24
部屋の中は静寂に包まれていた。
今頃この飛行艇は勢いよく魔獣の元へ向かっているのだろう。だが、大きなシャッターと頑丈な機体に覆われたその艇内では、風の音一つしなかった。
楠はシャッターの前で膝を抱え床に座っていた。あまり座りたい床ではないが、贅沢は言っていられない。
その横でリュカは飛行バイクに跨っていた。陽動飛行隊隊長は先程無線で「いつでも行けるよ」と連絡をしていて、つまり今はリーダーの指示を待機する時間だった。
「シュガー?」
「なに」
言ってから、そっけない返事だったな、と、もう1人の自分が客観的な感想を述べる。
口に出すまでに言葉の精査ができなかった。さすがに緊張している。
せめても、と隣を仰ぎ見た。
リュカの表情は見えなかった。屈むようにして飛行バイクを触っている。
「もし少しでも危険だと思ったら、すぐに現場を離脱するんだ」
「逃げろって?」
「そうだね」
ここまで来てまだそんなことを言うのか。楠は何度も「逃げない」と言っているというのに、この男はなんとも話を聞かない奴だ。
自分のことを棚に上げて楠が言い返そうと口を開くより早く、リュカは二の句を継げた。
「もう飛ぶなとは言わないから」
「つい数秒前に、逃げろとか言ってなかった?」
「俺から逃げてほしい」
「は?」
「俺の動きが少しでも変だったら、すぐに逃げてほしい」
リュカの声音は固かった。
ちら、と一瞬リュカの目だけがこちらを見た。楠と目が合って、罰が悪そうに逸らされる。
一拍置いて、小さく深呼吸するような音がした。それからリュカは身体を起こす。
「俺の幸運がきみを不幸にする前に、逃げてほしいんだよ」
上体を上げた拍子にマントが揺れた。その上を長い髪が滑る。
リュカ曰く、そのマントも、髪も、この任務が終わった時には無くなっているかもしれないらしい。
同様に、リュカが任務を終えこの飛行艇に帰って来た時、そこに楠はいないかもしれない……らしい。
もっとも、楠自身に実感はない。
楠自身に実感のないことを、リュカは相当気にかけているようだった。
「ギルドのことを考えるときみが必要なんだ。でも、そのためにきみの命を犠牲にするわけにはいかない」
だから、とリュカが続けようとする前に、楠はわざと大きなため息を吐いた。
リュカは驚いたように肩を震わせる。
「素直だなぁ」
「え、なに急に」
「それ言わなくてもよかったでしょ」
リュカはぽかんと口を半開きにしてこちらを見ていた。意味が分からないといった表情。ようやくきちんと目が合ったと思えばこんな顔だ、どうにもしまらない。
とはいえそれがリュカらしい。
「そもそも最初っから、あんたの幸運のことなんて言わなくてよかったんだよ。なにも知らせず、ただ私を利用した方がギルド的にもよかった」
「そんなこと」
「できないんでしょ。はい馬鹿正直。損するタイプ」
「そこまで?」
飛行魔法を扱える人物というのは、どうもギルドが強く求めている人材らしい。
だからギルド側からすれば、楠に任務を辞退させるメリットは一切ない。
任務そのものの注意事項さえ説明すれば、後は寧ろ楠を逃がさない様にするべきだった。おだてにおだてたり、高給だとか好待遇だとかを推したりして、何も知らせないまま任務に就かせればよかった。
例え相方にどんな事情があろうとも、それをわざわざ教えて楠を脅す必要なんて全くなかったのだ。
「そのくせ訓練で合格出すし。あんたが合格出さなかったら私今ここに居ないけどね」
「それはぁ……後から実は合格でしたとか、いやでしょ」
「そりゃいやだしゴネるし文句言うけど」
「ほら」
「でもあんたからしたら知ったことじゃないじゃん」
言う必要のないことを言って楠を飛ばせないようにしたがったと思えば、合格を出して楠が飛ぶ権利を与える。
矛盾している。だが気が付いてしまえば簡単だ。これらは矛盾しているようでしていなかった。全部リュカの人物像がそのまま出ていただけだった。
真面目、素直、馬鹿正直。
楠の中だけでも色々とリュカを形容する言葉は見つかるが、ここで言えることはただ1つ。
「あんた嘘吐けないね」
リュカはぱち、ぱちと瞬きをして、ゆっくり斜め上に視線を動かした。
「……思い出したんだけど」
「うん」
「それ、アレサンドロにも言われたことあるな」
「あぁ、レオーネさんのお墨付きならやっぱりそうなんだ」
リュカと旧知の仲であるアレサンドロが言うのなら間違いない。自分の見る目は正しかったようだ。
納得する楠に、リュカは不服そうな咳払いをした。
「シュガーとアレサンドロにも気が合う所があるんだね」
「みたいだね。意外にも」
「で、それとこれとは関係ないよね? 俺は逃げてほしいって言ったんだけど」
「あぁ、まぁ、任務に支障が出ない範囲でね」
そう答えると、リュカはまたもや目を丸くした。リュカは先程から楠の言葉1つ1つに驚いているようで、そんなつもりもない楠としては少し困る。
「そんな驚く?」
「いや、だってなんか……逃げないってずっと言ってたから」
「あのねぇ」
今度は楠が不服な表情をする番だった。じとり、とリュカを見上げる。
「私だって生きて帰ってくるつもりだけど」
リュカは一度口を開いた。なにかを言おうとして、声にならずに口を閉じる。そしてへたくそな笑顔を浮かべた。
「……そっか」
ピピ、という電子音が聞こえた。耳元の無線機からアレサンドロの声がする。
「ポイントに着いた。対象確認。陽動飛行隊、出れるか」
「いつでも行けるよ」
リュカが返事をする。楠はゆっくり立ち上がった。一度屈伸して、背筋を伸ばす。
シャッターが少しずつ、少しずつ、上がっていく。その隙間から室内灯とは比べ物にならない強烈な光が差し込んできた。自然と目を眇める。眩しい。
「ゴーグル下ろして」
隣からの言葉に、そういえば、と思い出した。
慣れない飛行用ヘルメットに手を伸ばし、手探りでそこに鎮座していたゴーグルを掴む。後頭部で固定して、目元にグラス部を引き下ろした。グラス越しの視界はまだなんとなく違和感が残る。
そうこうしている間に、シャッターは一際大きな音を立てた。どうやら開ききったようだ。楠は改めて前を見る。
青。
一面の青。
そこに広がっていたのは、澄んだ青い空だった。
はっ、と息を吐いた瞬間、バタバタバタッと激しく布がたなびく音が聞こえだした。吹き荒ぶ風によってリュカのマントが踊らされている音だった。
「怖気づいた?」
呆然と目の前の光景を見つめていた所に、リュカの静かな声がかかる。
「……分かってたつもりだけど、思ったより高い」
「そりゃそうだよ。高度1500メートルだからね」
1500メートル。
これまで楠が飛んだことのある場所の中で、一番高かったのが店の天井だ。高さは正確には分からないけれど、多分2メートルから3メートルくらい。それから審査で飛んだのが、大体ビルの屋上くらいまで。ここまで上がったのに太陽はまだ遠いなと感じた。
それらと比較すると1500メートルとは果てしない数字だ。大きすぎて、逆に実感が湧かない。
「あれは?」
ふと、青い世界の果てに何かが見えた。
黒い点。動いている? 僅かに揺れているように見える。それを指差して、隣のリュカを見上げた。
リュカはまっすぐにそれを見ていた。
「魔獣だよ」
「え」
視線を戻す。それは先程までより明らかに大きくなっていた。魔獣ということはつまり生きていて、近付いてきている。
黒い点だと思ったそれの輪郭が次第にハッキリとしてきた。
それは鳥だった。
黒々としたそれが、腕のような羽を大きく羽ばたかせる。上下左右に激しく蛇行しながら、それは確かにこちらへ向かってきていた。
あれが魔獣。
楠達は今からあれと追いかけっこをする。
「怖気づいたでしょ」
確信めいたようにリュカが言った。楠は応える。
「まぁ、うん」
風の音に紛れ、息をのむような音が聞こえた。
やはり伝聞やイメージだけでは何もわからない。実経験に勝るものはないな、と思う。
これまでたくさん生態を聞かされたり、動きをイメージしたドローンで特訓を重ねたりしてきた。それでもいざこうして本物の魔獣を目にした今、それらとは比べ物にならない圧を感じる。
正直なところ、怖い。
「シュガーがまさかそんなこと言うなんて思わなかったな」
「怖いものは怖いよ」
無意識のうちに呼吸が浅くなっていた。意識して、ゆっくり息を吐く。
「でも、そのくらいが丁度良いでしょ」
そう言うと、リュカは少し沈黙した。構わず楠は続ける。
「怖がってるくらいが、ちゃんと油断せず動けるものだしね」
「……そうだね」
気が付けば、魔獣との距離はぐんぐん近づいていた。もう明確にその形が分かる。
楠がチラリと隣を見やると、リュカは一つ、小さく頷く。
「そろそろ行こうか」
頷き返し、楠は両のふくらはぎを軽く叩いた。
大丈夫だ、飛べる。自分はこれから空を飛ぶ。
その傍ら、リュカは自身のバイクをそっと撫でた。
「どうかよろしく、ハニー」
そう囁き、リュカはアクセルを回す。彼に応えるかのように、バイクが元気に唸りを上げた。
トン。一度爪先で床を蹴る。小さくジャンプ。
「陽動飛行隊、出ます」
二、三度吠えたバイクと共にリュカが開けたシャッターの方へ走り出す。
トン。跳んだ爪先が下りる。ペタ、と片足の裏が床について、そこに意識が集中する。
(とぶ)
蹴り上げた勢いで楠が飛び出す。同時にバイクが空へと放り出されていった。




