17 「深くなるのは謎ばかり」
17 「深くなるのは謎ばかり」
十一月十九日月曜日 晴れ
『近都分明似儼然
遠観自在若飛仙。
他年得傍蟾宮客髀
不在梅邊在柳邊。』 ※1
古典の名作の中に出てくる詩。
夢の中で出逢った書生と恋に落ちた主人公の女性は、夢から醒めた後も夢中の男性を恋い慕い、終には儚くなってしまう。
女性は、生前自分の姿を掛け軸に描き、この詩を書き添えとある場所に埋めさせた。
細かな過程や最終的結末は様々だけど、この話に限らず、恋のために命儚くなる女性(男にもいる)の話は珍しくはない。
もっとも、この話は最終的には念願かない、幸せな結末を迎えるのだけど――。
「――けどなんかあの絵には、しっくりこないよな……」
午前の授業が終わり、生徒は各々気の合った友人と昼食を買いに売店や学食へ向かう。 持参した弁当を教室で食べる生徒も少なくない。 僕は後者。 売店や学食を利用するのは月に二・三回、基本は、大井が作る栄養バランス完璧な弁当。(ちなみに、全部が全部作ってもらっているわけではない。 僕も出し巻き卵やキンピラなどの副菜を作る――こともある)
「メシ喰わねえの? 弁当持ってきてんだろ? 要らないなら仕方ないからもらってやんぞ?」
死んだ魚の目をしていた授業中から一転、つやつや輝く目をしている。 ちなみに自分が持参した弁当(三重箱)は既に二段目の半分以上がなくなっている。
「登校前に麺麭も買ってただろう? だいたいもう少しゆっくり、味わって食べろよな、授業終わってまだ十分しか経ってないのに、なにほとんど食べ終わってんだよ?」
「二十分に味わってるよー。 光哥の料理が美味すぎるからなくなるのが速いんだ。 それよか彩、体調いいのか? 週末具合悪かったんだろ? はっきり言って顔色悪いぞ? 目の下にクマできてるし」
もぐもぐ口を動かしながら、公孫秀は空いていた前の席に座り、僕の顔を覗き込む。
金曜に海角で分かれて以来、秀とは今日学校に来るまで一度も会っていない。 なのに何故、ムータン婦人と大井以外知らない、僕の週末の体調を知っているのか――。
「秀さ、ひょっとしなくても一昨日の晩、またうちに忍び込んだ?」
夢現に、捕り物があってるらしい物音を、聞いた気がする……しかも五・六・七回。
「大井の爺さん酷ぇんだぜ、あの晩さ、上手いこと彩の部屋の窓まで辿りついてラッキー、って思ったらお前寝ててさ。 窓を叩こうとしたら爺さんに捕まってよ。 まだ九時過ぎだったのに寝てるなんて変だと思ってさ、理由訊いたら体調悪いっていうから、見舞いしたいって言ったのに〝今宵はご遠慮いただきたい〟の一点張りでさあ。 時間変えて何回かチャレンジしたけど毎回阻まれてさ、最後はとうとう座禅だぜ、しかも一時間。 昨日は四妹が体調崩してたからさ、昼間に少しだけ様子を見に行ってみたら、おまえ、婆さん家に行ったって。 無理して悪化させてないか心配してたんだぞう。 どうだ? 友情だろう?」
「友情」は非常にありがたいけど、夜中にそこまでするのは如何かと思う。 まあ、そこは〝思い立ったら即行動〟の秀らしいし、心配してくれる友人がいることは、素直に嬉しいことだ。
「別に大したことはないんだ。 色々あってちょっと寝不足が続いて――……」
話し始めて、ふいに金曜の悪夢を思い出す。
「……秀。 〈百彩堂〉に極悪凶暴店員がいること、知ってた?」
三重弁当箱を専用袋に入れながら、秀は頭を少し傾けちょっと考えた後、にかっと笑う。
「なかなか味わえないスリルだったろ? あの白い兄ちゃんのおかげで、あの店にはコソ泥入れないって話だもんな。 オレいつも店先で見っけられて小刀投げられんの」
「な~に~が、〝なかなか味わえないスリル〟だよっ! 殺人行為だろ、あんな凶暴な店員がいるならいるって言えよ! それ以前に、あれが店? 埃が商品、みたいな状況だったぞ。 買い物に行って命の危険にさらされた末に掃除までするはめになるって変だろう」
卓子を叩き、少し荒げた声を上げたので、教室に残っていた生徒諸君の注目を浴びてしまった。 軽く咳払いして座り直す。
僕の怒りをよそに、秀は目を更に輝かせ前のめりになる。
「すげえ、彩。 本当に店内に入れたんだ! オレ、あの兄ちゃんに阻まれて店ん中入れたことないんだ。 なに何? 詳しく聞かせろよ。 他の店員は? なんか面白いもん置いてた? 〝埃が商品〟って? なんで〝掃除〟することになったん?」
「なんでって――……」
それは僕が訊きたいくらいだ。
「――知りたければ自分で確認してくればいいだろ? もれなく〝スリル〟が味わえる。 これ以外、僕が秀に伝えられる〝情報〟はない!」
〈百彩堂〉で見聞きした内容、及び得た品について、『関わりのない人間に〝話さない〟〝見せない〟』という条件で、とある〈試供品〉をもらった。 だから、話すわけにはいかない。
その条件がなくても、これ以上口を開くと、秀に文句ばかり言いそうなので、黙るに限る。
「えーケチぃ、なんで? ちょこっとくらい教えてくれてもいいじゃん! あそこが文具店で〈けしもの屋〉っていう綽名で呼ばれてるって情報は本当だぞ。 それとも何? もう文具屋じゃなかったのか? 店員情報については、行けば分かることじゃん。 前情報入れてたらおまえ、行くの止めただろ? 探してる商品があるかの確実性もなくて、危険だけあるような店だって知ってたら、彩、行ったか? 身の安全を優先した、違うか?」
鋭い。 さすがは十三年来のつきあい。
「――確かに。 あの店の存在を教えてもらったことは……うん、感謝しているよ。 ごめん、言い方が悪かった」
少しむくれ顔の秀に素直に頭を下げる。
秀は僕の弁当からだし巻き卵を抜き取り口に放り込む。
「これでチャラな。 で? 目的のモノなかったの? 〈けしもの屋〉の由来になるような、消しゴムとか修正液とかは? まさかあの兄ちゃんが殺し屋で消すのは人間、な~んて愉快なオチじゃないよな? そんな必殺仕事人みたいな仕事を表だってさせとくほど、天堂島の警察ものんきじゃないだろし」
客に小刀投げる店員が野放しにされているだけで、十分のんきだと思うけど……。
「――微妙に焦点のずれた商品は売っていたみたいだよ。 埃に埋もれて半分しか見てないけど……」
店内の惨状が再び脳裏に浮かぶ。
ため息が漏れる。
ムータン婦人宅の壁だけでも気が重いのに、悲惨極めたあの店内を、「店」と呼べる状態に戻す、という約束を僕はさせられてしまった。 幸いなのは、清掃完了の期限を設定されていないことくらい。
「どしたの? 胃が痛いのか?」
言いながら、僕の弁当の中身を次々口に放り込む。 色々な意味で、本当に胃が痛くなってきた。
「――食べていいから、箸つかえよ」
箸ごと弁当を秀に押しやる。 当然のごとく受け取った秀は、顔を真横に傾け僕の顔を凝視しながら「そっか」とつぶやいた。
僕が金曜日のこと――つまりは〈百彩堂〉でのことを「本気で」話したくないということを、これで、ようやく、察してくれたに違いない。
相手が「嫌がっている」ことを理解すれば、知りたがりの秀も、質問攻めにすることは(ほぼ)ない。
秀は僕の弁当を、何食か抜かれた欠食児さながらのスピードで食べていく。 さっき食べた三重箱の中身は、いったい何処へ行ったんだろう。
「――んで?」
「――んで??」
「金曜のこと、話したくないんだろ? なら土曜は? 大井の爺さんは詳しく言わなかったけど、彩、毛虫婆さん家で倒れたんだろ? 何があったん? 昨日は訪問日でもないのに行ったってことは、目的達成できそうなのか? なんか、画期的なモノを手に入れられたとか?」
本気で、がっくりと肩を落としたくなった。
金曜のことと土曜のことは、密接につながっているのだけど、秀にとって金曜のことは金曜のこと、土曜は土曜で別の話。 事情を知らないのだから、無理からぬことだけど……。
「僕さ、秀を本当に羨ましく思うよ……」
「うわ、なにそれ愛の告白? そんなイマサラなこと口にするなんて、受け止めてやるけど彩、やっぱ熱でもあるんじゃねえの? おまえがそんな素直なこと口にするなんてさ、末期じゃない?」
そんな告白をしたわけではないけど、真実そう思うことがある。
秀は、自分の関心事に嘘や誤魔化しなんてしない。 疑問に感じたことは素直に堂々と、口に出して真っ直ぐ相手に問う。
僕には出来ない、秀を羨む点のひとつ。
「訊いてみて、いいかな……」
呟くような僕の言葉に、秀は首をかしげるだけで、何も言わなかった。
*
昨日の婆さんは、いつもと違っていた。
訪問日でもないのに現れた僕に、婆さんは少し驚き、念を押すように体調を尋ねたが、僕を追い返そうとはしなかった。
僕をいつもの房間へ通すと、一人院子に出て、僕が帰るまでずっと、灰色の雲が覆う空を見ていた。
僕は僕で、そんな婆さんに必要以上の言葉をかけることができず、壁の染みと向かい合った。
金曜、〈百彩堂〉で渡された、手のひらに収まるほど小さな白磁製の薬瓶。
中には、いくら〈試供品〉とはいえ、たった数滴の液体しか入っていない。
土曜は、結局何も作業できないまま家に帰ったので試せなかった。 次の訪問日である火曜まで待っても良かったけど、どうしても早く確認をしておきたかった。
婆さんの目に触れないよう、壁はブルーシートで覆っていた。 捲ると、黒々とした禍々しい染みが変わらずにあった。
用意してきた白布に瓶を傾ける。
少しとろりとした無色無臭の液体が、瓶の口から布に落ちる。 湿った部分で一回、染みを拭った。
途端、ぞぞっと背筋に悪寒が走る。
黒染みが、悲鳴をあげた気がした。
ガラスを爪で引っ掻いたような、不快で、耳を塞ぎたくなる奇音。
壁から布を離すと、音は聞こえなくなった。
気持ち悪い冷や汗がこめかみに流れた。
拭った部分だけ、穴を空けたように染みが消えていた。 代わりに布が、どす黒く変色していた。
『もし、これで染みが〝消えた〟ら、君はもうそこへ行かない方が、いい――』
玄青と名乗った老板の声が、いま耳元で囁かれているかのように聞こえた。
その理由は聞いていない。 正確に言うと、教えてもらえなかった。
寝室の掛け軸の詩――。
いったい誰が、何を思い書いたのか。
この謎の液体で、消えた染みの正体。
婆さんの家へ行かない方がいいという理由。
あっちにもこっちにも、訊きたい事がありすぎる。
※1 湯顯祖 《牡丹亭》 人民文学出版社より引用