物語の終わった物語りの魔女
「魔女様、魔女様こんにちは!」
トントントン、と少女が扉を叩きながら声をかける。
ここはとある国のとある森。
人間の家七個分はあろうかという高さの大樹の根元に、少女と狩人が訪れていた。
目の前には赤い木の扉。この奥は木の洞となっており、中には魔女が住んでいるのだ。二人はその魔女に会うために、はるばるここまでやってきた。
「あれえ? 出てこないねえ。お父さん、魔女様まだ寝てるのかなあ?」
少女が背後の狩人を振り返って尋ねる。
狩人は自分の娘の頭を撫でてやりながら寂しそうに笑った。
「いや、そうじゃない。魔女様は……」
数日前に村の男が一人、この場所を訪れた。
畑の作物がうまく作れますようにとの願いを叶えに。
いままでは魔女が人々の願いを叶える代わりに、食べ物や日用品を交換するという交流が行われてきた。
しかし、いったい何が起きたのか、突然「申し訳ないがもうこのようなことはできない」と断られてしまった。以来、誰が行っても同じ対応をされるようになってしまった。
村人たちは口々に噂した。
きっとなにか我々が粗相をしてしまったのだ――。
いや、きっと魔法が使えなくなってしまったのだ――。
いや、きっとどこかへ引っ越す予定なのだ――。
なにが理由かは全くわからなかった。けれども、実際に訪れてみて感じたことは「明確な拒絶」である。
前は戸を叩いたらすぐに出てきてくれた。
それが、今は返答すらしない。
大人ではなく、あるいは子供であれば、少しは反応が違ってくるかと思い娘を連れてきてはみたが……それも空振りに終わってしまった、と狩人は思った。
「魔女様……会いたいよ。わたしね、この前風邪を引いたお母さんに薬草を見つけてあげたんだよ! それがよく効いたから、魔女様にも少し分けてあげたくてここに来たの。ただあげるだけじゃ魔女様は受け取らないから、代わりにわたしに素敵な未来の物語を聞かせて。そう、「わたしが将来すばらしい薬師になる」っていう物語を。ねえ、魔女様!」
あきらめずに少女は扉に向かって声をかけ続ける。
その甲斐あってか、しばらくして奥から人の気配がしだした。四角い羽目殺しの小さなすりガラスの奥に黒い人影が写る。
「わっ、魔女様!」
少女は思わず歓喜の声をあげた。
しかし、扉の奥からは失意にまみれたかのようなか細い女の声がする。
「ごめんなさい……帰って。もう誰とも会いたくないの」
「そんな……」
少女は落ち込んだが、すぐに顔を上げた。
「どうして? 元気がないのは風邪を引いてるからなの? だったらほら、薬草を持ってきたよ。だからねえ、この扉を開けて!」
「ごめんなさい。どうしてもダメなの。もう私には、誰にも物語を語って聞かせることができない……」
「どうして」
「私の物語はもう終わってしまったの」
「どういうこと?」
「誰の物語も私に物語る資格は、もうないの。ごめんなさい」
「魔女様……? どういうこと、魔女様!」
どれだけ少女が声をかけても、その日、魔女の家の扉が開くことはなかった。その後、誰が訪れても、その扉が開くことはなかった。
1
小さな、とても小さな村だった。
家の数はおよそ十戸ほど。
それぞれの家の前に、それぞれの小さな畑が広がっている。それが、王都からはるか離れた寒村のアシリ村の姿だった。
青年がその村に足を踏み入れると、人々は顔を上げ、誰もかれもが珍しいものを見るような目で青年を見る。
「おいアンタ、何者だ。うちの村に何の用だ?」
屈強な男が突然青年の前に飛び出してきた。農夫だろうか。彼の手足は土で汚れ、額には汗が浮かんでいる。
周囲の村人たちは、心配そうに二人を眺めた。
「こんにちは。僕はロイド、吟遊詩人です。各地を回って旅をしています」
青年がにこやかに答えると、農夫は首を傾げた。
「ギンユウシジン? なんだそりゃ」
「音楽とともに物語を歌って聞かせる、そういう仕事ですよ。ご存じありませんか?」
農夫はますます理解しがたいといった顔をした。
青年はやれやれと肩をすくめてみせる。
彼の恰好はこのあたりではおよそ見たことのない突飛な服装だった。怪しい者だと疑われることも少なくない。
粗末な服の上に、色とりどりの細く裂いた布を、肩から鳥の羽のようにたくさんぶら下げていた。背が高く、幅広の帽子にも同じような布がたくさん縫い込まれている。小ぶりな弦楽器が、腹の前に来るように紐で斜めがけにもされていた。
王都でもこんな格好の者はそうそういない。
「物語、ねえ……。あいにくこの村では間に合ってる」
「へえ。そうですか。では面白い物語を教えてくださいませんか。僕は各地の珍しい話も集めて回っているのです」
「……」
農夫が言いよどんでいると、横から年老いた村人がやってきた。
「お前さん、もしかして《《物語りの魔女》》に会いに来たんじゃろう」
「村長!」
農夫はあわてて、言葉を制するように老人に近づいていく。
「何を……! 魔女様はもう誰にも会いたくないって。それなのに何を考えてるんですか!」
「まあまあ、この方もこの方なりに事情があるのかもしれんし、目的や対応次第ではかえって魔女様の気晴らしになるやもしれんぞ」
「こんな得体のしれないやつ、会わせようとするなんてどうかしてますよ……!」
青年は農夫と村長のやりとりを見つつ、折を見て口をはさんだ。
「物語りの魔女……。やはりこの村の近くに住んでいるんですね」
「お前さんやはり、それが目当てだったんじゃな?」
「はい。村長さん――とお見受けします。どうかその魔女様のいる場所を教えていただけませんか。僕は《《物語りの魔法》》を使う魔女様に、物語り方の真髄を知っているであろうその魔女様に会ってみたいのです」
「願いを、叶えてほしいわけではなく?」
「願い? いえ、僕は吟遊詩人。物語を物語る、その一点で興味があるだけです。あるとすれば……そうですね、その究極の物語り方を教えていただきたい、というくらいですか」
村長は農夫と顔を見合わせると、大きくうなづいた。
「よかろう。では途中まで案内をしようか。のう、お客人よ」
2
村長と農夫のふたりに案内されたのは、村の北側にある森の入り口だった。
奥にはうっそうとした木々がどこまでも続いている。
「このけもの道をまっすぐ行った先に魔女様の小屋がある。じゃが会ってくれるかどうかは誰にも保証できん。この村の人間でさえ、もう《《何年も》》交流を途絶えさせておるのじゃからな」
「何年も、ですか」
「ああ。よって、行っても無駄足になるかもしれん。それでもいいのなら……」
「あの、さっき魔女様はもう誰とも会おうとしていない、とをおっしゃっていましたが、それはいったいどういうわけなんですか」
「さあな。その理由は誰にも話してくれてねえんだ。拒絶されて、引きこもられて、それっきりよ」
「はあ……」
村長と農夫の話を大人しく聞いていた青年だったが、森の奥を一瞥すると、持っていた弦楽器をしっかりと抱えなおした。
「ここまで案内していただいただいたこと、深く感謝します。ですが、ここからは僕ひとりで」
「そうか。じゃあ、魔女様に失礼なことだけはするなよ!」
「はい、心得ました。では行ってまいります」
青年は頭を下げるとふたりに別れを告げて、森の奥へと入っていった。
誰も通らないからか、けもの道はあっというまに細くなっていく。
「このままでは迷ってしまいそうだな……」
青年は弦楽器を手にすると、『小鳥の調べ』という曲を奏ではじめた。
軽やかなメロディが風に乗って森に響いていく。すると、小鳥たちがさっそく数羽集まってきた。近くの梢に止まった鳥たちに青年は尋ねる。
「この先に物語りの魔女が住んでいるらしいのだけど、みんな、そこまで案内してくれないかな?」
小鳥たちはチチッと鳴き声をあげると、青年を先導するように飛んでいった。
追いかけながら青年は『小鳥の調べ』を奏でつづける。
やがて、大きな木が見えてきた。王都の城の高さほどはあるだろうか。その根元に赤い扉がある。あの中がきっと魔女の住処なのだろう。
青年は扉の前まで来ると演奏をやめ、声をかけた。
「こんにちは。どなたかいらっしゃいませんか?」
なんの反応もない。
青年は楽器の弦に指を添えると、別の曲を演奏しだした。
「肩にかかるは悲しみの、記憶つづった物語。頭に縫われ織り込むは、喜びつづった物語。忘れられない物語。忘れてしまう物語。風に乗ってどこまでも。歌にのせてどこまでも」
『吟遊詩跡』という曲を、音楽とともに朗々と歌い上げる。
歌いながら回り、踊る。踊りながら楽器を奏で、歌う。
そうしているうちにふと、背後に気配がした。いつのまにかあの赤い扉が開いていた。
真っ黒な長髪をたらし、真っ黒なドレスを着て、真っ黒な幅広の帽子をかぶった女がひとり、立っていた。魔女だった。
「私は《《物語りの魔女》》。うちに何か用?」
青年は楽器から手を離し、帽子を脱ぐと、深々とおじぎをした。
「僕は吟遊詩人のロイドと申します。物語りの魔女様、僕に、究極の物語り方について教えていただけませんか!」
「究極の、物語り方……?」
「はい。あなた様は《《物語りの魔法》》を扱う魔女であると、ある人から聞きました。僕も物語を人々に語って聞かせる生業をしております。ぜひ、ご教授いただきたい!」
「あなたの、願いを叶えたいわけではないの?」
「近くの村の村長さんからもそれを問われましたが……はい、あるとしたらその物語り方の神髄を教えていただきたい、ぐらいですかね」
「なにか勘違いをしているようだけれど……いいわ、入って吟遊詩人さん。たまには他人の――話や歌を聞くのもいいかもしれないわ」
歌と音楽が功を奏したのか、青年は魔女の家に入れてもらえることになった。
3
魔女の家の中は思った以上に広かった。
いくら巨大な木の中だとはいえ、青年は洞の中はそこまで広くないと思っていた。
しかし、大きなじゅうたんが二枚も敷かれ、中央には六人掛けはあろうかという大テーブルが鎮座し、奥には煮炊きのできる暖炉と、カーテンで仕切られた寝台があった。
外からは窓などひとつもなかったように見えたのに、なぜかいたるところに小窓がある。
壁にはさらにさまざまなものが飾られていた。きれいな色の鳥の羽、色んなかたちの鉱物、薬草、くぼみに収められた本の数々……。
「ハーブティーしかないけれど。どうぞ」
いつのまにか魔女は奥からティーポットを持ってきて、テーブルに二つのカップを並べていた。それぞれの白いカップに桃色の液体が注がれ、花のような香りがたちのぼる。
青年はちょうどのどが渇いていたので、ありがたくいただいた。
「ああ……。ああ、美味しい! こんな美味しいお茶、僕、初めて飲みました」
「そう」
青年がハーブティーの味を絶賛していると、なぜか魔女の顔がみるまに暗くなっていく。
「ど、どうかしました? 僕、なにか失礼なことを――」
「いいえ。少し、昔のことを思い出してしまって……」
「昔のこと?」
「……」
魔女は押し黙ったまま、さらに悲しそうな顔をする。今にも泣きだしてしまいそうだ。青年はあわてて立ち上がった。
「あ、あの! 僕は人々を楽しませるために、各地を回って、歌と音楽と物語とを届けてきました。ですから、その……何かお辛いことがあったのなら、僕の演奏を聞いてください。ぜひ!」
魔女は小さくうなづき、そうして青年の――吟遊詩人の、物語の幕が上がった。
砂漠の国の幻の魚の話。
雪の国に住む愉快な老人たちの話。
南の島の三角雲の伝説。
いたずら妖精と七人の泥棒の話。
それらの物話が、歌や音楽とともに披露される。
次の話へ、そのまた次の話へと進むたびに、魔女の顔は少しずつ明るくなっていった。
すべての演目が終わり、青年が踊るのをやめると、魔女は手を叩いて称賛する。
「すばらしかったわ。世界にはかくも不思議な物語があるのね」
「お褒めいただき光栄です」
「その話はすべて、本当の話なの?」
「そうですね。僕は各地を回って、面白い話を集めるのも生業としておりますので」
楽器をまた背負いなおし、ふたたびテーブルについた青年に、魔女は新たなお茶を注ぐ。
「そう。なら、私の物語も集めていく? 私のもう終わってしまった物語を」
「えっ?」
「四つもあなたは私に物語を語ってくれたわ。だからお礼をしてあげる。一つはこのお茶。だからあと三つは物語を」
「えっ、いや、僕は魔女様が喜んでくださればと思って演奏したのであって、そんな……」
「いいのよ。その気持ちが嬉しかったから。遠慮しないで。あなたの願い――究極の物語り方を教えることはできそうにないけれど……」
ふわっと花がほころぶように笑って、魔女は椅子から立ち上がる。
「では二つ目のお礼ね、私が何の魔女かを教えましょう」
魔女は帽子の右ふちを軽くなでて部屋の中を――暗闇に変えた。
青年の目の前にあったテーブルやカップやティーポッドがすべて闇の中に消えていく。
「私は物語りの魔女、正確には《《現実を私が語った物語どおりにすることができる》》魔女よ」
4
「夜空に星は瞬き、夜風が大地の草の上を吹き渡る」
魔女が口ずさむと、暗闇のはるか頭上に数多の星がきらめいた。
足元に柔らかな草が生え、どこからともなく涼しい風が吹いてくる。
「これは……!」
「これが《《物語りの魔法》》。さっきの家は、森の一番大きな木の洞の中にあったけれど、あれも私の魔法で作ったものだったの。本当はあんなに広くないのよ。でも魔法で広くしてあったの。この世界もそう。さっき以上のことを語っていないので、まだどこでもない場所」
「そんな……。あなたは神様かなにかですか? こんなことができるなんて」
「いいえ。神様なんかじゃないわ。その証拠に、この魔法は私が本気で信じてやらなければできない。さらに人間に対しては、私の物語を直接聞いた人でなければ魔法がかからないの」
「それで人々に……」
「そう」
次に魔女は帽子の左ふちを軽くなでた。
するとあっという間に世界は明るくなり、先ほどまでの魔女の家の中に戻る。
「最初は人に対してどのくらい効果があるのか試したかったの。それで、美しくなりたい人には「少しずつ美しくなっていく物語」を。力の弱さに悩んでた人には「力をつけて強くなっていく物語」を。死を恐れる病人には「苦しみのない死を迎える物語」を語って聞かせてあげた。そしたら、その通りになって……お礼に食べ物やお金、衣服をくれるようになったわ。やがて私は願いを叶える物語をくれる――《《物語りの魔女》》としてありがたがられるようになった」
「そこから、近くの村との交流が始まったんですね」
「ええ。でも、なんでもは叶えなかったわ。なぜなら私が本気でそれを想像できないとダメだったから。無理なお願いは、私の機嫌を損ねるってことでだんだんむこうもしなくなった。そうして、適度な距離感で付き合ってきたのよ」
「それなのに、どうして突然……」
「それは、《《私の終わってしまった物語》》が関係しているわ。それを三つ目のお礼にしましょう」
魔女は椅子に座ると、自分のカップに桃色のハーブティーを注いだ。
「あれはもう十年も前の話。この森に、ある一人の男性がやってきたの。その人は森の魔物を狩り、動物を狩り、自らの身体を鍛えるために何度も何度もこの森にやってきた。私はそれをだいぶ後から知ったわ。ある時、血まみれのその人があの赤い扉を叩いたの。私は彼に「すべての傷が治る物語」を語って聞かせた……。それからよ、彼が狩りの後に必ずここへも寄るようになったのは」
「その人って」
「あなたももしかしたら知っている人かもしれないわね。その人は、今や一国の王となっている。とうてい私なんかが、関わっていいような人じゃなかった……」
青年は、この国の国王であるカイゼル王を思い出した。
数年前に前王と兄が相次いで崩御し、急遽即位した、まだ若き王だ。
「《《あの日》》が訪れるまで、あの人は何度もここにやってきたわ。傷を負っていたのは最初だけだった。たいした用もないのにふらっと来ては、お茶を飲みに来ただけだとか、面白い本があるからこれを君に貸しに来たとか、素敵な鳥の羽を見つけただとか、なにかしら理由をつけてここに長居をした。私になんの願いもかなえてもらわずに。そうして、私は少しずつ……あの人を特別に……」
魔女はそこまで話すと、深くうつむいてしまった。
カップの取っ手を握ったまま微動だにしない。
「そして、《《あの日》》が来たの……。狩りの後、いつものようにここへ来たあの人は、私に唐突に愛の言葉をささやいた。けれども私はあの人に、あの人の望む物語を語ってあげることができなかった……。もうその頃には、あの人がどういう人で、何を一番にしなきゃいけない人かがわかるようになっていたから。私はもうここに来てはいけないという《《呪いの物語》》をあの人に語って聞かせた。そして……」
青年は肩を震わせながら話す魔女の物語を、じっと聞いていた。
まさか、そんなことがこの場所で起きていたとは。魔女は息を乱しながら、たどたどしく言葉を続けている。
「あの人は、しばらくして国王となった。その戴冠式に、私は呼ばれていた。使いの者があの人の代わりにやってきて、親書を渡してきたけれど……私は、身分を理由に欠席すると伝えた。そして一年後……隣国の――」
隣国の姫と和睦のための政略結婚をした。その催しはたしか国を挙げて大体的に行われていたはずだ。
「前の戴冠式も、結婚式も……私は呼ばれていた。けれど……祝福の魔法はとても贈れなかった。私の他に、他の魔女も呼ばれていたというから……私は出なくてもいいと思った。そもそも本気であの人の幸せを願えなかったから、私の物語りの魔法に効果がないのはわかっていた。そんな魔法をかけて……幻滅されたくもなかった」
魔女のカップの中に、涙が数滴、相次いで落ちる。
国王は、本心ではこの魔女をどう思っていたのだろう。一時の恋だったのだろうか。魔女の心を弄んでいた? だから臆面もなく城に招待などできたのだろうか。
いや、そうではないと青年は強く思った。
「それで、誰にも物語りの魔法をかけられなくなったのですね……」
「ええ」
魔女はずっと、このことを話せなかった。村人にも、他の誰にも。今ここで青年に話してくれたことが奇跡のように思える。それくらい辛い出来事だったのだ。
「これが三つ目のお礼。四つ目は……」
「あのっ、もう無理に話さなくていいです! そんなに辛くなるなら――」
「いいの。きっともう、あなたくらいにしかこんなことを言い残せないから。聞いて?」
「でも……」
「じゃあ、ひとつだけ約束して。私の終わった物語、いつか誰かに話してもいいから、そのときは私とあの人が死んでからにしてほしいの」
「え?」
「あの人の耳に入ったりしたら恥ずかしいし。あの人の迷惑にもなりたくない。だから……」
「あの……それって」
「じゃあ、四つ目のお礼ね。これは《《恥ずかしい話》》」
5
魔女は少し顔を上げて、ハーブティーを口に運んだ。
その目はまだ、涙に濡れていたけれど表情はこころなしか晴れやかになっている。
「実は……誰にも物語りの魔法を使えなくなったけれど、人以外にはね、まだ使えているのよ、この魔法」
「えっ」
「さっきみたいにね。誰かに、使うんじゃなくてモノになら、まだ使えるの」
「それって……」
「これは私が、たまに王都に行っている、という話。この部屋をね、王都の一角に変えて移動してるの。壊れた橋を見つけたらこっそり直したり、嵐が来たら少し進路を変えてやったり、国に降りかかる災いが少しでも減るように、魔法を使っていた。あの人の姿を城に見たこともあったわ。でも、今はそれも気が向いたときだけになったわ。なぜなら私がそんなことをしなくても、王都は常に栄えているし、戦争はもう終わったし。それに……」
「それに?」
「王妃様にもようやく子供が産まれるみたいだし」
そう言いながら、魔女はことさらに明るく笑ってみせた。
青年はそんな魔女の表情に、胸の奥が激しくきしむ。
言おうか、言ってしまおうか、しかし、それでは例の約束を破ってしまう。青年はある人物と交わした約束を思い出していた。
「私がなにもしなくても、世界は順調に回りつづける。だから、これですべてよ。私の物語はもうそれで全部、終わってしまったの」
「……」
青年は、何も言えなかった。
二人のハーブティーはすっかり冷めている。
「魔女様。辛いお話を語っていただいて……ありがとうございました。お約束します。この物語はあなた様と王様がこの世からいなくなるまでは誰にも語りません。ですが、ひとつだけ」
「何かしら」
「僕は物語を集めるときに、相手のもちものの一部をいただくようにしているんです。あなた様からもなにか小物でいいんです。布や、ボタンや、貝殻など、なにか大切にされているものを一つ譲っていただけませんか」
「大切にしているもの……」
魔女は壁を眺めると、鮮やかな鳥の羽を一つ取ってきた。
「これは古代鳥の尾羽よ。あの人が、私に似ているって……拾ってきてくれたの」
「黒い羽に七色の光沢……素敵ですね。本当にいいんですか?」
「ええ。大切だったけれど、もう悲しくなるだけのものだから」
「……」
青年は黙ってその羽を、みずからの帽子に差し込んだ。
「僕の帽子と肩には、こうしてたくさんの方々の大切な思い出が――物語がつまっています。僕はこれらをずっと背負いつづけて、遠くまで、どこまでもいつまでも物語を届けようとしています。《《これ》》も――まだ見ぬ誰かのための、大切な物語です」
青年はそう言って、肩から垂れる布の一つを手に取った。
それは金の糸で独特な模様がつけられた藍色の布だった。
「それは……」
「魔女様。覚えていますか? この布を」
「そんな、まさか……」
「カイゼル王に城でお会いしました。そして、彼からも物語を提供していただいたんです。あなた様との麗しい過去のお話を」
「ああ……!」
魔女はあわてて青年の足元にひざまずくと、その布を見て両手で顔を覆った。
「ああ、ああ……どうして! あの人は、なんて? なぜあなたにそんな話を? 王妃様がいるのに。どうやってあなたにそんな……」
「僕は世界中の珍しい話を知る吟遊詩人として、城に呼ばれました。ひとしきり皆様にご堪能いただいた後、王妃様を外して、僕と彼と二人きりになったときに」
「そのお話、聞かせて!」
「いいですよ」
「いえ、やっぱりいいわ。聞かない。あの人がどんな話をあなたにしたのか、怖くて聞けないわ。私の物語はもう終わっているの、だからもう……ああ……」
そう言いながら、魔女は愛しそうに金糸で彩られた藍色の布を撫でている。
青年はカイゼル王との約束を思い出した。
――アシリ村の近くの森に、物語りの魔女が住んでいる。その魔女にいま私が語った物語を届けてくれないか。そして、できたらその魔女の様子を伝えにまた城まで来てほしい――
さらに、もう一つ。
それは、決して破ってはいけない約束。
――魔女に会ったら、私がまだ彼女を愛しているということは絶対に悟られないようにしてくれ――
そんなことをすればまた彼女を苦しめてしまうから、と。
「王様は、僕に無理難題をお出しになられましたねえ」
青年は苦笑すると、足元でうずくまっている魔女を見下ろした。
「わかりました。ではもう、直接お話しになられたらいかがですか?」
「はっ? そんな、無理よ。もう私が、あの人に会うわけにいかないんだから!」
「そんなことありませんよ。たとえば……そうですね、僕に変装していったらいががです?」
「変装?」
「はい。僕になりすまして王様に会いに行けばいいんですよ。実は僕は、王様から森に住む物語りの魔女が今どうしているかを調べるよう命じられていましてね。その報告をしに、また登城しなくてはならないのです。その仕事がおっくうで……もし良かったらそれを魔女様にしていただけたら……助かるのですが」
「……」
魔女はとっさに断ろうと口を開いたが、あまりに魅力的な提案だったために迷っているようだった。
あとは魔女自身の選択にかかっている。
「あなたの物語はもう、本当に終わってしまったのですか?」
「私の物語は……」
魔女は黒い帽子の右ふちにそっと手をかけた。
その後、物語りの魔女がどうしたのか、その国の王様がどうなったのか、吟遊詩人の青年は語らない。
二人の物語が――約束が、この古代鳥の尾羽に宿っているから。
完