
美心はもこもこのパーカーと短パン、スニーカーという軽装だった。
思わず、透は眉をひそめる。
「お前さ……もうちょい警戒心もとうな?」
「透くんが守ってくれると思ってるから」
「信用重すぎ。
……お湯、沸かすわ」
そう言いながら、透はキッチンへ向かった。美心は遠慮なくソファに座ると、ふわふわのクッションを抱きしめた。
「ねえ、迷惑だった?」
「迷惑じゃない。……心臓には悪いけど」
「そっか、よかった」
少しして、透がカップを2つ持って戻ってくる。
夜中にしてはやけに丁寧にいれたハーブティーが、テーブルの上で湯気をたてた。
「……ありがとう。
やさしいね、透くんって」
「お前が来るとつい甘くなる。
自己責任だぞ」
ふたりでホットティーを啜りながら、静かな夜が過ぎていく。
テレビはつけていない。
時計の針の音と、たまに鳴る湯沸かしポットの機械音だけが静寂を刻んでいる。
「……ねえ、透くん」
「ん」
………。
少し黙ってから、美心は話しかけてきた。
「今日さ、すごくさみしかったんだ。
意味もなく。
……親、出張で、弟も塾で帰り遅くて、部屋にひとりでいるのが、怖かった」
ポツリとつぶやくその声に、透は小さく息を呑んだ。
心の奥が、ふっとあたたかくなって、そして少しだけ痛くなった。
「……ごめんね。来ちゃって」
「ううん。
来てくれて、うれしかったよ」
透は、そっと彼女の手に触れた。
細くて、あたたかい指先。少しだけ震えていた。
「……泊まる?」
「いいの?」
「もちろん」
「……ありがと」
それから少しして、ふたりはリビングの照明を落とし、透のベッドに並んで横になった。
ひとつの布団に、ぴったり寄り添うかたちで。
「……ドキドキするね」
「おれはさっきから心臓うるさいよ」
小さな笑いが、ふたりの間に灯る。
けれど、空気は確かに甘く、じわじわと肌に熱をともしていく。
「透くん……」
美心が、彼の胸元に顔をうずめる。
透は、その肩をそっと抱いた。
「……かわいすぎるよ、お前」
「……やさしすぎるよ、透くん」
ふたりの唇が近づいた。
そっと触れあって、確かめ合うようなキスを、ひとつ、ふたつ、みっつと、重ねられていく。
それ以上、求めようと思えば、できた。
…けれど。
……けれど。
「……やめとこっか」
透が、そっと額を重ねてつぶやいた。
美心も、すぐにうなずいた。
「うん。
いま、ここで止めてくれるの、すごく透くんらしい」
「本気で好きだから。
ちゃんと守りたいんだよ」
「わたしも……透くんのこと、すごく好き。
今日ここに来たのも、そういう気持ちがあったからで……」
「知ってる。
でも、それはちゃんと、特別なときにとっておこう」
「……うん」
透の手が、美心の髪をなでた。
その優しさに、心の奥がとろけていく。
「……安心したら、眠くなってきた」
「寝な。朝までいていいんだから」
「うん……透くんの隣、落ち着く……」
美心は、透の胸に顔をあずけて目を閉じた。
彼も、そっと目を閉じる。
何もない夜に、何よりも大事なぬくもりがあった。
それは果たして、何であろうか。
―――
朝。
カーテンの隙間から差し込む陽光に、透はゆっくりと目を開けた。
隣には、まだ眠る美心の寝顔。安心しきった無防備な表情に、思わず微笑んでしまう。
「……おはよう」
小さくつぶやくと、美心が薄く目を開けた。
「ん……おはよう、透くん……」
「寝心地、どうだった?」
「最高。
……なんなら、ここに住みたい」
「いやそれ、親に怒られるやつ」
「透くんの彼女って時点で、けっこう心配されてるからなあ」
「それ、褒めてる?」
「もちろん。
……好きだよ、透くん」
その言葉に、透は頬を染めて、寝癖を気にするふりをしてごまかした。
「おれも。
美心のこと、ずっとずっと」
すると、美心は何も言わずに俺の胸元に飛び込んできた。
それを感じ取ると、俺は嬉しくてたまらなかった。
こうして始まる、ちょっとだけ特別な朝。
それは、夜のやさしさを知ったふたりだけの、とっておきの続きだった。