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けしもの屋日誌  作者:
21/23

20 「決行日 後編」

 

   20 「決行日 後編」


   十一月二十日火曜日 雲ない夕空


 南方にある天堂島(てんどうとう)でも、十一月末になると朝夕は肌寒さを覚えることがある。

 長袖だって着るし、厚手の上着だって必用なことがある。 雪は降らないけど、冬に当る季節はそれなりに寒い。

 そして、今はその冬期に入っている。

 けれど、先刻まで感じなかった寒さを何故、急に感じるようになったのか。


「少々、来るのが早かったかね?」


 同性である僕でも聴き惚れたくなる深みのある声で、玄青(げんせい)老板(てんちょう)は微笑みながら言った。

 お馴染になった金扇子で口元を覆っているが、衣装はいつもの紫系ではなく、黒衣の長袍だった。

 長い髪は背で軽く束ねている。

 その脇には、こちらはいつも通り艶やかな紅色の上衣と裙子(スカート)紅鳥(ことり)姑娘(おじょうさん)、そして少し離れた後方に、真っ白の白獏(しろばく)が面倒臭そうに頭を掻きながら立っている。

 いったい、いつのまに院子(にわ)まで入って来たんだろう。ついさっきまでは、誰も居なかったはずなのに。


「これは大司命(だいしめい)殿、お久しゅう」


 僕が口を開くより早く、ムータン婦人の椅子に腰かけていた女性が言葉を発した。

 ふわりと立ち上がると、女性は玄青老板達が立っている院子へ軽やかに下りた。


「そんな職に就いていたこともあったな。 しかしさっさと罷免されたのはそなたも知っているだろう? その頃はまだ、天界にあったはずだ」


 豊かな黒髪を揺らしながら、女性は艶やかな笑みを口元に浮かべる。


「噂話で聞いたよ。 その過ぎた力のため天帝に忌まれ、遠ざけられた後、酔狂にも下界で商売を始めた、と。 その他にも貴方については様々な噂を耳にしていた。 女でも男でも手当たりしだい、見境なく手を出す花花公子(あそびにん)だとか――?」


「なに、浮名の数ではそなたに負ける。 天界には、未だそなたに熱を上げておる哀れな(やから)が両手足では数え切れぬと、昨日対面したおり百花娘娘(ひゃっかにゃんにゃん)が嘆息しておった。 美貌の花仙のおかげで、未だ苦情が絶えぬとな」


 老板(てんちょう)ははらりと扇子を広げると、大きく揺り動かした後に再び口元を覆った。 その様子を見ていた外見年齢三十歳にも満たない女性も、細くしなやかな指で領巾(ひれ)の端をつまみ、口元を隠した。


 見ているだけなら美男美女のちょっと色めいたやり取り(劇上の)――なんだけど、観劇に来た覚えはない。

 これは現在進行形の、現実の世界の話で、僕は話の中の登場人物の一人――のはず。

 なのに、同じ舞台の出演者がなんの話をしているのか、さっぱり解らない。 というより付いていけない。

 二人とも笑顔で話しているのにナニ、このざらついた冷たい会話。


「やっぱりお知り合いだったんですか――とその前に、あの、貴女はひょっとして、もしかして、ムータンさん、なんです……か?」


 改めて、婦人と思われる女性の貌を見る。

 面影はある。 けれど間違っても「婆さん」などとは呼べない、まだ若い女性。

 (まなじり)の少し上がった、強い意志を感じさせる眼差し。 白磁のような滑らかな肌も艶やかな黒髪も、つい先ほどまで一緒にお茶を飲んでいたムータン婦人のそれとは違う。

 衣服は、くすんだ赤から艶やかな紅になっている。


「おまえの友人がこの場にいたら、さぞや狂喜したろうにな――結城彩(ゆうきさい)


 声も若い。 けれど、よくよく聞けばムータン婦人のもの。 問いかけにも肯定的内容が返ってきたことから、この女性はムータン婦人だと認識せざるを得ない。

 若かりし頃はさぞ美人だったろうとは思っていたけれど、想像以上。


「――え……っと、あのこれ、どういう仕組みになってる……んでしょう?」


 眩暈がする。

 「付いていけない」なんて段じゃない。

 なんとなくの覚悟はしていたけれど、完全にオカルト。 それともファンタジー?

 なんにしろ、秀が好む世界に突入している。

 突然若返った婦人。

 〝大司命〟(人間の命数(じゅみょう)を司る天の役人だったと記憶)〝天帝〟〝下界〟に〝天界〟、〝百花娘娘〟(数多いる花仙の長だったような)――?

 どれも空想世界の読み物に出てくる名詞じゃないか。

 先日から、(僕にとっては)不可解な現象に何度か出くわしているので、多少の覚悟はしていたつもりだけど、まだまだ甘かった。

 なんとか自分が得て来た知識から、理解への糸口を見つけようとするけれど、思考回路はパンク寸前、現状把握が出来ず、脳味噌をぐるぐるとかき混ぜられている気分。 ――気持ち悪い……。

 いっそ、目の前の人々が共謀して僕を騙している、と言われた方がマシかも――


「――これ、現実なんですか……ね?」


「残念ながら、誰の夢の中でもないね」


 玄青老板がにっこりと応えた。

 放心状態になりつつあった僕の耳元で、しゃん、と涼やかな音が響く。 同時に、僕の右手をひんやりとした小さな手が包みこむ。

 はっとして視線を落とすと、目の前に紅鳥姑娘が立っていて、僕の手を握り心配げに見上げていた。

 言葉のない姑娘は、首を傾け、僕の手を少し持ち上げた。 再びしゃらんと心地の良い音が響く。

 姑娘の手と清音に包まれるうち、ごちゃごちゃに絡まっていた頭の中が、少しずつ解け活動を開始する。

 ほっと小さく息を吐き、気分を落ち着ける。


「姑娘、ありがとう」


 いまいちぎこちない笑顔で礼を言うと、姑娘はほころぶ様な笑顔を見せてくれた。


「少し、落ち着いたかね?」


 僕の混乱と動揺が虚しくなるような微笑で、玄青老板はゆったりと言った。

 「動揺の原因の一人はあなたです」と言いたいのを我慢して、深呼吸。 落ち着こう。


「ムータンさん。 それに玄青老板。 あなた方はいったい何、なんですか? 先程の会話から察するに、お二人は知人で、しかも、こことは違う世界からいらしている……ように解釈されたのですが――」


 少々上ずった声になったのは御愛嬌。

 腹に力を入れ、両足を肩幅に開き足を踏ん張ると、婦人、それから老板の顔を順に、ゆっくりと見た。


「意外と、理解が早かったね。 もっとも、この婦人とは知人という仲ではないな。 互いの存在を知っていた、という程度だ。 そうだろう?」


「そういうことだ、結城彩。 あたしゃこんな男とは知り合いになりたくはない」


 両者、極上の笑顔で冷たい関係な回答。


「はあ。 それであの、お二人の正体は、いったい――」


 少し離れた位置に立って扇子を揺らめかせていた玄青老板は、パチンと扇子を畳むと、房間(へや)の入り口に立ったままの僕の前へ、ゆったりと歩んできた。

 色んな意味で、緊張してしまう。


「いま私たちがいるこの世界――君が〝現実〟と認識している世界を、私達の世界では〝下界〟または〝人界〟と呼んでいて、それに対し私達の世界を〝天界〟と呼んでいるのだが、聞いたことはあるかね?」


「はあ……まあ、物語上の空想世界としてなら――」


 老板は愉快そうに目を細め、扇子の先でムータン婦人、そして自身を順番に指示(さししめ)した。


「その空想上の世界が実際に存在するとして、そこの住人の二人が、私とあの婦人だと思ってもらえばいい。 〝天界〟〝人界〟というと大仰だが、ざっくりと言ってしまえば、お隣さんで、人界で言う〝外国人〟と同じような存在だと思えばいいのではないかな?」


 いや、それはかなり違うと思うのだけれど、こうして会話をしていてもなんの違和感もないのだから、そう、考えてもいいのか――?

 僕の心中の一人問答を知ってか、老板はふふと笑い、半分開いた扇子で口元を押さえた。


「まあ、いきなりこんな話を信じろというのは無理だろうし、最終的に信じる信じないは結城彩君、君の自由だ。 補足で言えば、私はかつて天界で官吏をしていたのだが、クビになってね、今は人界で自由を謳歌している。 あの御婦人は牡丹の花の精で、天界に籍を置く女仙だ。 聞こえたと思うけれど、彼女は大した人気者だったのだよ。 もっとも今は、天界から逃走した罪人――だけれどね」


「逃走した――罪人?」


「天帝の後宮から妾妃の一人を連れ出して人界へ逃げた。 追手をかけられる程ではないが、大胆だろう?」


 老板は横目でムータン婦人を見遣った。

 少し頭が働くようになったところで、理解を超えた話を咀嚼(そしゃく)して吸収するには時間を要する。 ただ、この話の流れで行くと――。

 まだ僕の右手を握ってくれている紅鳥姑娘へ視線を向ける。


「ああ、紅鳥は君と同じ人間だよ。 かなり昔に〝(ゆうれい)〟にはなっているがね」


 さらりと老板は告げた。

 鬼――つまりは、死者?

 確かに手は少し冷たいけれど、こんなにしっかりとした感触があるし、僕と大差ない、まだどこか幼さを残す少女なのに――。

 動揺してしまった僕の顔を見上げ、紅鳥姑娘はにこりと微笑み、そっと手を離した。

 改めて僕の正面に立ち、少し膝を折って挨拶をすると、軽やかに白獏の近くまで下がっていった。

 しゃらんと鈴の音が、すっかり暗くなった院子に響く。


「それから白獏君は、私とは少し違う世界から来たお客人だ。 まあ、君にとっては私も彼も同じような存在だろう」


 こちらの人外は、意味なく理由なく納得。


「どうせ消しちまうことを説明する必要はねえだろ? それよかどうするんだよ? さっさと〈仕事〉の指示を下せよ。 とっとと済ませて俺は帰りてえんだ」


 不機嫌な声を上げた白獏の手に、銀の小刀が光っているのを確認。 ひょっとして彼は、いつでも何処でも小刀を携行しているのか?

 それにしても、「消してちまうこと」って――?


「白獏君は相変わらず気が短いね。 まあ、そうだな――」


 玄青老板は院子へ下りると、婦人の横を通り抜け、正面に植わっている白牡丹の前へ真っ直ぐ行き、手を伸ばした。


「――触らないでおくれっ」


 悲鳴に近い叫びをあげた婦人は、肩から掛けていた領巾を老板へ向かい投げた。

 柔らかいはずの領巾は鞭のように唸り飛び、伸ばされた老板の腕に幾重にも巻きつき、牡丹に触れかけた老板の手を引き戻した。


「麗しき姉妹愛――といったところかい?」


 老板が軽く腕を払うと、巻き付いていた領巾はふうっと消えた。

 大がかりな手品を見ているみたいな光景に呆然としていると、短い呻き声が上がった。

 視線を手前に戻すと、婦人が白獏に後ろ手に締めあげられていた。 顔は苦痛に歪んでいる。


「な――っ」


 駆けだそうとすると、ほんの少し前まで白牡丹の傍にいた玄青老板が、瞬間移動でもしたかのように忽然と現れ、扇子の先を付きつけ、僕の行動を制した。


「な、何を――」


「君はまだ院子へ出ない方がいい。 先日のようには、なりたくないだろう?」


 老板の言葉で行動を思いとどまった僕を、白獏は鼻で(わら)った。


「そうそう、依頼主様はそこで大人しく、黙って見てればいいんだよ」


 鋭利な銀白色の目で僕を一瞥すると、白獏は腕を更に締めあげ、空いた左手で婦人の頭部を乱暴に掴んだ。

 切れ長の瞳を閉じ、再び開くと、白獏は薄笑いを浮かべ、ムータン婦人の耳元でなにかを囁いた。


「――お、お断りだ、お放しっ」


 婦人は白獏から逃れようと身体を必死に()じらせるが、体格差があり過ぎて逃れることが出来ないようだった。

 未だ僕を制している老板を睨みあげる。


「こんなことを依頼した覚えは――」


 抗議しようとする僕を見下ろし「もう少し待ちなさい」と言うと、老板は視線を婦人へ戻した。


「この家の(あるじ)は、既に死んだ人間の男であろう?」


 玄青老板の顔は見えなかったが、声に笑いはなかった。


「死んだなんて、どうして老板がそんなことを断言できるんです? 島の外でまだ元気でおられるかもしれないじゃないですか?」


「普通に考えて、二百年以上生きられる人間はいないだろう?」 


「に、二百年?」


「それに、君には見えないだろうが、あの白牡丹の下には、男の身体が眠っている。 その魂もまた、この地を離れられず彷徨っている」


 老板が扇子で指示した先に視線を向けたが、僕には白牡丹しか見えない。

 ただ、ある変化に気付く。


「花が――」


 白牡丹を始めとする院子の花々が、少しずつ萎れてきている。 早いものでは散り始めたものもある。


「この院子の中は、牡丹精のかけた術で時間が止められていたのだが、先程、その術を消してしまったのでね。 ようやく術の効果が薄れ、時間が正しく流れ始めたんだよ」


 意味が分からない。

 僕の幾度目かの困惑顔を見て、老板は苦笑気味の表情を向けた。


「君も不審に思っていただろう? 季節の違う花が同時に咲いていたこと、花がいつまでも枯れずに咲き続けていたことを。 全ては牡丹精がかけた術の結果。 時間が止まっている限り、院子の花は枯れることなく、半永久的に咲き続けることができる。 いや、咲き続けさせられる、と言うべきかな?」


 いつまでも花が枯れずに咲いていた理由が、未消化ながらも、なんとなくは分かった。 

 でも、何故院子だけ、そんなことをする必要があったんだろう?


「ただ、この術を持続させるには、結構な力を要してね。 本来、そうそう年老いない花仙が老いた姿になっていたのは、この術に力を費やしていたが故。 術が破られたいま、術に力を殺ぐ必要がなくなった牡丹精は見ての通り、本来の姿に戻った」


 老板はいったん言葉を切り「理解できそうかね?」と扇子を広げながら訊いてきた。

 僕は素直に「一割くらいしか」と答える。


「一気に詰め込んだところで理解出来るものでもないだろうから、程々に聞き流しておけばいいよ。 さて。 ではまず、君の依頼を片付けよう」


 僕が場所を示さなくても、玄青老板はブルーシートに隠れた染みの場所を迷いなく探し当てた。

 老板がシートを右手で軽く引っ張った途端、シートはサァッと消えて無くなった。 いったいどんな仕掛けになっているのか、考えるだけ無駄なのだろう、きっと。

 露わになった染みを見つめた老板は、「なるほど」と呟くと、扇子を腰帯に挟み、右手を染みの上に置いた。 一寸の間をおいて、左から右へ、拭うようにゆっくりと動かし始める。

 手の動きに合わせ、先日〈試供品〉で拭った時と同じ絶叫のような悲鳴が響く。 改めて聞くと、この声は女性の――()き声?

 なんにしろ、とても聞いてはいられない。

 ふっと気になって、院子のムータン婦人を見返ると、白獏に押さえられたまま、頭を落とし肩を震わせていた。

 視線を壁に戻すと、染みはすっかり消えて無くなっていた。


「消えた――」


「目に見える染みだけ、だがね」


「〝目に見える染みだけ〟?」


 オウム返しの質問に、老板は壁から僕へ視線を戻した。


「見た目にはきれいになっただろう? しかし、君は知っているね? ここに染みがあったことを」


 帯に挟んでいた扇子を抜き取ると、老板はムータン婦人を示した。


「そしてあの牡丹精も知っている。 覚えている、と言うべきか」


 この言葉に、婦人は僅かに反応した。


「かなり以前の話だが、〈百彩堂(ひゃくさいどう)〉へ〈消しもの〉を求めに来た客人が、〝新品の紙と同じに、紙を真白に、きれいに戻せる優れた〈消しもの〉はないか?〟と問うてきてね。 私は、新しい紙の購入をその客人に奨めた」


 唐突に〈店〉の話を出され、ちょっと拍子抜け。

 あの店に客が来ること、あったんだ。


「――そういう〈消しもの〉が、なかったからですか?」


 怪訝そうに訊ねた僕に、老板は「それもあるね」と言って小さく笑った。


「一度何かを書いた紙は、どんなにきれいに消したところで、使用する前の真っ更に戻るわけではないだろう? 見た目には限りなく完全に消せていたとしても、書いた、という事実は残る。 少なくとも書いた当人には、その紙が新しい紙ではない、ということが分っている。 違うかい?」


 玄青老板の言わんとすることを解りかねて、僕は沈黙して聞くことしかできない。


「単純に染みを消したい、という目的であればこれで十分だろう。 だが、このままならばいずれまた、染みは現れるだろう」


「また現れる?」


「この染み、君が拭き取る作業をしていて急に濃く、大きくなったのだろう?」


「――はい。 拭き取っていたら急に」


「もともとの染みは、ほとんど消えていたんだよ、最初から。 その牡丹精がそれこそ術で、必死に消しただろうからね、記憶を覆い隠すために」


「消えていた? 〝記憶を覆い隠す〟とは、どういう意味ですか?」


「室内にあんな大きな染みがあれば、何もせずに放っておく者なんて、普通いないだろう? 牡丹精も当然、消した。 しかし消したところで記憶は消せない。 その記憶を封じ込めようと壁に色を塗った。 幾度も幾度も。 しかし皮肉にも、作業を完遂しようとする君の直向(ひたむ)きな思いが、牡丹精の術を(かえ)って、完全に消してしまった。 結果、牡丹精が〝消したい〟と思っていた記憶は鮮やかに甦り、染みは壁へ投影された」


 理解できない。

 あの鮮明な染みが記憶の投影?

 じゃあもしかして、あの悲鳴も、婦人の記憶の中の音――?

 老板はゆったりと、白獏が押さえているムータン婦人の傍へ歩んでいく。

 その後に続こうとしたが、ふっと、倒れた時の記憶が甦り、院子へ出るのを躊躇する。


「もう大丈夫だよ。 君が以前この院子で倒れたのは、時間が止まっていたため。 生きている者の時間が止まるということは、死ぬに等しい状態だからね。 術の影響もほとんど消えたから、今の院子なら君にも無害だ」


 老板は振り返って僕に言葉をかけた後、おもむろに、俯いたままの婦人の顔を扇子の先で上げさせた。

 婦人の目は、開いているのに何も見ていないように虚ろだった。


「ずいぶん苦労して、この染みを覆い隠そうとしてきたようだが、意味は、なかったのだろう? 忘れずして忘れようとしても、そなたの(うち)にある想いが、それを赦さなかった」


「――どんなに色を厚く塗り重ねようと、何度塗り直そうと、染みは、ずっと……」


 詰まったように言葉を止めた婦人は、一度瞳を伏せ、開いた。 開かれた瞳は先程の虚ろさはなかったが、代わりに涙が滲んでいた。


「消しても、忘れようとしても、忘れられるわけは――なかったのに……」


「白獏」


 玄青老板の声に応じ、白獏は婦人を離した。

 自由になった婦人は、覚束ない足取りで、すっかり萎れてしまった白牡丹の傍らまで行くと、がくりと地に崩れた。


「ムータンさん!」


 今度は制止されなかったので、僕は婦人の横へ駆け寄り助け起こすことが出来た。

 婦人の身体は、力のない僕でも簡単に抱き上げられるほど軽かった。

 僕に支えられ座った婦人は、真横にある萎れた白牡丹へ手を伸ばした。


素娘(そじょう)――素娘」


 白牡丹に呼びかけながら、婦人は静かに涙を流した。





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