2
「全部俺が悪いよ。考え込んで、ドアを開けてもらったことにも、連れてってもらったことにも気付かない俺が悪い。でも、もう少しだけ早く気付かせてくれても、さぁ……」
「いやぁ、邪魔しちゃ悪いかなと思ってさ。あと、気付いてきょろきょろしてんのが面白かった」
「店員さんに変な目で見られた」
「気にして無さそうだったけど? リュカは見てなかったと思うけど、僕らが入ってきた時からずっと変わらない態度だったよ」
パラソルの影が落ちている。それが余計にリュカの顔色を悪く見せていた。
アイスティーのグラスを握り、弱々しくアレサンドロを睨みつける。責める立場にないことは重々承知だ。しかしこの友人はどうにもこういう所がある。世話を焼いているように見せかけて実は自分が楽しんでいるような、そんな所だ。
当の本人は片手でハンバーガーを掴み、豪快に齧りついていた。零れそうなチーズを物ともしない。そのまま大きく開けた口で、どんどんハンバーガーを飲み込んでいく。激しいようでいて音もない食事風景は、飲み込んでいる、という表現が比喩ではないような気すらした。
気が付けば彼のハンバーガーはすっかり片付けられ、指についたチーズを名残惜し気にナプキンで拭いていた。気持ちの良い食べっぷりに毒気を抜かれ、少しリュカの肩の力が抜ける。食欲もつられて湧いてきた。フォークとナイフは無いので、少し上からハンバーガーを押さえつけてやる。
「さて、この後行きたいとことかあるか?」
「俺は別に。この間日用品とかは買い足したし……」
「じゃあ一回戻るか。予測班の様子を見に行きたい」
「了解」
頷くと、アレサンドロも頷き返す。そして、水を取ってくる、と一言告げ、席を立った。
残されたリュカは息を吐く。ゆるやかな時間が流れていた。
先日まで少し大変だったのも含めて、この穏やかな日よりが実に心地よい。折角の休日だ。今だけはこうして、程よい喧噪と日差しの下に身を委ねるのも良いだろう。
と、思っていたのも束の間のことだった。
突如、町中にサイレンが鳴り響く。
「なっ……!?」
食べかけのハンバーガーがプレートの上に落ちる。崩れてしまったそれにチクリと心が痛むも、誰かの悲鳴に意識が持っていかれた。
先程までの穏やかな空気は一変した。周囲の人々は皆、困惑と焦燥に駆られた様子で立ちすくんでいる。
その様子からして、彼らがこの事象に慣れていないのが分かる。事前情報によると、この地域に以前このようなことが起こったのはもう数十年も前のことらしい。
そこまで考えて、頭を振る。
今すべきは人々の安全確保だ。きっと店内はアレサンドロが指示を出している。自分は外の人々をできる限り誘導するべきだろう。
「落ち着いて、外は危険です!」
声をあげながら、大通りに出ようとしている人を制していく。
しかし如何せんこの混乱の中、指示が通りにくい。多少無理な体勢に身体をねじりつつ、人混みに逆らうようにしてテラスを移動していく。
風が強くなってきた。
パラソルが激しく揺れ、それに共鳴するようにガタガタと建物が叫ぶ。デッキの木が、耐えられないと言わんばかりにギィギィ鳴っていた。
入り口付近は更に人が多く、店内に入ろうとする人と、出ようとする人がごった返している。
ふと、駆動音が耳についた。
周りを見渡す。この店の窓にシャッターが下りていくのが見えた。
対策済みの施設!
この地域で公共施設以外に対策を施している建物があるとは思わなかった。驚きと感心を覚えつつ、それならばと声を張り上げた。
「お店の中へ! 外より安全です!」
シャッターを指しながらの誘導で、少しずつ人の流れが出来ていく。リュカはそれを邪魔しない様に導線の横、デッキの方へずれた。
その避難導線から外れようとする人を見つけ、声をかけようとした時のことだった。
視界に影が差し掛かる。顔を挙げれば、傾いた看板がその身をリュカの上に落そうとしていた。
一際大きな叫び声があがる。咄嗟に周囲を見た。
看板の下になりそうな位置に他の人はいない。
なら良い。
なんとかなる。
そして、どうなっても良いように力を抜いた。
「あぶな、い……!」
ぐい、と、決して強くはない力で、身体が引き寄せられた。生じる僅かな浮遊感。
瞬間、ドォン、という鈍い音と共に地面が震えた。
……これは、想定とは違う。
何が起こったか分からない。
何度か瞬きをして見下ろすと、目の前に看板が生えていた。落下してきた看板がデッキに突き刺さり、穴を開けたようだった。
「……」
「お客様」
呆然と立ちすくむリュカに声がかかった。
ぼんやりした意識のまま声の方向を見る。
ダイナーなエプロンを纏った女性が、こちらを見ていた。
「手荒な真似をしてしまい申し訳ございません。ですが、うちの店で怪我人を出すわけにはいきませんので」
無表情に女性はそう言い切る。そこで気付く。リュカの踵は地面から浮いていた。
自分で爪先立ちをしているわけではない。身体は完全に脱力している。
少しずつ意識がはっきりしてきた。なにか、腰に感触がある。なにかが腰に回されている。
人の腕?
まさか。だって、今自分の一番近くに居るのは。
目を見開く。
そのまさかだった。リュカを支えているのは、目の前の彼女の細腕だ。
女性はリュカをふわりと近くの地面に降ろす。その顔に覚えがあった。
(さっき、の)
注文を繰り返すその声と、自分に呼び掛けた声が重なる。
注文を取っていた店員。
(……あれ)
ふと気が付く。
この店員は、カウンター、つまりは店内にいたはずだ。それなのに、この人混みの中、どうやってあの瞬間に、ここへ?
落ちようとする看板を見て飛び出してきた、にしても早すぎる。人の足で走るのでは決して間に合わないだろう。
そんなことが可能なのは、あれしかない。
「では、避難なさってくださいね」
あっ、という間もなく。
彼女は飛び散った木片にまみれた地面を一度、爪先で叩いた。
そして。
「飛んだ」
店員は舞い上がった。
リュカの身長は低くない。少なくとも、この人混みの中でも容易に見つけ出せるくらいにはリュカは背丈がある。
そんなリュカの頭より高く、彼女は飛び上がった。そのまま上体を倒し、空中を滑るように移動して人の渦の中へ飛び込んでいく。そうして気が付けば、店員の姿は店内に消えていった。
リュカは暫く呆然とその場に立っていた。見えなくなったその影を探すように、視線が逸らせない。
「リュカ!」
その店内からアレサンドロが駆けてくる。心ここにあらずな様子のリュカに、アレサンドロは先程より大きな声で再び名前を呼ぶ。
「リュカ! リュカ・シモン! ……行けるか」
「……うん、ごめん。行こう。避難誘導は」
「あらかた済んだ。指示も出してある。他の場所はうちから連絡が行ってる」
アレサンドロはすっかり指導者の顔をしていた。ジャケットから一枚の紙を取り出し、足元に投げる。尖った靴先が紙を地面に縫い付けた瞬間、紙に描かれた記号が光を放ちだした。
アレサンドロを中心に空間がぐにゃりと歪む。リュカはその中に入り、店を振り返った。
すっかりシャッターを閉め終わった店がある。そのデッキに刺さった看板が、先程の出来事が現実だと言っていた。
「そうだ、リュカ」
「なに?」
「大収穫だ」
空間の歪みが戻っていく。
気が付けば室内にいた。
隊服に身を包んだ女性がこちらに気が付き駆け寄ってくる。
「リーダー! シモン隊長!」
アレサンドロは女性に向き直り歩き出した。
待って、と呼び止めようとして止めた。物事には優先順位があるもので、リュカの言いたいことは少なくとも、この場においては後回しにするべきものだった。
口を閉じて彼らの後に続く。
「オルテンシア。状況は」
「対象は海上で発生。現在陸地に向かって進行中です。住民の避難指示は出したのですが、危険予想区域に残っている人々が見られます」
連れ立って廊下を速足で進む。報告を受け、アレサンドロがその細眉をひそめた。
「まぁ、ここ暫く発生してないとな……」
「問題ないよ。俺が引き離せばいいでしょ」
さらりと言うリュカに、アレサンドロはこちらを見た。
様々な情報が彼の頭の中を回っているのが分かる。
それも一瞬だった。アレサンドロは一度目を閉じて、すぐに開く。
「頼んだ」
「了解」
短く答え、リュカは廊下の分岐を曲がった。
「間に合うなら、ここで収める」
「間に合わせられます!」
「あぁ頼りにしてるよオルテンシア」
分岐を直進する2人のやり取りを背に、リュカは廊下を進む。
そして一つのドアを開いた。
正面には大きなシャッター。左右の壁には勝負道具。
あまり時間をかけてはいられない。上着を脱いで、隊服を羽織る。肩の装飾にマントを纏わせて、ヘルメットをかぶった。
最後に背負うものを背負ってシャッターの前へ向かう。そこではリュカの相棒が、今か今かと出番を待ち構えていた。
相棒の体をするりと指先で撫でていく。細かい傷が残るその身に息を吐いていると、ピピ、という電波音の後に、耳元の無線機から声がした。
「いつでも行けるよ」
返事をする。
シャッターが少しずつ、少しずつ、上がっていく。ごうごうという風の音と共に、マントがバタバタ翻る。
青い海。
青い空。
その水平線の先から、何かがこちらに向かってくる。
それは鳥だった。大きな大きな鳥。
黒々としたソレが、腕のような羽を大きく羽ばたかせる。上下左右に激しく蛇行しながらも、ソレは確かにこちらへ向かってきていた。
リュカはヘルメットからゴーグルを下ろし、ベルトを止める。そして、相棒であるバイクに跨った。
「よろしくハニー。無茶させてごめん」
囁いてアクセルを回す。リュカに応えるかのように、バイクが元気に唸りを上げる。
「陽動飛行隊、出ます」
二、三度吠えたバイクを繰って、開けたシャッターの方へ走り出す。リュカを乗せたバイクは真っ直ぐ空中へ。
放り出されたリュカとバイクはそのままふわりと浮き上がった。一面の青い道を真っ直ぐ駆け抜けていく。
リュカはハンドルを握り直した。
さぁ、行けるところまで行こう。
海上でぶつかる。