19 「決行日 前編」
19 「決行日 前編」
十一月二十日火曜日 晴れ
朝目覚めると、不思議なほどに身体が軽かった。
昨日、〈けしもの屋〉こと〈百彩堂〉で、ムータン婦人宅の染みについて相談した結果、玄青老板を始めとする〈けしもの屋〉総動員で「助っ人」に来ると言う話になった。
具体的除去方法は知らされていないものの、今日中に件の染みの決着を付けてみせる、との話。
解決目処が付いた安心からか、昨晩は早くからぐっすりと眠れた。 それが、身体の軽さにつながっているのかもしれない。
「――でも……」
〝何か〟が、もやもやと頭の隅でとぐろを巻いている。
解決の目処が付くとは別に、何か他の、あまり楽しくないことが昨日あったような気が……。
「何だっけ――?」
いくら考えても何も思い当たらない。 単に疲れがまだ残っているだけかもしれない。
そう。 今日はその程度のことを気にしている場合ではない。
三か月に亘り格闘してきた染みと、決別できるかもしれない重要な日なのだから。
「若。 本日放課の後、かの婦人宅へ直接行かれ、帰宅は何時になるか分からない。 ――このご予定、変わりはございませぬか?」
座禅を終えた後、大井は食卓で僕に尋ねた。
僕の予定を具体的に確認するなんて、大井には珍しい行動。
「ないけど?」
学生である僕の日々の予定は、学校行事が中心となるのである程度規則性があり、余程でない限り大きな変化はない。 毎晩、翌日の大まかな予定を僕から伝え、大井はそれに合わせ食事時間などの調整を行う。
毎朝、当日の予定を軽く確認はするけれど、こんなピンポイントの予定だけを念押しに確認することは珍しい。
「若。 昨日〈百彩堂〉へ行かれて、得るものがございましたか?」
食後の緑茶を勧めながら、大井が僕の顔をじっと見る。 大井が朝からこんなに喋るのは珍しい。
「……多分あった――と思う、けど何故?」
僕の曖昧な答えに、大井は目を僅かに細める。 大井がこういう表情の変化を見せる時は何かがある。
大井はムータン婦人のことはもちろんのこと、〈百彩堂〉のことも知っている。
しかもおそらく、かなり詳細な情報を持っている。 と、踏んでいる。
けれど大井は僕には話さない。
あえて、僕が壁にぶつかるよう仕向けているとすら思える。
壁にぶつかって、何が問題か、どう対処するのがよいかを僕自身に考えさせるため、僕の身に危険が及ばない限り、ぎりぎりまで口出しする気はないと思われる。
そんな〝見守る〟こと、を第一とする大井が、こちらが問う前に口を開く時は、直面している問題が「かなりの難題」である場合。
背筋を伸ばし、改めて、大井の顔を真正面に見る。
「――大井。 何かあるのならはっきり、言ってくれ」
僅かな沈黙の後、大井はおもむろに懐から折り畳んだ懐紙を取り出し、スッと僕の前へ置いた。
「これを、お持ち下され」
ごくりと唾を飲み込み、懐紙を引き寄せ、開ける。
「――……なに? これ」
そら豆よりやや小さい、綿状の物体がふたつ懐紙の上にぽよんと置かれている。
「耳栓、でございます」
とうとう我が家にまで不可解現象が起こり始めたかと思い、あからさまに不信の顔を大井へ向ける。
「お持ちいただけば、若のお役に立つことがございましょう」
それ以前に、何故「耳栓」なのかの理由を言って欲しい。
だけど、口の重い大井とそれ以上の会話を続ける時間的余裕はない。
登校時間5分前だ。
*
本日も判子を押したような学校生活。
公孫秀が、美術の授業前に石膏像に化粧と花柄のフリル模様を描いて、美術教師に追いかけまわされたことを含め、いつも通り平穏で単調な時間が過ぎて行く。
いつも通りだけど、何故か今日は、時間の経過が遅く感じられた。
「彩、今日はどうすんの? いよいよ決戦の日なんだろ? 敵陣に直接乗り込むのか?」
ようやく放課した教室で、秀は例の如く売店で買っておいた麺麭を頬張っている。
いつのまにムータン婦人宅が〝敵陣〟になったんだ?
「そうだ」と答えると、秀も制服のポケットからごそごそ何かを引っ張り出し、ぬっと僕の目の前に突き出した。
縦長の黄色の紙に、記号か暗号か、といった文字が、黒々とした墨で書かれている。
モノの本で見たことがある、〝霊符〟とかいう護り札。 確か、道士だか方士だか忘れたけど、そういった呪術師的な人が用いる呪いの言葉を書いた紙だ。
「――なんで、霊符?」
「分かんないけど、光哥がさ、彩が毛虫婆さん家に行くなら渡しとけって。 ほら、光哥の老爺が道士だったてんで、光哥も呪いとか意外と詳しいじゃん」
光哥の老爺が道士だったことは知っているけど、何故、いま、僕に、この霊符をくれるのか――。 光哥も大井に負けない情報通だから、何かを知った上で、秀を介して霊符を僕に届けてくれたのだろうけど。
「秀。 無駄とは思うけど念のため確認。 この霊符、〝何に対して〟効力を持つ護符か、光哥から聞いた?」
「いんにゃ。 〝護符です〟ってしか光哥言わなかったから。 知ってんだろ? 光哥が大井の爺さんに負けないくらい口重いの。 護符だから、魔除けとか病気平癒とか学業成就とか金運上昇とかになんじゃないの?」
後半二つは関係ないとして、「魔除け」というのは引っかかる。
もしかしたら、必要な物かも――。
僕が神妙な顔をして霊符に視線を落としていると、秀が下から覗きこんで、これまた神妙な顔をして見せる。
「オレも付いてって、彩の手伝いしてやりたいんだけど昨日の夜四妹がまた熱出してさ、今日は早く帰るって約束しちゃったんだよな。 でもなあ、ここで親友の助太刀をしないというのも――」
「いやっ、秀の気持ちは嬉しいけど、翠環との約束が先だろ? 翠環は秀の帰りを待ってるんだから、ほら、早く帰ってやらないと。 あ、あと光哥にお礼を言っといて」
このまま喋らせていたら、本当に付いて来ると言い出しかねない。
秀に鞄を持たせ無理矢理教室から押し出す。 今日は本物の「助っ人」が来ることになっているのだ。 間違っても、秀に付いて来られては困る。(正確に言えば、いつもだけど……。)
光哥の霊符を大井の耳栓と一緒にジャケットの内ポケットにしまうと、僕も教室を出る。
秀の言葉を借りて言うなら「決戦に臨む」ため、いざ、ムータン婦人宅へ赴かん――だ。
**
今日も予定通り、三時五分前に到着。
ムータン婦人に会ったらまず、今日「助っ人」が来ることを話しておかなければならない。
他人が家に入るのを嫌う頑固な婦人から、僕以外の第三者(達)がこの家へ入り、作業することの承諾を得ることは、結構至難だと思う。
「承諾を獲得」するまでのシミュレーションを、頭の中で何パターンか考えながら、いつもの如く数回婦人の名を呼ぶ。 すると、いつもよりやや間があったが、スッと扉は開いた。
いつもならここで「一回呼べば十分だといっているだろう? 物覚えの悪い餓鬼だ」くらいの嫌味で出迎えられるのだけど、いくら待てども何の音もしない。
不審に思い、開けられた扉の中に一歩入ると、嫌味が飛んで来ない理由が分かった。
「ムータンさん、いったい、どうしたんですか!」
シミュレーションなんて無意味になる。 本日の予定を悠長に説明する状況ではない。
日曜夕方に分かれてからたった二日程なのに、ムータン婦人は立っているのもやっと、といったやつれた姿になっていた。
顔は蝋のように血の気がなく、衣服の赤が、普段よりくすんだ茶褐色のせいか、まるで枯れかけの花の様。
いまにも倒れてしまいそうに見える。
「無理しないで下さいっ! 一体どうしたんですか? 風邪ですか? とにかく、まず寝室へ戻って横になって下さい。 この間僕が休ませてもらった部屋ですよね? 小言は後で聞きますから、勝手に入りますよ。 ムータンさん、僕の肩に体重かけてしまっていいですから――」
肩を貸そうとする僕の手を、ムータン婦人は弱弱しく握った。 目を閉じ、数回、深く息を吸っては吐くを繰り返すだけで、何も話そうとはしない。 言葉を発するのも辛い状態なのかもしれない。
「ムータンさん、寝室に――」
「――あたしゃ、病人じゃないよ。 寝室なんかに行ってどうする? いつもの房間に行く。 結城彩、お前はあの部屋の作業に来たのだろうが? あたしはその目付をしてるんだ。 寝室なんかで寝ていたら、お前が失敗したりしても気が付かんだろうが」
毒は弱いながらも、いつもの口調。
見てみると、顔色も最初より少しよくなっている
ほんの少し安心。 だけど――
「でも、まだ顔色が悪いです。 それじゃあまるで――」
言いかけた言葉を慌てて呑むと、婦人がすかさず「死にかけた病人の顔のよう」かい?と、僕が呑み込んだ言葉を少し意地の悪い笑い顔で言った。
「な、何言っているんですか、縁起でもない事を口にすると、本当に起こってしまうって伝え、知らないんですか? 冗談言うならもう少し軽く笑えるものにして下さいよね」
僕がしたり顔で文句を言うと、婦人は表情を和らげ、僕の頬に手を添えた。
「結城彩。 存外、おまえは優しいね」
ムータン婦人の口から褒め言葉が出るなど、想像もしたことはなかった。
予測外の現象にどう対処してよいか分からず、僕は戸惑った顔をしたに違いない。
「豆鉄砲でも食らったような顔だね。 もういい、一人で歩ける」
婦人は頬から手を離すと、僕を置いていつもの房間へ歩いていった。
追いかけるように房間の入り口まで行ったものの、そこで足が止まってしまった。
窓辺に立ち、院子を眺めている婦人の背が、妙に遠くに見える。
「――ムータンさん」
僕の呼びかけに、婦人は振り返らずに言葉の続きを促した。
「あの――あの詩。 寝室の、白牡丹の掛け軸にあった。 ムータンさん、好きなんですか?」
「あの詩、あれは――妹妹が好きだった。 お前は知っているのだろう、あれが劇中のものだということは」
「《牡丹亭》ですよね。 ちゃんと見たことはないですけど。 ムータンさん、妹さんがいらっしゃったんですね」
考えてみれば、いつも僕が僕のことを話すばかりで、婦人から率先して何かを話すことはなかったように思う。
「血縁じゃないが、姐妹と呼び合う仲だった」
婦人はようやく振り返って僕を見た。
逆光で表情はよく見えない。 ただ、言葉には、懐かしむような響きが滲んでいる。 見えない表情はきっと、初めて婦人を見た時と同じではないかと感じた。 院子に佇む、遠くを見つめていた横顔。
「結城彩。 お前は作業をしに来たのだろう? おしゃべりは後におし」
婦人はパチンと手を打ち合わせ、僕の目を醒まさせた。
はたと気付くと十五分、何もしないで過ぎてしまっていた。 慌てて作業準備にかかる。 けれど、出だしのテンポが狂ったために、「助っ人」について話すタイミングを失った。
僕が準備作業を始めると、婦人は定位置の椅子に座り、いつものように茶を淹れ始める。
今日のお茶は青茶らしい。 とろりとした、熟した果物のような香りが漂ってくる。
いつもと同じ訪問日。
いつものように時間が過ぎて行く。
このまま五時まで作業をして、帰り際に「続きは木曜に」といって帰る。 いつもの流れ。
でも、今日は五時には帰らない。 帰れない、というべきか。
「助っ人」である〈百彩堂〉の面々は、何故か日のほとんど沈んだ夕闇の刻に、ここへ訪れると言った。 明るい内には彼らの〈仕事〉がやり難いとの理由。
納得が出来たわけではないけれど、〝特別待遇〟でやってもらえるらしいので、それ以上の詮索は出来なかった。(老板のあの笑顔に気圧されて、詮索できなかったとも言える。)
しかし今更だけれど、染みを消すためとはいえ、いまいち身元不明の人物を断りもなく邸内に招き入れるのは、家主にとってかなり迷惑な話だろ。
そも、僕は何故、依頼する気になったのだろう――。
何にせよ、やはり先にひとこと言っておかなきゃ。
「あの――」
「彩、先に茶を飲もう。 作業は後回しだ」
やっぱり、おかしい。
まだ何もしていないのに作業を後回しでいいなんて、これまでの婦人なら言わないのに――と思いつつも、作業が後回しになれば、進まなかった分、居残る理由が出来る。
もやもや考えつついつもの椅子に座ると、白磁の茶碗に注がれた黄金色のお茶を勧められた。 本日の茶菓子は干した棗。 少し弾力のある棗の甘酸っぱさとお茶のすっきりした甘みが口中に広がると、気持ちがふうっと和らぐ。
「素娘といってね――」
唐突な婦人の言葉に、僕は顔を上げ目を丸くしたが、婦人は僕の表情の変化など構わずに茶の香りを楽しんでいた。 僕もお茶をもう一口頂くと、言葉の続きが出るまでは香りを楽しむことにした。
「――素娘は、私の妹妹の中ではいちばん大人しくて、自分の言いたいことをひとつも、自分の口では言えないような子でね。 あたしは歯がゆくて、いつも素娘の代わりに素娘の言葉を口にしていた」
時間は緩やかなようで早く過ぎていく。
ムータン婦人の語る話は、まるで劇の一幕のようだった。
物静かで心優しい素娘という妹の他に、婦人には多くの妹がいたのだという。
丹娘(これがムータン婦人の本名だと初めて知った。)というに相応しく、華やかな装いを好み、勝気で男勝りだった婦人は妹達の束ね役だったという。
そんな婦人――丹娘とは反対の、物静かで姉妹の中では目立たない存在だった素娘。
社交的な姉と人見知りの妹。 水と油ほどに違いのある姉妹だったけれど、不思議に他の誰とよりも気があった。
二人はいつも一緒に行動をしていたのだと。 素娘はいつも姉の傍に寄り添い、丹娘は我が身のことのように、妹の面倒をみていた。 誰もが、二人は実の姉妹以上に強い結びつきの間だと言った。
ある日、姉妹は一人の男性と出会い、妹はその男性に恋する。
相手は、長い異国暮らしから戻ったばかりの青年で、現在婦人が暮らすこの家に一人、花を育てながら暮らしていた。
素娘は、その引っ込み思案の性格から自分の想いを男性には告げられずにいた。
見かねた丹娘は素娘の代わりに男性に妹の想いを伝え、男も妹を憎からず思っていることを知り、妹に男の気持ちを伝えた。 互いの想いを知った二人は、この家で逢瀬を重ねた。
そのまま、円満な結末を迎えられるかに思われた。
しかし、素娘の親は女児の恋を許さなかった。
親は素娘に他の男との縁談を勧め、勝手に話を進めてしまう。
生来病弱だった素娘は、この一件で病床に伏し、ひと月もせず儚くなってしまった。
そして、素娘の死を知った男性もまた、傷心に耐えきれず島を出て行った――。
「男性はその後、天堂島には帰って来られないのですか? ムータンさんも男性をご存じなんですよね。 一度も、戻って来られないのですか?」
ムータン婦人は院子へ視線を向けた。
「――戻らない。 素娘は、戻ってくると、戻ると、ずっと信じていただろうがね。 あの人が戻ってきたら、ずっとあの人に寄り添いたいと、最期まで――」
生ぬるい風が、院子から吹き込んでくる。
この時期の風とは思えない、粘るような湿気を帯びた温風。
なのに、ぞぞっとした寒気に襲われる。
思わず目を瞑り、自分の身体をギュッと抱きしめた。 これは恐怖?
でも、何に――?
「――ムータン、さん……?」
恐る恐る開いた目は、次の瞬間、これ以上は開けられない、と言うほど大きく見開くこととなる。
黒髪の女性が、いた。
「貴女は――……」
しゃらん、と鈴の音が響いた。
冷たい風が肌を撫でる。
「話の筋を、勝手に書き換えるのはよくないな――牡丹精」
いつの間にか闇が降りていた。