10
「シュガー」
「は?」
突然リュカの口からそんな甘ったるい名前が飛び出てきたのは、飛行バイク初乗車の日のことだった。
「おはようシュガー。良い飛行日和だね」
「……あの」
にこやかに挨拶するリュカの傍には別に甘いお菓子なんてものは無い。シュガーポットが用意されていることもないし、教習所の空中コースにいるのはリュカと楠だけだ。
それならば、やはりこの不可解な言葉は楠に向けられたものだろう。
楠はこめかみを抑える。そして静止の意味を込め掌を彼に向けた。
「それ、私のこと?」
「それ?」
「しゅがーとかいう、その」
「あぁ勿論」
「……どうして?」
「バディだからね。俺は自分の身内にはとことん甘いんだよ」
「物理的に甘いのか……」
そういえばこの男、自分の愛車に「ハニー」などと呼びかけていた。あれ、もしかして恋人ではなく蜂蜜の意味だったのだろうか。
なにはともあれ、こんな呼ばれ方を一々されていては敵わない。二、三度咳払いをして、はっきり告げる。
「やめてもらっても」
「どうして?」
「どうして……?」
分からない、とリュカが首を傾げた。それこそ分からない。リュカと鏡合わせに、楠の首が傾く。
「俺らはバディだから、堅苦しいのはやめようって言い合ったよね」
「それはそうだけど」
「だから愛称で呼ぼうと思って。シュガー、良いと思うんだけど」
「砂糖要素どこにもないでしょ」
「じゃあスウィートチョコレート。これならどう?」
「うわっ」
甘い名と反対に楠の表情は苦々しい。スウィートチョコレート。考え得る限り最も悪化した。略して最悪。長いし、本名にかすりもしてないし、かゆいし、長い。
「まぁまぁコードネームだと思って」
「なんでこっちが譲歩するみたいになってるんだ……」
そうしてリュカに押し切られ今に至る。
何度やり取りを繰り返してもリュカは楠をシュガーと呼び続けた。飛行バイクも思ったようにいかないし、こいつも思ったようにいかない。楠のため息は止まらない。
こんな所でいつまでも止まっていられないのに。
「シ……リュカ」
「はいはい、なに?」
「魔獣は、まだ大丈夫なの」
今日も天気が良い。空に浮かび上がった時に見えた景色は絶景だった。
だがその先には災いがある。今にもこの空の先のどこか、それもこの近くで、魔獣が発生するかもしれないのだ。
空からリュカに視線を移す。彼は何か言いたげに楠を見ていたが、視線が合うと、すっ、とその色を消しにこやかに微笑んだ。
「出現予測班が昼夜頑張ってくれてるよ。今朝の結果では、まだ出現の兆しはないって」
「探しに行くことはできないの?」
「言ったでしょ、まだ出現の兆しはない。それに今の持ち場があるんだ」
出現予測班。持ち場。あまり理解できたわけではないが、楠にとってはそれで構わない。大事なのは、まだ猶予があるということだけだ。
「もし、免許を取る前に魔獣が来たら?」
あとこれも大事だ。正直明日にでも魔獣が出現し町に来てしまったら、楠の免許は到底間に合わない。何か別の方法を考える必要があるだろう。
飛行バイクから降り尋ねる楠に、リュカはさらっと答えた。
「そうしたらシュガーはお留守番だ」
「はぁ~?」
眉間にしわを寄せリュカを見る。不満を隠さない楠の態度にも臆さず、リュカは肩をすくめた。
「志願してもらっているのに悪いね。まぁ俺に任せて」
そのすかした態度に楠の皺が増える。一度息を吐いて、飛行バイクに横向きに座った。
「自分で飛ぶんじゃだめなわけ?」
楠があのアレサンドロに目をつけられたのも、リュカを飛行魔法で助けたからだ。つまり、楠の飛行魔法はある程度の評価を得ている。らしい。
ならば免許が取れずとも、最悪自分で飛んでしまえば良いのではないだろうか。こんな思ったようにいかない乗り物より、自分の方がよほど信頼できる。
「飛行バイクくらい速度が出るなら。どう?」
リュカはそんな楠の顔を覗き込むように首を傾げた。
楠は陸上ではきちんとバイクで走ることができる。自分のキックボードとは比べ物にならない速度だった。あれと同じか、それ以上の速さで、それも高度を出して空を飛ぶことができるのかと言われると。
「……やったことない」
できないのではない。やったことがないから分からないだけだ。ただ、さり気なく目を逸らした。
「流石に短期間ですぐにバイク並みの速度を出せる人間は居ないんじゃないかと思ってるけど。まぁ俺は飛行魔法が使えるわけじゃないから、イメージでしかないけどね」
「え」
その言葉に、まじまじとリュカを見た。
だってそれは、楠の認識とは違う。
「そうなの?」
「そうだよ。あぁ、言ってなかったね」
なんてことないようにリュカは言うが、楠には流せる事ではない。
楠は飛行魔法を買われて勧誘を受けたのに、その部隊の隊長が飛行魔法を使えない?
もの言いたげな楠の視線に気が付き、リュカは苦笑した。
「そもそも俺は魔法音痴なんだよ」
「なのにこんな部隊の、隊長?」
「うん。頼りない?」
笑ってリュカは尋ねる。楠は口ごもった。
「ここまでやってきて、その実績があるんでしょ。だから頼りないとか、そういうことじゃなくて……」
社会を生きるうえで、魔法音痴だろうが別に困ることはない。
せいぜい学校の授業が憂鬱な程度だ。大人になってしまえばすっかり魔法を使う機会が無くなった、という人も多いだろう。それこそ楠は、河合や店長が魔法を使う所を見たことが無い。
ただ何事にも例外はある。その一つがギルドのメンバーだ。
「レオーネさんが、言ってたから。ギルドは魔法使いの集まりだって」
魔力で暴走する獣に対抗できるのは、魔力を上手く扱える魔法使い。至ってシンプルなことだ。
だからこそ、そのギルドの、しかも最前線に立つ部隊に魔法音痴のリュカが配属されているというのには、どこか違和感がある。
「あぁ……あ、待って、アレサンドロは悪くないよ。寧ろ、彼は各隊員に一番合った部隊を選んで配属してる」
「あなたに一番合った部隊がここ?」
「そう」
得心が行かない。そんな楠の表情に、リュカはにやりと口角を上げた。
「言ったでしょ? 俺はものすごく運が良いんだって」
確かに言っていたし、それに助けられてきたのだろうとも思っていた。
「でも魔法音痴だとは言ってなかった」
「みたいだね。大体説明したと思ってたけど、足りてなかったか。あぁでも、こんなの任務内容とは関係ないし」
なら説明不足ではなかったね、と呟くリュカを、楠は信じられない気持ちで見上げていた。
だってリュカが言ったのだ。十分な能力が無いと任せられない、と。
確かにリュカの飛行バイク捌きはかなりの物だ。洗練された無駄のない飛行。どこに出しても恥ずかしくないお手本のような飛行だった。
が、それはそれとして。
飛行魔法を使えないどころか魔法音痴であるというリュカの主張は、どうしても信じられなかった。
それを信じるのなら、リュカはこれまでの死線を全て自身のドライビングテクニックとその運だけで潜ってきたことになる。天災と呼ばれ恐れられている魔獣との戦いを、全て。
「えぇー……」
「えっ、なに?」
「はぁー、いや、あー……」
「なに、なに? え、シュガー? ちょ、急にどうしたの? なんで上から下まで俺のこと観察してるの!? ちょっと!?」
襟を正したり髪を触ったりと慌てるリュカを、楠はただ、しげしげと見つめていた。




