25
バチン、と頬を挟まれる。無理矢理、顔を上げさせられた。意図せぬ動きに首筋が引き攣る。痛みを感じて咄嗟に瞑った目を、開けた。
楠ゆかり。
「辞めない、辞めない、辞めない。私、何回も言ったよね」
楠の声は、普段はどこか坦々としている。抑揚が少なく、感情も籠りにくい、平坦な声音だ。
それがどうだ。彼女の声は今、確実に苛立っている。
「確かに、私はまだあんたの幸運とやらをろくに見てないよ。どんなもんか、見ないと分かんない」
「じゃあ」
「でも、実際に見て分かったとして、それでも絶対に辞めない」
なんでそう言い切れるんだ。何も知らないのに。リュカが今まで、どれだけのものを犠牲にしてきたか、知らないくせに。
そう脳内の自分が喚く。でも、それより強く、楠の声が響く。
「こっち見て。無視しないで」
先程より近くに楠の目が見える。照明を背負ったその瞳に、光りが映るはずもない。そのはずなのに、彼女の目の奥に、見えた。
眩く、激しく燃える、星のような光。
「そんな妄想の中の偽物より、目の前の本物を信じて」
ぐしゃり、リュカの顔が歪む。
(眩しい。眩しいな)
トン、と軽く楠の腕を叩いた。疑わし気に、ゆっくりとした動作で両手がリュカの頬から離れていく。
リュカは飛行バイクに手を付き、それを支えに立ち上がった。振り返る。
楠は一歩下がり、こちらを見上げた。いつも通りの、なんてことないような表情だ。
「分かった?」
そんな楠を、リュカは無表情で見下ろす。
「1つだけ聞かせて」
「なに」
「きみはなんでここで任に就いてるの」
楠は即答した。
「守りたいものがあるから」
「……それ、お店とか、河合さんのこと?」
「まぁ、そうだね」
相変わらず、意味が分からなかった。
楠があの店や河合のことを大切に思っていることは、これまでの関わりで十分わかった。だからこそリュカには理解できない。
大切な物から離れるなんてありえない。自分にとって大事な居場所なら、そこに居続けたいはずなのに。
今はなにか、勘違いしているだけだ。我に帰ったらすぐあの店に、河合の元に帰りたくなるに決まっている。そうして離れていくのなら、それはできるだけ早い方が良い。その方が寂しさは少なく済むはず。リュカが楠を遠ざけたのは、そういった意図もあったのだ。
これじゃあどうにも納得できない。微妙な顔をするリュカに、楠は小さく微笑んだ。
「だから、前も言ったでしょ。これが最善なんだって」
「それ、本当に意味分かんないよ。大切なものから離れるのが最善ってなに?」
「私が陽動飛行隊にいた方が、大切なものを守れるの」
そう言って楠は腕を組む。両肘を両手で抱えたその腕の組み方を見る度に、リュカはこう思っていた。
腕の中から何かを取りこぼさないようにしているみたいだな、と。
「だから最善。離れても、そばに居られなくても、これが最善」
リュカは腰に手を当てる。そして、細く、長く、息を吐いた。
「本当に、意味が分かんない」
「いいよそれで。分かんなくていい。そうなんだ、って思ってくれれば、それで」
「……うん、そっか。了解」
1つ、2つと頷いて、それからリュカは顔を上げる。
そして、
「いったん、今は、目の前のきみを信じるよ」
と告げれば、楠は不満げに眉根を寄せた。
「いったん? 今は?」
「いったん。今は」
「……へぇー」
「誤解しないで欲しいんだけど、これはこの場を誤魔化すために吐いた嘘とかじゃないよ」
「それは分かる」
「あぁ、そう……」
リュカは頬を掻く。また話が逸れた。咳払い。
「人の気持ちとか感情って、簡単に変わるものだからね。だから、今の俺はきみを信じるよ」
「……まぁ、そういうことにしておく」
楠は、ため息と共にそう呟いた。
これは、どうだろう。リュカが一つ線を引いたこと、見透かされただろうか。いつ楠の気持ちが変わって、陽動飛行隊を辞めたがっても良いように。
でも仕方がないじゃないか。この思考回路の焦げつきは、長い年月をかけてすっかりリュカの中にこびり付いた。どれだけ強い光に焼かれても、そう簡単に溶けやしない。
だからリュカはこう言うしかない。
ごめんね、と心の中で謝る。あそこまで言わせたのに、リュカは結局変われていない。
自分はきっと、予防線を張るのが癖になってしまったのだろう。
でも今の言葉は決して嘘じゃない。
今この瞬間のリュカは、確かに目の前の楠を信じた。それだけは本当なのだ。
そして――もしかしたら、それすらも楠には伝わっていたのかもしれない。
「今はそれで十分」
彼女はそう言い目を細めた。
ふっ、とリュカは小さく息を落とす。その瞬間、タイミングよく耳元の無線機からピピ、と電子音が鳴った。アレサンドロだ。
「ポイントに着いた。対象を確認。陽動飛行隊、出れるか」
隣を見れば、楠はシャッターの方を向き、ゴーグルを下ろしていた。こちらを見上げ、頷く。リュカはそれに頷き返し、飛行バイクに跨った。
「いつでも行けるよ」
報告の声に呼応してシャッターが少しずつ上がっていく。
天気が良くない。一面煙の様に曇りかかっていた。
「そうだ」
「え?」
ふと、駆動音と激しい風の音に混ざり、楠の声が聞こえた。リュカは彼女の方を見やる。
「言いそびれてたことがあった」
「まだなにかあるの……?」
「あんた、これからずっと私のこと、きみ、って呼ぶつもり?」
「……あー」
まぁ、言われるか。流石に。
「あんたがそうしたいなら別にそれでいいけどさ」
「……逆に、きみは」
一瞬、楠の視線が突き刺さる。へらり、とリュカは曖昧に笑った。
「きみは、なんて呼ばれたいの?」
「それ、本当に最初の段階で聞くことだなぁ」
……至極その通りだ。正論である。組んで早々、楠を押し切って愛称を付けたのはリュカだ。今思えば浮かれていたにも程がある。
というか、そういえばあの時の楠は結構嫌がっていたような。じゃあこの遅すぎる質問の答えは決まっている。
(姓か、名のどっちか……)
「まぁシュガーでいいよ」
「えぇ?」
つい飛び出た素っ頓狂な声が、風に揉まれていった。
言いたいことは色々ある。意味も分からず、納得できないことも、それはもう沢山。
しかし魔獣は待ってくれない。こんな乱れた心模様を任務に持ち込むわけにもいかなかった。
だから、
「……そうなんだ」
の言葉で全部受け入れた。
いいや、別に。なにも分からないけど、彼女が望むなら、それで。
「じゃあ、シュガー」
「うん」
「そろそろ行くよ」
「了解」
トン。楠が1つジャンプする。
リュカは自身の飛行バイクをそっと撫でた。
「どうかよろしく、ハニー」
囁き、アクセルを開ける。元気よくハニーのエンジンが唸りを上げた。
「陽動飛行隊、出ます」
さぁ発進だ。リュカを乗せた飛行バイクが走り出す。加速しながら開けたシャッターの方へ。
その隣をトップスピードの楠が飛び出していった。




