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見上げれば青い空の中、雲に紛れるように、黒い点が浮かんでいた。
鳥だ。名前は分からない。一つ羽ばたく。目的方向へ舵を切ったようだ。
「リュカ」
ひんやりとした空気と共に名前を呼ばれる。ビル群をなぞるように視線を下ろし振り返った。
自動ドアを背にした友人は笑っているものの眉が下がっている。結果は芳しくなかったのだろう。
「待たせてごめん。暑かったろ」
「いや。日陰だしそんなに。どうだった?」
友人の顔を覗き込むように首を傾ける。案の定、友人は首を左右に振った。
「駄目だな。思い当たる節はないらしい」
「あったとしても、話してないとか」
「そうかも。まぁ、プライバシーもあるから」
友人は肩をすくめてみせる。すぐに結果が出ないことに慣れているのだ。リュカはそんな友人の姿を何度も見てきた。
「ちゃんと身分証明とかしてる? アレサンドロ・レオーネ、ってちゃんと名乗った?」
冗談めかして言いながら、友人、アレサンドロの胸元を指の背で叩く。普段ならそこには彼の身分を示すバッジが燦然と輝いている。しかし今日の彼は、至ってラフなジャケットを羽織っていた。この姿では、彼がかのアレサンドロ・レオーネだと分かる人物は少ないかもしれない。
「そんな威圧的にいきたいわけじゃないの。知ってて言ってるだろ」
「ごめんごめん」
リュカの軽い謝罪に、アレサンドロはわざとらしく肩をすくめた。
一際大きな風が吹く。思わず目を細める。リュカの首元で括った髪が激しく流された。それを横目で見ていたアレサンドロが、「おお」と楽しそうに声をあげる。
「ほうき星」
「この間は馬の尻尾って言ってなかった……?」
「時と場合による。この間はよく晴れてたから、ポニーの尻尾みたいな良い黄金色だった」
風がおさまり、荒らされた髪だけが残された。肩口から前に飛び出てきた髪の束を、乱雑に背後へ掃う。
「それにしても伸びたなぁ、髪」
「今回は伸びてるねー……」
「良いことだよ。そのまま伸ばしていけ」
曖昧に笑い返す。
アレサンドロが歩き出し、日差しを手で避けながら上空を見た。ゆったりとした速度で雲が流れていく。
「……よし。ランチにしよう。さっきいい店を聞いたんだ」
鳥はどこかへ行っていた。
街路樹の下、木陰を選んで歩く。大通り沿いにその店は存在した。
歩道に面するようにウッドデッキのテラスが見える。パラソルの付いたテーブル席が複数、無規則に並んでいた。
ドリンク片手の若い2人組、端末を忙しなく操作するスーツを着た人物、読書中の老人……どうやら幅広い客層に愛される店のようだ。
「カフェ、かな? 珍しいね、きみがランチを選ぶときって、大体ジャンクフードなのに」
「そう思う? ここのハンバーガーが美味いんだってよ」
「あぁ、いつものアレサンドロだった」
店の正面に回ると、ドアに続く段差がある。縁がプランターになっているようで、恐らく季節のものであろう小さな花が植えられていた。名前はなんだったか、と、花を見ながらリュカが足を踏み出す。
次の瞬間、そのつま先が段差に引っかかる。
「わ、と、と」
段差はそこまで高いというわけでもない。人前で派手に頭から転ぶということもなく、咄嗟にもう片足を前に出すことで踏ん張りをきかせた。
ふう。一息。後ろで、ぶぅん、と何かの羽音がした。
「おいおい、なにがあった?」
前を歩いていたアレサンドロが振り返る。
中途半端に腰を屈めたリュカとアレサンドロの目が合う。アレサンドロはなんてことないような表情をしているが、リュカには誤魔化せない。一瞬吹き出しそうになっていた。
ジトリ、と非難するような目線を向けてやると、彼はわざとらしく視線を逸らした。
リュカは小さく笑い体を起こす。視線を彷徨わせれば、プランターの花の上、ハチが飛んでいるのが見えた。
「ちょっと……つまずいて。ハチがいたみたい」
「ハチ? ……あぁ、なるほど。刺されたことあるんだな」
「かなり小さい時に」
必要もないほど慎重に、段差に足をのせていく。
ハチに刺されて泣き喚いたことは覚えている。しかしそれがどのくらいの年頃の話だったかは分からない。自分でも思い出せないくらいの昔ということは、学校に通い出すより前だろうか。
あぁ、もう少しで思い出せそうな気がする。
リュカがそんな風に記憶を探っていると、ふとなにかに肩を叩かれた。
横に顔を向ける。アレサンドロが、器用に片方の口角をあげてこちらを見ていた。
「あ、ごめん、なに?」
「ご注文はお決まりですか」
想定していなかったところから、想定していなかった声がかかる。
前方。女性がリュカを見つめている。目線を下げると、カウンターに洒落たメニュー表が置かれていた。
ここは、注文カウンター?
そこまで理解して、ようやく自分の背に手が添えられていることに気が付いた。アレサンドロが、考え込んでぼうっとしていたリュカをここまで導いてきたらしい。
「ハンバーガープレートAと、ドリンクはこれでお願いします」
横で注文を進めるアレサンドロに、慌ててメニュー表を確認する。
カフェかと思っていたが、しっかりとした食事のメニューも少なくない。カフェレストラン、と言った方が近いのかもしれなかった。
しかし、今特にこれが食べたいというものもなく、先にメニューを確認しておけばよかったと後悔した。自分たちの後ろに客は並んでいないが、この店員を待たせてしまうのが申し訳ない。
「じゃ、あ、ハンバーガープレートの、Bで。ドリンクは同じ、これにします」
結局、アレサンドロとほぼ同じ注文に落ち着いた。
「ご注文、繰り返します」
店員が流れるように自分たちの注文を確認する。ちらりと視線をやって様子を伺ってみたが、店員は見事なポーカーフェイスを見せている。それがありがたくもあり、不安でもあった。