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「やー……ダメですか」
「ダメですね……」
そうかぁ、と、アレサンドロは間延びした声を出し頬をかく。
先程までの張り詰めた空気はすっかり緩んでいた。楠の正体、別に隠してはいないけれど、とにかく楠が飛行魔法が使えることを見破ったうえで、再び断られるとは思っていなかったのだろう。それともこちらの油断を誘いたいのか。真意は分からない。
ただ楠としては、話が済んだのなら早く店に戻りたかった。そうこうしている間に、いつ店長の悲鳴が聞こえてくるかも分からないのだ。何ならもう聞こえる気がする。
幻聴にこめかみを抑えていると、アレサンドロが改めて楠に向き合った。
「参考までにお聞きしたいのですが、何故でしょうか」
そう言いつつアレサンドロは座り直す。まだなお居座る気だ。
なにをどう言われようと、楠の気は変わらない。もうこの人と会うこともない。本来ならば失礼に当たるだろうとは思いつつ、楠はため息を隠さずに堂々と吐いてやった。
「だってギルドって天災、あ、魔獣と近くで接触するんですよね」
「あぁ、まぁ、そうですね。いや正確には接触はしませんが」
「命の危険がある現場ですよね」
「まぁ」
「いやです……」
「あー……」
なにが、あー、だ。苦笑いのアレサンドロを、楠は控えめにじとりと睨んだ。
「勿論命の危険がないとは言えません。言えませんが、メンバーの安全を守るのが、リーダーである私の務めです」
アレサンドロはそんな楠の目をまっすぐに見返してきた。その瞳の強さに、楠の方が怯んでしまう。
「……リーダーと名の付く立場らしい、素敵なお考えですね」
「メンバー達には町や人々の安全を守ってもらっていますから。当然のことですよ」
「私はそんな立派な思想ないです」
「素直だなぁ」
皮肉も通用しない。突き放しても口元で笑って流される。楠は、密かに深く深呼吸をした。
落ち着こう。今頃忙しさに叫び声をあげようとしては河合に宥められている店長のことを思えば、この感情も抑えられる。
そんな楠の内心など露知らず、アレサンドロは笑って口を開く。
「そうは言いますけど、楠さんも見知らぬ人のために動いてくれたではないですか。自身が看板の下敷きになる可能性だってあったのに」
だから楠にも立派な思想がある、とでも言いたいのだろうか。
脳内に、あの男性の長髪がよみがえる。正直あまり顔は覚えていないが、今この状況となっては、あの見知らぬ相手のことすら少し憎い。楠が勝手に助けたとはいえ、こんな厄介な者を呼び込みやがって。
とはいえ、あれは自己犠牲とか正義感とか、そんなものではない。
「あれは」
「あれは?」
「うちの店に、賠償とか請求されても困るから……」
「……えー」
ここにきて、初めてアレサンドロが少し言葉に詰まった。八の字の眉で肩を落とす彼の様子に、楠はそっと目線を落とす。
この通り、楠は利己的な人間なのだ。決して町のため人のために命を投げ出す真似なんてできない。
魔法で飛行できることは否定しないが、ギルドの一員としては向いていない。ようやくそのことを理解したのか、アレサンドロは一息つき、背凭れに身を預けるように力を抜いた。ギッ、とパイプ椅子が音を立てる。
「うーんなるほど……分かりました、今日のところは引き下がります」
「今日のところは」
「えぇ。とはいえ頻繁にはお伺いできませんがね。ギルドは日々魔獣を追っていますから。この町からもそろそろお暇する頃合いです」
「あぁ、それは……いつもご苦労様です」
「いえいえ。それが性分ですからね。なので、もしお気持ちが変わりましたら、ここにご連絡ください」
そう言うと、アレサンドロは名刺を差し出した。彼の名前と共に、電話番号と魔法陣が載せられている。
「そんなことありえないと思います」
「でも受け取ってくれるんですね」
「マナーってご存じですか?」
「それはもう」
この名刺、無くしたら本当にとんでもないことになるんだろうな。いや別にこの人のじゃなくてもとんでもないけれど。
一瞬頭に過った恐ろしい想像を振り払う。その間に、アレサンドロは改めて身なりを整えていた。今度こそ本当に帰ってくれるようだ。
お互いに立ち上がる。アレサンドロは外套を折りたたんで腕に乗せた。恐らくギルドのリーダーとしての正装だ。この季節のこの地域で外套を着こむのは、かなり暑いだろう。
すらりと伸びた背を追って見上げると、彼は相変わらず笑顔を浮かべていた。
「お忙しい中失礼いたしました」
本当に。とは言えない。
言葉を飲み込んで一言だけ返す。
「いえ」
アレサンドロは笑みを深める。そしてドアの方を見た。店の方だ。ホールからは離れた場所にあるから、ここからではあまり喧騒は聞こえない。
「お店の方、楠さんがいなくて困ってますかね」
「……そんなことはないですよ。私だってただの店員ですし」
「でも楠さんがいるだけで安心できる、って、店長さん仰ってましたよ。長く勤めてくれているから」
あの人は……。楠は心の中で大きくため息を吐いた。
今にもその古株が引き抜かれようとしているのに、呑気に褒めてくれちゃって。
「まぁ……でも、好きで働いてるだけです。それに、勤務歴が長いからって必ずしも店のためになってるとは限らないし」
勿論できる限り店の利益のことを考えてはいる。ただ、なにがどう繋がるか、全く予想もしない所に行くこともあった。例えば今の状況みたいに。
店の不利益を防ごうと思ったのに、その結果少ない店員の一人である自分が引き抜かれかけるなんて。風も桶屋もびっくりだ。
アレサンドロはそんな楠の様子を眺め、一つ頷いた。
「なるほど。楠さんは、このお店がお好きなのですね」
「……何が言いたいんですか?」
「いえ、別に」
目を細め、首を振る。そんな何かを見透かしたようなアレサンドロから目を逸らし、楠はドアを開けた。
もう二度と会うことはない背を見送る。もしその姿を見ることがあっても、それはテレビや紙面での話だろう。
彼らギルドのお陰で、町は平和である。
それに感謝はしている。ただ、自分がそこに加わることはない。
楠の腕は長くないのだから。