5 「天堂島のこと」
5 「天堂島のこと」
日時前同・天気同様
大雑把に言えば、背の高い巨大な台形型の天堂島は、いわゆる富裕層の暮らす高級な居住地区と、標準所得から下の人達が暮らす下町に、きっぱりと分かれている。
『天堂』っていうのは『天国』という意味だと聞いたことがあるけれど、それでいくと、この島は『天国の島』、ということになる。
そんな大層な名を誰が付けたのか、《天堂島史》を見る限り定かではない。 ただ、誰も変名しようとしなかったのだから、その名に相応しい魅力がある、と、ある一定以上の人間が認めたのだろう。 もしくは、名前なんてどうでもよかったか、のどちらか。
僕はおそらく、後者だと思っている。
穏やかな紺碧の海に四方を囲まれ、四季を通して鳥がさえずり、花が彩る、生命に溢れた海上の楽園。
まるで、旅行会社の広告文句のようだ。 確かに、魅力は十分ある島だと思う。
しかし、実際にこの島に暮らしてみれば解る。
夏季の半端ない蒸し暑さに加え、衣服の上からでも貪欲に血を吸う凶暴な蚊、太古からほぼ変わらぬ姿で生き続けているという、人間を恐れずそこかしこを這い回る巨大ゴキブリ、買って来たばかりの麺包や月餅の包みを喰い破り、中身の一部のみを盗み喰う鼠等々に、辟易する人は少なくないと思う。
もちろん、それらいわゆる「害虫」「害獣」に、僕が自宅で遭遇することはない。
僕のただ一人の同居者であり、結城家に仕える執事の大井は、結城家邸内への無断侵入を、何者に対してであれ赦すことはない。
齢八十を遥か超えても、一流は一流なのだ。
話はやや逸れたけれど、《天堂島史》によると、島の生い立ちは以下のようなものだ。
昔、世界のあちこちで悲惨な戦争が勃発していた時代。 「絶望」という最悪の病が世の人々の間に流行ってしまっていたらしい。
そんな闇の時代、はるか東南の小さな島に、人々の眼は向けられた。
『天国の島』という、たまたまな名前に、人々は心の拠り所を求めたのだろう、と、記憶に定かでない僕の曽祖父が言っていた気がする。
東南の海上にある『天国の島』に、この世の楽園を求め、島の外から入ってきた人々は、自分達の理想とする居住の場所を、天国の島の上へ上へと求めていった。 山の裾から這い上がるように、より高く、より天に近い眺めの良い場所を求め、山を切り拓いていった。
〈天に近いほど、神へ近い地。 近ければ近いほど、より、願いも届き易い〉
なんて、どう考えても、安易安直に過ぎると思う話を、当時の人々は真剣に信じていたらしく、金に糸目もつけず、高台の――現在僕も住んでいる『天涯』の土地を拓き、競うように自分のものにしていったのだとか。
その結果天涯は、非現実的な程に、整然と美しい、当時の人々の理想を詰め込んだ高級住宅街として、島の頂きに誕生した。
瀟洒な洋館の白い壁と、それを取り囲む木々の緑に鮮やかな赤や黄の花が、人の手で整えられ絢爛に咲き誇る様は、一枚の風景画のようだと思う。 その絵が好みか好みでないか、は別の話だけれど。
天涯を造る段階で、外地からの荷材積み入れ港となった小さな入り江は、建設作業に従事する為島にやってきた各地の出稼ぎ労働者達が、いつの間にか、雑然としつつも気楽で活気のある町『海角』を造っていた。
生まれたばかりの海角は、天堂島の裾に付いた小さな染み程だったけれど、蔓性の植物が蔓を伸ばすように、まず島の沿岸をぐるりと取り巻き、更には天涯へと続く山の中腹付近まで、生命力豊かに成長をしていった。
天涯の人々に言わせると「海角が天涯を侵食している」のだそうだけれど、何を言われても海角の住人達は全く気にしない。 「とったもん勝ち」だと、海角の威勢のいい兄さん達は言う。 実際、文句があっても、天涯の上品でひょろひょろの小父さん達と、海角の、大声で喧嘩ッ早い人達とでは、話し合いにならないことに、一年分の小遣いをかけてもいい。
もっとも、天涯と海角が出来たのは、僕が生まれる遥かずっと以前のこと、歴史の教科書に掲載される程古い話だから、その本当の経緯なんて分かりはしない。 けれど、天堂島が『天涯』と『海角』のふたつに別れていることは明々白々の事実であり、ずっと、変っていないことだ。
憎しみ合った末、などという理由で分かれているのではないから、別にいいんだけど。
現在、往き来は自由、無制限なのだから。
ちなみに、僕の家は天涯の天涯路(一番通り)の一番地の一角を丸々占めている。
三階のバルコニーから見える水平線の眺めは、ちょっと自慢に思えるけれど、その他は、別に部屋数が二・三十あろうと、裏の庭園に厩舎があって、屋敷裏の馬場では、毛並みの良い四頭がゆったり駆けていようと、僕にはどうでもよいことだ。
いまの僕の頭の八割は、天橋路九段にあるあの店のことに占められている。
奉公先であり、修行の場であり、あらゆる楽しみの詰まった、僕の楽地。