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けしもの屋日誌  作者:
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4 「金曜午後・出勤四十五分前」

   4 「金曜午後・出勤四十五分前」


   六月二十二日金曜日 曇りのち晴れ


「おっとっ――」


 金曜の放課後。 一週間で一番楽しい時間。 

 足取りも自然軽くなるから、つい急ぎ足になって、危うく転んで大切な物を落としてしまうところだった。

 楽しい時こそ、注意は必要だね。


「あら、(さい)くん。 お出かけなの?」


 僕が向かうとは逆の方向から、おっとりとした老婦人の声。 注意だ。

 僕の家の三軒隣のリーズ夫人。

 ふんわりと結われた白い髪に、ふっくらとした頬が可愛らしいおばあ様だ。 育ちのよさが物腰はもちろん、ゆっくりとした言葉の発し方にも自然に現れている。 手にした淡紫の日傘のさし方ひとつでさえ、生来の品の良さを感じさせる。

 いつもにこやかで好印象な老婦人なのだけれど、一分で済む話が十五分にはなってしまうから、急いでいる時にはあまり会いたくない人だ。

 そう思いつつも、反射的にネクタイの歪みを正すと、僕は最高の笑顔で挨拶をする。


「リーズさん。 こんにちは」


「お父さまとお母さま、お元気?」


「はい、元気です」 多分、ですがね。


「今頃は、北欧辺りを回っていると思います――」


 これも「多分」の話。 なにぶんもう半年以上、お互い連絡を取っていないものですから、どこにいるかなんて、実は正確に知らないんですよ――なんて言えはしないけれど。


「お父様はあの〝結城財閥〟の総帥、お母様は第一秘書もなされている、お父様にとっては公私共に大切なパートナーですものね。 部下に任せきりにせず、ご自身も先頭に立ってお仕事をなされているなんて、ご立派なことだわ。 けれど、寂しいでしょう? ひとり残されて。 お父様お母様も、一人息子を遠い地に残しておられること、どんなにか心掛かりでしょうに――」


 リーズ夫人は、混じりけのない同情の眼差しで僕を見ている。

 いえいえ、残念ながら、いつまでも青臭い恋人同士のような両親は、二人揃って旅行が趣味なんです。 仕事と趣味が両立できて、それはそれは充実した日々を過ごしていると思われるので、しっかり者の子供のことは、あまり心配していないと思いますよ――なんてことも、口に出しては言えない。

 相手の思いに水を差すようなこと、僕はあまりしたくない性質(たち)だ。


「そうですね。 でも、僕は父の仕事を理解しているつもりですし、そのお陰でこうして暮らしていけていることも分かっていますから、寂しいなんて言って、両親を困らせたくはないんです。 それに、学校の友人や大井もいますから、毎日、楽しいんです」


 ここで明るく、しかし、少しだけ寂しげに微笑むことを忘れてはいけない。 なんていったって、老婦人にとって僕はまだ〝たった十三歳〟の子供で、同情の対象なのだから。


「大井、って、執事さんの? まぁ、まだ元気に働いていらっしゃったのね。 わたくしより随分おじいちゃんだった気がするのだけれど……。 そういえば、あのご婦人。 彩君がボランティアでお話し相手に行っていた西海岸通りの、あの旧いお宅の、ムータン婦人。 先月亡くなられたのですってね。 わたくし、ぜんぜん存じ上げなかったわ。 お身寄りがないとかで、ずっと独りで暮らされていたでしょう? お式とかは、どうされたのかしら?」


 リーズ夫人は、新たな話題の主人公になった故人に、今度は同情をしている様子。


「はい。 お身寄りがないということでしたので、勝手とは思ったんですが、両親に承諾を得て、僕と大井で送りの式をさせて頂いたんです。 ムータンさんも、今頃は天国で、懐かしい方々と会っていらっしゃると、僕は信じているんです」


 僕の話を聞いた老婦人は、今度は心底感激した、という表情で僕の手を取り褒めちぎり始めた。


「まあまあ。 彩君。 あなたは本当になんて優しいいい子なのかしら。 酷い言い方だけれど、赤の他人のお葬式を、あなたが出したなんて――。 あなたは最後まで、とても良いことをしてさし上げたわ。 そうでなかったら、あの方。 誰にも、お葬式すらあげてもらえなかったでしょうから。 亡くなられた方の事をこう言うのはなんだけれど、あの方、ちょっと変わった方だったでしょう? 福祉課の職員ですら近付きたがらないって聞いたことがあるわ。 とても気難しくて、その上、なにやら怪しげな術に凝っていて、鬼や化物を呼び寄せて召使いとして使っていらした、なんて話を耳にしたことが、わたくしあるの。 他にも時々、奇声を発していらしたとか、怪しげな白い陰が窓辺に座っていたとか、この世のものとは思えない歌声が夜な夜な聞こえたとか――そんな話を幾つも聞いたことがあって――。 もちろん、あくまで噂でしょうけれどね。 あなたがお相手していたくらいですもの、そんな怖ろしい人の屋敷だったら、出入りなんかできなかったわよね。 もっとも、わたくしはそんな噂話、もともと信じてはいないのだけれど――」


 老婦人は素晴らしい肺活量で一気に捲くし立てると、気のない振りを装いながら、僕の次の言葉を待っていた。

 僕は笑いそうになるのと、そしてほんの少し、泣きたい気になるのを必死で押し込め、暗くなり過ぎない程度の寂しげな顔で、老婦人の問いに答えた。


「ええ。 そんなのはただの噂ですよ。 確かに、少し頑固な方でしたけれど、長い間お独りだったから、寂しかったんですよ、きっと。 孫のかわり、というのはおこがましいのかもしれませんが、僕はムータンさんを本当のおばあ様のように思っていたんです。 少しは僕の存在が、ムータンさんの慰めになっていたら、いいんですけれど」


 ここでまた、少し寂しげな笑顔でリーズ夫人の顔を見返す。 老婦人の眼は涙で潤み、

「ええ、ええ、間違いなく慰められていましたとも」と、語る声も熱く潤んでいた。

 リーズ夫人の中での好感度は、これで更にアップしたこと間違いなしだ。


 その後も、お互い笑顔を絶やさずに、真か偽かの知れない話を更にいくつか交わすと、先約があるといって、話を終わらせることに成功した。

 別れ際にリーズ夫人は、今度午後のお茶に招待したいといった。 女性からの誘いに、NOとはいえないので、顔出しは次の日曜の午後となってしまった。 正直、面倒くさくもあるけれど、おしゃべりの中から、どんな情報を得られるか分からない。 情報は宝。 ご近所付き合いは大切だ。


 歩き出したリーズ夫人を、ほんの少しの間見送っていると、石畳の窪みに足を取られよろめいたので、駆け寄ろうかと思ったが、婦人は自分ですぐに体勢を立て直し、ゆっくりとした足取りで歩き始めたので、ほっと胸をなで下ろす。

「女性の危機を放って自分の事を優先するなど、男としてあってはならないことだ」と、自称・紳士の父に、幼少時から耳にタコが出来るほど言い聞かされて育った。

 刷り込みとは怖ろしい効果があるものだ。

 女性の危機を目にすると、条件反射的に身体が動く自分がすごい、と思うことがしばしばある。

 しかし、この刷り込み条件反射は将来役に立つこともあるかもしれないので、まあ、よしとしよう。


 リーズ夫人の安全を確認したところで、父に貰った年代物の銀の懐中時計の鎖を引き、ポケットから出すと同時に蓋を開ける。

 針は三時五分前。

 夫人の話が十分で済んだのは奇跡だけれど、その十分、あったはずの時間がなくなってしまった。 余裕を取り戻すため、ちょっと走ろうか――。

 手の中の時計から顔を上げると、日差しに目が少し眩んだ。

 夏本番。 太陽は本領発揮とばかりに、地上にあるものをジリジリと()き始めた。 シミを気にする御婦人方には嫌なものらしいけれど、僕はこの容赦ない、照り付ける太陽の夏が一番好きだ。

 眩しさに負けず顔を空に向ける。

 それにしても、今日は本当に天気がいい。

 遮られない空は、チューブから出したままの絵の具を塗ったみたいに、混じりない青をしている。

 視線を下へ向けると、眼下に広がる濃紺の海の縁に、真っ白な夏雲が浮き島のように並んでいる。


「――婆さんが見たら、喜びそうだよな」


 リーズ夫人が話題に上げたものだから、ついあの婆さんの事を思い出してしまった。

 

 婆さんも夏が好きだと言っていた。

 そして、その夏の中で、今僕が目にしているような、真っ白な雲が何より大好きだと言っていた。

 その潔い白さが好きだと言った。

 あんな白になりたいんだと、何度も何度も、言っていた。


 僕の立つこの場所は、急な坂道を上り詰めた頂きで、天堂島では一番眺めがいい場所だ。

 年配者が多いここ天涯地区で、この道を利用する人は少ない。 その上、日差しのきついこの時間、道には人どころか猫の子一匹蟻一匹もいないので、自ずとこの眺望を独占できる。

 他人嫌いだったあの婆さんを、もし今日ここに連れてきたら、ひねくれた言葉を口にしつつ喜んだだろうけれど、もういないのだからどうしようもない。

 でも、こんな坂の上に連れて来たりしたら、足腰の弱っていた婆さんは、転んでしまったかもしれない。

 天堂島は、石畳に覆われた坂の島だ。

 島中の歩道に敷かれた古い石畳は、時々、縁が擦れて隙間が出来ているものがあるから、年輩に限らず、若者でも急いでいる時は注意しないと、つま先を引っ掛けて転んでしまうことがある。

 上りでも転べば痛いけれど、下りだったらもっと悲惨。 坂はどこでも結構急だから、転んだ上に転がるハメになる人がたまにいる。

 これは結構痛いし、周囲に人がいたらちょっと恥ずかしい。 もっとも、僕は慣れているから、ちょっと引っ掛けたところで、転ぶなんてミスはしないけれど、もし誰かと一緒に歩くことがあるとしたら、配慮が確実に必要だ。

 現に、僕の直ぐ足下の石畳の縁も擦れて黒い溝を作っている。 行政も、高い税金を絞れるだけ絞り取っているのだから、こういう公道の補修はきっちりやればよいのにと、御近所の年輩方を見かけるたびに思ってしまう。

 僕はわりと、妙なところで正義感みたいなものが強かったりする。 今度陳情書を出してみようか、と考えている最中だ。


 石畳の縁を靴の先で蹴りながら、何気なく、手に握ったままの時計に目を落す。


「――あ、しまった」


 景色に見惚れ、考え事などしていたら、また時間を二分無駄にしてしまった。

 早足にしろ走るにしろ、早くケーブル列車の駅に行かなくては、一時間に一本の電車が行ってしまう。 これに乗りそこねたら、他に交通手段がないから完全に大幅な遅刻。

 時間に余裕をなくし慌てるなんてみっともないと思うし、それ以上に遅刻なんて恥ずべきことだ。

 おまけに、本当に遅刻なんかしたら、僕との相性極悪の白獏(しろばく)が、据わった切れ長の眼で手に銀の小刀をちらつかせながら、嫌味の五つ六つや八つ、言うに決まっている。 これ絶対的確信。


 感傷なんかに、浸っている場合ではない。


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