1 「奉公先紹介」
1 「奉公先紹介」
六月十五日金曜日 曇り一時雨
ハタキを手に、外の様子を確認に出た。
「もう少しであがるかな?」
海角の奉公先に着いた途端、大粒の雨が降り出した。 あと五分到着が遅くなっていたら、ずぶ濡れになっていたところだ。
日頃の行いが良いと、天の神様も配慮をしてくれるらしい。
僕が暮らす天堂島は亜熱帯に近く、よく雨が降る。 雨期である現在の雨量は半端でなく、この雨も、一時は一メートル先も霞むほどの土砂降りだったけれど、ようやく小さな雨粒がまばらに落ちる程度になってきた。
入り口前の石畳に、大きな水溜りが出来ている。 もしお客が来たら、足下が濡れて不快な思いをされるかもしれない。 止んだら水を掃き散らさないといけない。
もっとも、お客が来る確率は、白いカラスが生まれるのと同じ位、低いと思うのだけど。
古い木製ドアを開けると、真鍮製のドアベルがカラランと年季を感じさせる音を立てる。
ため息交じりに、静かな店内を見渡す。
「本当に、いつも、静かな店だよね――」
白い壁に黒い石の床。 天井の太い梁や、意匠をこらした窓枠や扉の透かし彫りは、年代を感じさせるシックなセピア調。
とても古風で趣きある、奥へと長い店内には、扉や窓と同じ材質の会計台と陳列棚が二列あるだけ。 緩やかに回る天井扇が、この店では唯一、休むことなく働き続けている。
創業四百有余年。 知る人ぞ知る、文房四宝の老舗〈百彩堂〉も、電脳化の進んだ当世、時代の荒波に揉みに揉まれて流されて、海の藻屑となる寸前の経営状態だ。
そんなわけで、丁稚奉公の僕には給金という物はない。 貰う気は元よりないし、貰う必要もないけれど、お師匠はそれを非常に申し訳なく思っている様子。 お師匠は、押しかけ弟子の僕にも優しい紳士だ。
「――商才は、無さそうだけど……」
何代目の店主かは知らないが、お師匠こと玄青老板は、店での取り扱い品を「消しもの」のみに絞っている。
消しもの。 つまりは、消しゴムだ修正液だといった、消すための道具。
そんなわけで、現在では〈百彩堂〉という本来の屋号より、〈けしもの屋〉という微妙なあだ名の方が知られている。
〈百彩堂〉は文具屋なのだから、それはそれで誤った選択ではないと思うし、世界中から多種多様な〈消しもの〉を集めれば、それはそれで面白い、とは思う。
しかし、店内には何故か、文房具というには無理のある品々まで同時陳列されている。
例を挙げれば――
ペンキ(これはまだ文具の範疇)、洗剤に漂白剤、ハタキ、雑巾、盥に洗濯板、マッチにライター(燃やして消せ、という事だろうか……)シュレッダーに団扇(粉砕して風で飛ばせと……)その他諸々。
この品揃えでは、どちらかというと(冴えない)雑貨屋だと思うのだけど、お師匠は「これは全て〈消しもの〉だよ」と、にこやかに言うので、弟子の僕が差し出がましいことを言うべきではない、と思う。
「――とはいってもさ、いったいここの商品。 何年前から動いてないんだ?」
ため息を吐きながら、商品にハタキをかける。 掃除をする時間は、いつも嫌というほどあるので、念入りに磨きまでかけられる。 お陰で、今の店内に汚れはないと断言できる。
が、僕がこの店に始めて来た時の光景は、今でも忘れられない。
「五センチ、は降り積もってたよな、埃」
埃だけではない。 天井の隅から隅まで張り巡らされた蜘蛛の巣。 それにぶら下がる虫の死骸、棚の隅でひっくり返ったゴキブリの死骸とフンの山。 鼠の食い散らかした紙くず――と、思い出しただけでも怖気が立つほど惨憺たる店内だった。 いや、あの状況を見て、ここを営業中の店と知る人は、犬を見て猿と言う人を探す以上に難しい。 というより、いないと断言していい。
いったいどれくらいの期間掃除をしなかったのか、聞くのも怖ろしかったので、無言で掃除に没頭した。 店、と呼べる状態になるのに、一週間は軽くかかった。
掃除が終わった後、あまりの疲労に倒れたのは僕の不甲斐なさだが、あの埃の中にいて、師匠を始めとするここの従業員二人は、よくも病まなかったものだ。
「まー、ここの人達が病むわけ、ないんだけどね」
ぼんやり窓にハタキをかけていると、くいくい、と袖を引かれる。 振り返ると、紅鳥が僕の袖を握り微笑んでいた。
「何? 紅鳥、どうかしたの?」
思わず顔がゆるむ。
紅鳥は〈百彩堂〉の看板娘。 僕にとっては先輩にあたる、貴重な従業員の一人。
見た目年齢は僕と同じくらい。
上等な絹糸のような、柔らかで真っ直ぐな黒髪に縁取られた小さな白い顔。 杏仁型の大きな黒い瞳と、桜色の小さな唇。 古い絵画などの仕女が着ているような、布をたっぷり使った紅い裙子とゆったりとした袖の上衣を着た姿は、まるで天上の仙女のようだ。 要するに、どこをとっても「可愛い」としか言いようがない。
「なに? 奥へ行こうって言ってるの?」
僕の袖を引きながら、紅鳥はにこりと微笑み、こくりと頷く。 紅鳥が動くたび、周りの空気が鈴を鳴らすように、清らかな音を立てる。
「お師匠が呼んでるの?」
紅鳥はまたこくりと頷いた。
紅鳥は言葉を持たない。 その代わりに、紅鳥を包む空気が、鈴のような清音をたてる。
その音は、聞く人々をとても幸せな気持ちにさせるのだけれど、もし紅鳥が話せたら、もっと綺麗な音を聞かせてくれたろうと思う。
紅鳥は早く行こうと僕の手を両手で包み、優しく引っ張る。 空気がしゃらんと揺れる。
嬉しいけど、ちょっと照れくさい。
「待って。 要らないと思うけど、表に札を出しておくよ」
引っ張る紅鳥の手を軽く押さえると、僕は慌てて表に「準備中」の札をかけ、内鍵をかける。 お客が来なければ無意味なことだけど、営業している以上、お客様へのお知らせと万一のための最低限の防御は必要だ。
僕を待っていてくれた紅鳥に再び手を引かれ、店の奥、従業員の休憩室、兼、老板である玄青師匠の居住空間へ向かう。
紅灯篭の灯りが揺らめく薄暗い廊下を幾度か折れると、目的の一室に辿り着く。 店の扉と同じ装飾の施された、重厚な両開きの扉の右を引き開ける。
「すみません師匠、お待たせ――」
目の端を、白く光る鋭利な物体が横切り、開けなかった左の扉に突き刺さる。 横目で確認すると、それは見事な象嵌細工の柄を持った小刀だった。
「遅ぇぞ、新入り丁稚」
投げられた小刀の刃のような、鋭利で冷たい声が飛ばされる。 顔を見なくても分かる、「超」が三つは付く不機嫌さ。 確か彼は、昨晩〈仕事〉だったのだ。
「仕方ないだろ。 店をカラッポにするんだから、それなりの準備をしないと――」
正面の卓子の上に行儀悪く胡坐をかいている、外見上僕より数歳年上の青年に、無駄を知りつつ抗弁を試みる。
「この店に客なんか来るわけねぇだろうが。ったく、おめぇが来ねぇから、話が進められなかったんだ。 お陰で俺様の睡眠時間が減る一方だろうが、このボケ」
この激しく口の悪い青年は白獏。 紅鳥と同じ先輩従業員。
名前の通り髪も肌も着る服も真っ白。 ついでに瞳の色まで白に近い銀色だ。
「そ、それは悪かったけど、白獏。 いちいち小刀投げるのは止めてよ。 白獏は大丈夫かもしれないけど、僕は当たったら怪我するんだからね」
一般的には当然と思える主張を口にしてみる。 結果は、怖ろしく険しい銀眼で睨まれるだけだと知っていても。
「丁稚。 それはつまり、俺の腕にいちゃもん付けてる、って訳だな?」
言いながら、白獏は無表情で新しい小刀を手の内に光らせる。 なんでそうなるのか、未だに白獏の思考回路は掴めない。
「まぁまぁ白獏君。 何も彩君は君の腕をどうこう言っている訳ではないんだよ。 他人にそういった凶器を投げるのは、礼儀に反する行為だと言っているのだよ。 実際、その通りなのだから」
身の危険に冷や汗を流していた僕の背後から、深く穏やかな声が助け舟を出した。
振り仰ぐと、長い黒髪に顔半分を隠した玄青師匠が、女なら蕩けてしまいそうな微笑を湛え、僕を見下ろしていた。
艶のある濃紫の袍子に茶金の腰帯を締め、大振りの扇子を差している師匠は、「こんな男もいるのか」と言いたくなるくらい綺麗な顔をしている。 だからと言って、女と見間違えるような、なよなよした感じは全くしない。
「彩君、店番中に悪かったね。 ま、取り敢えず中に入って。 紅鳥、花茶を淹れてくれるかね?」
紅鳥はにこりと微笑んで、部屋の奥へ消える。 その姿を見送ると、師匠は大きな手を僕の肩にかけ、室内へと促した。
並んで歩くと、僕の頭は師匠の肩にようやく届く程度。 これでもクラスでは、後ろから二番目に高いのだけど。
中に入り、これまた凝った意匠の椅子に腰掛けると、紅鳥がお茶を運んで来てくれた。 白い磁気の茶碗に注がれた金色の花茶は、爽やかな微香を立ち上らせる。
師匠は花茶を一口含むと、茶碗を卓子の上に置き、腰に差していた扇子を広げ従業員達を見渡す。
扇子で口元を軽く覆い微笑むと、玄青師匠はゆっくりと口を開いた。
「さてと、では〈仕事〉の話に入ろうか」