7 「始まりの話」
念のためのお知らせですが、今回のみ、まったく挿絵向きではない、大サイズの絵を末尾に置いています。 携帯電話で閲覧されている方には申し訳ありません。
7 「始まりの話」
まだまだ六月二十二日金曜日・以下略
僕を眼刀で斬った後、白獏はすたすたと先に行ってしまう。 あの先輩と仲良く肩を並べて歩く日など、到底来るとは思えない。
太陽の見えた通りを曲がった時から、鈴を鳴らすような、夢のように心地良い音が聞こえて来る。
心臓が、ととん、と浮かれ打つ。 足が自然に速くなる。
陽の射し込まない薄暗い路地を抜けると、ぽっかりと視界が明るくなる。 左右を石塀で囲まれた小さな石畳の院子。 〈百彩堂〉は、この庭子の突き当たり。 これまでの路で目にしてきた何れの店舗より、ひときわ古びた佇まい。 〝老舗〟という表現が似つかわしい、実にシックで重厚な店構えだ。
灰色な石の院子に、涼やかな音色が響く。
音源は確かめるまでもない。 でも、眼が焦るようにその主を探し、すぐに見つけ出す。
店前に、古風な、裾のゆったりした衣装を着た少女が、団扇をゆったりと扇ぎ、籐椅子に腰掛けている姿を確認。
紅鳥だ。
駆け出すのはみっともない気もするけれど、足が勝手に動いてしまうのだから仕方ない。
たった五メートルくらいの距離だけれど、のたのた歩くのももどかしい。
僕が来たことに気付くと、紅鳥は椅子からふわりと立ち上がり、世界で一番じゃないかと思う、本当に奇麗な笑顔で僕を迎えてくれる。 始めて会った時からずっと変わらない。
懸命に引き締めようとするけれど、相反して顔は緩むばかり。
「紅鳥、なに? 待っていてくれたの?」
紅鳥の、白い小さな手に手を握られ、声がちょっと上ずってしまう。 そんな僕の心中など知らない紅鳥は、変らない笑顔で僕の腕にまとわり付いて、店の中に入ろうと促す。
言葉を持たない紅鳥。
けれど、紅鳥が動くたびに、周りの空気が揺れて、紅鳥の声の代わりに音を奏でる。 まるで歌うみたいに。
その音はとにかく澄んでいて、光るガラス細工のように煌いている。 キラキラしてはいても、それは決して派手じゃない、優しい、柔らかな輝き。 聞いていると、どんな嫌なことがあって鬱々悶々としていたとしても、静かで幸せな気持ちになってくる。
透ける白磁の肌に、するりと長い漆黒の髪、まつ毛の長い黒目がちの大きな瞳。 そしてこの笑顔と身を包む清らかな音。
これだけの器量よし、性格もよし、の紅鳥を嫌う奴なんて、男でも女でもそうはいないと思う。
ただし、幽霊でも大丈夫ならば、の話。
そう。 紅鳥は誰にでも見えるし、触れられるけれど、実は幽霊だ。
未だに信じられないのだけれど、本人がそう言っている(会話は筆談だ)のだから、本当なんだろう。 もっとも、彼女を幽霊と知っているのは極僅かで、ほとんどの人は、可愛い「百彩堂の看板娘」としか思っていない。 それくらいに、紅鳥は自然に、当然のように存在している。
僕にとっても、この店(=お師匠)と共に、いまや居ることが当然必須の存在。
「幽霊娘相手に、鼻の下伸ばしてんじゃねえよ。 サカるには早えんだよ、ガキが」
前方から、悪意しか感じさせない言葉が飛んできた。 せっかくの気分が台無しだ。
開け広げた店の扉にもたれるように、白獏が小刀を弄びながら、剣呑な空気を撒き散らしている。
「ったく、短けえ足だな。 ようやく到着とはよ。 短けりゃ、回転数でカバーしろってんだ」
陽の光の届かない、薄暗い店内を背景に立つ白獏の姿は白く浮き上がって見える。
白獏の姿はどこにいてもとにかく目立つ。
白い肌・白い髪・銀色の眼。
ただそれだけのことだけれど、比較的肌の浅黒い、黒か濃い色の髪が多い天堂島(特に海角)では、白いことは予想以上に目立つ。
町の壁もちょっと濃い目の灰色が多いし、陽もあまり町中には射し込まないから、そこでの白は、浮き上がるように見える。
おまけに白獏は、服も白しか着ないと決めているらしく、腰帯までも白。 無彩色の極み。 しかも、現代風じゃない、古装劇(要は時代劇だ)の役者が着ていそうなヒレヒレした衣装ばかり。 髪や瞳の色を始めとする、諸々の珍しさもあって、白獏が町中を歩くと、かなりの確率で衆目を集める。 好奇と笑いを編み合わせた興味の眼差し。 不本意ながら、何度か一緒に出歩いたことはあるので、僕も体感済み。
紅鳥に言わせると、白獏は「奇麗」だから、皆が見惚れているのだそうだ。 男はともかく、女性に関しては強く否定は出来ない――気がする。
でも、本人は全く意に介さない。
それどころかたまに気が向くと、笑って見ていた相手を無言で、あの剣のような銀眼で見据え、逆に軽く脅してみたりしている。 時には小刀付きで。
お師匠の深い黒の瞳ほどではないけれど、白獏の切れ長の銀眼は、怒らせると凄みがあって、正視するには結構根性がいる。
白獏曰く、「舐めてかかっていた余裕の表情が、だんだんと険しくなって、最後には蒼白になっていく変化を見るのが楽しい」のだとか。 こういった場面に、二回ほど居合わせたことがある。 確かに、相手側の百面相を見ているのは面白い。 もちろん、白獏にそんな感想は言わない。 言ったら、今度は僕が百面相する側になるだけだ。
白獏は、いわゆる〝人間の世界〟じゃない、他の世界から来ている『お客さん』らしく、見た目は僕より多少上の青年でも、実際は百何十歳かにはなるのだと紅鳥が言っていた。(紅鳥はその白獏よりも更に、年上らしい……。)
それならば、あのずうずうしさも、性格極悪の擦れた態度も、斜めのモノの見方も、多少納得。
「おい、サカり猫丁稚。 何をごたごた考えているか知らんが、爺ィが呼んでるぞ」
イラついた白獏の声。 お師匠に言われて、昼寝の前に僕を呼びに店頭に戻らされたってことらしい。 なるほど、不機嫌なわけだ。
電車のかしまし女生徒達の話が真実ならば、昨晩は〈仕事〉だった上に、さっきまで外に出ていたみたいだから、眠気が頂点、といったところだろう。
白獏の態度はむかつくけれど、ここはやはり労わらねばならない、だろうと思う。
仮にも先輩、仮じゃなくても先輩なのだ。
「――~~それは、お知らせありがとうございます。 ――あ、そうだ紅鳥、これ。 こんな瓶詰めのキャンディ、欲しいって言ってただろう?」
入り口の、二段しかない低い階段に足をかけながら、淡い水色の玻璃瓶を鞄から取り出し紅鳥に渡す。
中には赤や黄、紫、白に緑の丸いキャンディーが、小さな宝石のように光っている。 瓶を傾けるたび、カチンカチンと玻璃を打つ高い音がする。
紅鳥は眼を丸くして、瓶をそっと受け取る。
瓶を高く掲げ、遠い空の光にかざしじっくり見ている紅鳥の顔は、いっそうキラキラと輝く。 周囲の空気が一斉に、お礼を言うようにしゃららん、と震え、僕をくすぐったい、幸福な気持ちにさせる音で包む。 それだけでも十分なのに、紅鳥は僕の正面に回って笑顔でちょこん、と膝を折り頭を下げると、僕の腕にしがみついて、頬をすり寄せながら、大切そうに手の玻璃瓶を見つめる。
「紅鳥、そんなに嬉しい?」
もっと嬉しいのは僕の方。 来がけに落とし割らなくて本当に良かった。 あの時割れていたら、この笑顔は見られなかったのだから。
鏡で見なくても自覚できるくらい、いま、僕の顔は最高にデレデレしているに違いない。
コン、と硬い扉の縁を叩く音。
同時、前方から再びの殺気。 幸福一転、大盥数杯の氷水を浴びせかけられている気分。
顔を上げなくても分る。 確実に、彼の手の中には銀の小刀が光っている。
「こ、紅鳥、お師匠が待っているっていうことだから、僕、ちょっと先に行って来るね」
腕に絡んでいる紅鳥の手を離そうとすると、紅鳥は僕の顔を見上げてにこりと微笑み、僕を店内に誘うように引っ張る。 しゃらんと、空気が揺れる。
「阿呆ぅ。 紅鳥も一緒に、だ」
紅鳥の顔から白獏の顔へ視線を移す。 やはり据わっている銀眼が、さっさと行け、と無言で脅しをかけている。
紅鳥に引っ張られながら、扉にもたれかかったままの白獏の横をすり抜け、店の奥へ続く廊下を抜け、お師匠の部屋へと行く。
いつもは閉ざされている両開きの扉は、片側だけ開けられている。
「お師匠。 彩です」
閉ざされたままの右扉の前で応えを待つ。
「ああ、お入り」
深い、響きの良い声が返ってくる。
「失礼します」
軽く一礼をして、紅鳥に続き室内へ入る。
正面突き当りの椅子に、〈百彩堂〉老板であり、僕の憧れの師である玄青師匠が腰を下ろし、茶壷から碗へ金色の茶を注いでいる。 その手つきの優雅なこと。
僕より先にお師匠の傍に行った紅鳥は、お師匠の右脇の卓子に玻璃瓶を置き、ちょこんと膝を折って挨拶をする。 お師匠は柔らかな笑みを浮べると、紅鳥へ茶碗を渡す。
今日のお師匠は、長い髪を後ろで一つに束ねているので、いつも以上に顔がよく見える。 例えその黒髪に隠れていても、お師匠の容貌は際立っている。 白皙の美青年って表現はいまいち適切ではない気もするけれど、二枚目、という表現では軽すぎるし物足りない。
「彩君も、ほら、そこに座って。 紅鳥、素敵なものを貰ったようだね?」
紅鳥は笑顔でこくりと頷くと、お師匠からキャンディーの玻璃瓶、それから僕へと視線を移す。 お師匠は長い指で、玻璃瓶の表面をなぞる。
「食べられなのに、相変わらず紅鳥はこういうものが好きだねえ。 彩君、悪いね」
穏やかな玄青師匠の眼が僕に向けられる。
紅鳥に見つめられるのとは違う嬉しさと緊張が走る。 妙な感じ。
紅鳥は、お師匠から渡された茶碗を僕の左横の卓子に置くと、玻璃瓶を取ってきて、僕の隣へふわりと座る。
今日のお茶は茉莉花茶。 丸い爽やかな香りに気持ちが和む。 これは特級品だ。
「いえ。 家にあったものを持ってきただけですから。 僕も大井もこういったものはあまり食べませんから、紅鳥が持っている方がよっぽどいいと思って」
お師匠は意味ありげに「ふふ」と笑うと、腰帯に挿していた扇子をすっと抜き取り、はらりと広げる。
「そうだね。 それぞれより輝ける場に在るが幸せかもしれないね。 それより紅鳥。 その玻璃瓶は私が預かっていてあげるから、先に着替えておいで。 その後で髪を結ってあげよう」
紅鳥は、少し名残惜しそうに玻璃瓶を見つめた後、お師匠の横の卓子に再び瓶を置き、奥部屋へと消えていく。
「? 着替えるって、お師匠。 紅鳥、何処かへ行くんですか? それに、僕に用事って……? 白獏と店番代わらないと、彼、昨晩〈仕事〉だったんですよね?」
「おや、昨晩〈仕事〉だったこと、よく知っていたね。 その通りだけど、まあ、大丈夫だよ。 白獏君はどうせ、店番でもそうでなくても、昼間は寝ているだけなんだし――」
いや、その通りなんですけど、一応でも〝開店中〟の店の番なわけですから、「寝ているだけ」というのは、そもそも問題なのでは――と言いたいところを呑み込んで、お師匠の言葉の続きを待つ。
「今日はあの御婦人の、大切な日だったろう? 彩君、行きたいかと思ってね」
はっとした。
そうだ。 今日、だった。
「紅鳥も、一緒に行きたいと言って聞かなくてねえ。 悪いけれど、一緒に連れて行ってもらえるかい? 御婦人も、あの娘のことは気に入っていたようだし。 君の元気な姿と紅鳥の歌。 きっと喜ぶだろうよ」
あの捻くれたばあさんが、そんな素直に喜ぶ姿は想像できないけれど、ばあさんにはまだ、感謝の言葉を述べていないことを思い出す。
派手で、高慢で、見栄っ張りで頑固で、最期まで憎まれ口をきき続けたムータン婦人。
ひとり院子に佇んでいた時の、寂しげな横顔は、とても美しかった。
いま、〈けしもの屋〉にいる僕がいるのは、あの日、あの婦人と出逢ったから。