16 「現実裏の非現実」
16 「現実裏の非現実」
十一月十七日土曜日 (のはず)
絶句。
起・承・転・結、の四句からなる漢詩の形式ではない。 言葉がつまって「絶句」するのは、どんな場合か?
脳味噌が、目にした対象をしかと認識する前に、身体が動きを止めてしまうのは、どのような状況下?
どちらにしても、正と負のパターンがあると思う。
そして――。
幸か不幸か、昨日僕は、両パターンを身を以って体験出来た。
*
〈百彩堂〉の重厚な扉を開けると、同時にドアベルの時代を感じさせる乾いた音が響く。
ここまでは普通。 この後が問題。
ドアベルの響きに合わせ、霧か霞みか靄か、が室内にたちこめ視界を不鮮明にした。 お化け屋敷でもあるまいに、不可解な現象。
しかも、これが普通の靄ならば、まだよかった。 ところがこれは、吸い込むと激しい咳くしゃみ鼻水を誘発するシロモノだった。
激しく咳き込むこと数回、ハンカチで口を押さえ、ようやく呼吸を整え顔を上げた時、靄はいくらか薄くなり、床に沈んで――正確にいえば、再び積っていった。
「――……まさか、とは思うけど……」
確認したくない疑念を、それでも晴らすため、床に降り積もる白いもやもやから正面、四方の壁、そして天井へと、順に視線を送った。
予測を超える光景。 惨状、といってもよい気がしてくる。
クモの巣の展示場か、と思いたくなる天井は、オブジェの昆虫(新鮮なものから干物になったものまで)が、さながらクリスマスツリーの飾りのようにぶら下がり、左右と正面にある陳列棚や柜台(らしき)台の上には、雑然と物(おそらく商品)が置かれ、その上に、床と同じかそれ以上に厚みある埃がうず高く降り積もっている。
埃と共に、鼠がかじったと思しき紙屑の残骸、そしてこれが一番喜ばしくない、天堂島名物とも言われる巨大ゴキブリの死骸、とその排泄物。 実際に目にしたのは初めてだけど、あのツヤっと光沢のある黒茶色で楕円形の昆虫は、まず間違いなく、それ、だろう。 話に聞いて予想していた以上に、大きい。
公孫秀の自室を代表に、足の踏み場もない、雑然とした「巣」の如き室内も幾例か見て来たので、多少の散らかりなら、大して気にはしない。 最近では新たに、ムータン婦人宅の衝撃もあって、荒れた室内に対して耐性は増したと思っていた。
しかし、それらはまだ甘かった。
「――比較の問題じゃ、ないような……」
ここは現在進行形で営業中の「店」、であるはず。 なのに、このありさまは何事?
埃の膜を被った硝子シェード越しの黄色い灯に照らされ、全てが朧に、物悲しく見える。
目的の品が、この埃の下に埋蔵されている可能性は……なさそうだけれど、聞くだけは聞いてみなくてはと思い、店員の姿を探す。 が、見当らない。
時間的にみて、奥に入って夕飯でも食べているのかもしれない。
「すみません、お尋ねしたいことがあるのですが、どなたかいらっしゃいませんか?」
口元をハンカチで覆ったまま、店の奥に伸びる暗い廊下に、それなりに大きな声で呼びかける。 しかし、店員の姿は現れず、応えの言葉すらも聞こえてはこない。 二回同じ呼びかけをしても、以下同文。
どこぞの宮殿ほどに広大でなければ、声は届くだろうに。
そも、ドアベルが鳴った時点で、来客があったことは伝わっているはず。
ふつふつと、怒りが込み上げてきた。
こんな廃屋も同然の有様で、〈店〉などと称してよいのか?
しかも、「現在不在」等の張り出しでもしているならまだしも、来店して、対応を求めている客を無視するなんて、店員の接客教育はどうなってんだ。
「誰も、いないんですか?」
ちょっと不機嫌な声で、もう一度だけ、人の有無を確かめるように呼び掛ける。
タンッ。
乾いた硬質の音が、静寂の店内に短く響く。
気のせいでなければ、僕の目の前を、なにやら輝く物体が、過ったような――。
「……うるせぇ……」
突然の声にぎくりとする。 悪いことをしていたわけでもないのに、反射的に身体がすくむ。
「いい気分で寝てたってのに、ぎゃーすか騒ぎやがって――。 用件をさっさと言いな」
まだ若い、といっても僕よりは年のいった青年の声。 その出所は、埃に埋もれた左方柜台の奥のよう。 声の主を求め視線を向けると、柜台の上で組まれた足が目に入る。 白い靴白い裤子で、ほとんど保護色。(けど、さっきまではなかったような……。) 肝心の足から上は見えない。 それ以前に、商品の上に足を組むのは、問題ではないだろうか?
「あの、この店の方、ですか?」
タタン、と、先と同じ音が上がる。
音源は僕の右方。 そして、明らかに音の数と同じ数の光が、僕の顔の前を疾っていった。
冷や汗が流れる。 音をたてた物を確かめるべく、顔だけ右に向けてみる。
「――……!!」
離れていて見え難いが、三本の小刀らしき物が、陳列棚の木枠に突き立っていた。 ひょっとしなくてもあれを、この店員(らしき)人は、僕に、向かって投げたのか? あり得ない、普通なら。
「オレは、用件をサッサと言え、っていったよなあ――?」
殺気を覚え視線を左方に戻す。
この店に入って三回目(?)の絶句。
真っ白――。
古風な、古装劇スタイルの衣装から長めの髪、そして、薄暗くてはっきりはしないけれど、おそらくは瞳の色も、白。 色素が薄いとかいう問題ではなく、白い。
真っ白な青年の手には小刀。 その白刃が、薄明りを受け鈍く光っている。 多分、棚に突き立っているのと同じ形状。 凶器を持つ手が緩やかに動く。
「ま、ま、待って、僕はただ――」
動揺している僕を見据えている白の瞳が、小刀の刃と同じような銀の光沢を帯びた。
「――てめえ、どこから来た?」
元々不機嫌そうだった白い店員の表情が険しくなる。 苦情の一つは言おうと思っていたけれど、まだ口にはしていないのに――。
「何処から来たと、聞いてるんだ!」
言葉と共に、白店員は柜台をひらりと飛び越え、僕の目の前に微量の埃と共に降り立つ。 僕より頭一つは大きいのに、なんとも軽くてしなやかな動き。
なんて、感心してしまっている僕の胸座を、白店員は掴みあげた。 目の前には白銀の小刀が光る。
「ど、〝何処から〟って、僕はただ買い物に来ただけで――は、離して下さいよっ」
切れ長の据わった白の瞳と刃の鋭利さが、二重に僕を切り裂く。(いや、実際には少しも切られてはないのだけど。) だけど、冗談は抜きに、身の危険を感じている。
命の危険を、何故文具屋に来て感じなくちゃいけないんだ? やはり秀のやつの「すんげー面白い」場所は、ロクなところではない。
「臭うんだよ、てめえ」
白店員は締め上げるように、どんどん僕を持ちあげるものだから、足が床にしっかり着かなくなっていく。
「ふ、風呂には毎日入ってますっ。 今朝だって座禅の後に行水――って、話すにしても、とにかく離して下さいよ、この状態は、ちょっと苦しい――……」
本当に、呼吸がし難く乱れてきた。 両手は自由なのだけど、相手の力が強いし、こういう直接的暴力に曝されることに慣れていないから、対応の仕方が分からない。 大井に、ちゃんと護身術を習っておけばよかった――。
しゃらん――。
鈴の音が降るように響いた。
いや、響いたように感じられた。
霞む視界の端に、鮮やかな紅が翻る。 続いて、白い小さな手が視界に入り、白店員の手に触れた。
「なんだ紅鳥。 こいつを離せっていうのか?」
白店員の声が少し丸くなった。 それと同時に僕の足がしっかりと床に着く。
まだ胸座は掴まれたままだけど、呼吸は一気に楽になる。
再びしゃらんと、清音が周囲に響く。
命の危険の緊迫性が減った気がして、横目で新たに出現した「紅鳥」なる人物の姿を確認。
心臓が止まった気がした。
一拍後には、反動のように激しい動悸。 横目どころか、思わず顔ごとその女の子へ向けてしまった。
「可愛い」なんてありふれた言葉なら、十乗しても足りない女の子が、白店員の手に両手を重ね、大きな杏仁型の瞳で見上げていた。
ふるふると首を横に小さく振り、白店員の手を僕から外させた。 白店員は「ちっ」と舌打ちをして腕組みをし、僕はその隙に数歩後ろに下がると、服の乱れを簡単に直した。 視線は紅鳥という姑娘にむけたまま。
僕と同じ年くらいだろうか? 凶暴な白店員と同じく、古い絵に描かれる女性が着ていそうな、布をたっぷりつかった紅と淡黄の衣装を着ている。 流れる絹糸のような長い髪が、紅鳥姑娘が動く度にさらさらと動く。
気のせいか、その度に心地の良い、空気を揺らす鈴のような音が響く。 けれど、姑娘の身に付けている装飾の何れにも、鈴らしきものは見当たらない。
「だらしなく口開けて見てんじゃねえよ、エロませ餓鬼が」
この言葉に、自分が口を開けて見ていたことに気付き、慌てて口元を引き締める。
紅鳥姑娘は視線を僕に移し、にこりと微笑んだ。 それだけでまた、頬が緩みそうになったのに、姑娘は僕の傍らに寄ってきてちょこりと膝を折って挨拶をすると、僕の手を取り、手のひらに「大丈夫ですか?」と指で文字を書いた。 姑娘は、言葉が不自由なのかもしれない。
「えっ、あ、はい、大丈夫です。 ――その前に、僕こそありがとう。 この野蛮な店員さんから助けてくれて」
男が女に助けられるなんて情けない、と言う人々もいるかもしれないが、状況如何によっては、女が男を助ける場面だって多々あると思うし、現実、いま起こった事実は事実。
僕の言葉を聞くと、姑娘はふわりと花が咲くみたいに笑った。 軽く眩暈がするような綺麗な笑顔。 しかも、気のせいじゃなく、紅鳥姑娘が何かしらの行動をとると、周囲に柔らかく澄んだ音が響く。
例えは変だけど、この音を耳にすると、まるで布団の中か適温の風呂に浸かっているような、心地よい安心感に包まれる。
「――おい、餓鬼。 その〝野蛮な店員〟ってのは、オレのことか?」
声が低くなっている。 首筋にピリピリとした感覚。 危険が戻ってくる感じ。 しかし、引き下がる気にはなれない。
「事実でしょう? 来店した客にいきなり小刀投げるなんて、野蛮が嫌なら〝凶暴〟に言い換えましょうか? そんなことしてたら、あなただけではなく、この店全体の印象が悪くなるって、考えないんですか??」
腕組みしていた手をゆっくりほどきながら、白店員は、口の端に歪んだ笑みを浮かべた。 紅鳥姑娘が慌てて白店員の傍に歩み寄りふるふると首を振ったが、小さな彼女は、簡単に後方へ押しやられてしまった。
「紅鳥は向こうへ行ってな。 遺言、残せないのは自分のせいだと思えよ」
「――だからっ、そういう行動が――」
予測は付いていたので逃げる。
護身術を極めてはいなくても、だてに大井に鍛錬されているわけではない。 ついでに言えば、秀と共に行動をしていれば、逃走しなければならない状況にも度々直面する。 秀には遠く及ばないが、避難するのは慣れている。
勢いよく床を蹴り、埃をわざと巻き上げ、なるべく態勢を低くし、すばやく物陰へ移動する。 柜台や陳列棚の上の物体に気を配っている余裕はない。 落として踏んでも、この店員のせいだ。 ついでに、無事生きて帰れても、肺を病んだらやっぱりこの店員のせいだ。 動く度、煙のように巻き上がる大量の埃を吸い込んで、呼吸器を冒されかねない。
「ちょろちょろ動くなっ。 時々来やがる小猿と同じく逃げまわってんじゃねえよ。 てめえの年頃の餓鬼は皆猿か? 大人しくやられろっ」
ひょっとして、その「小猿」って……。
「冗談じゃないっ、なんで大人しくやられなきゃいけないんだよっ。 これ、明らかに犯罪だろ。 暴行傷害で済んでも懲役、僕が死んだら極刑だってあり得るんだからなっ」
これまでに投げられた小刀は十三本。 いったい、何本隠し持っているんだ? 早く表に出ないと、真剣に危ないかも。
「極刑だ? そんなもんは人間――」
パーンと、乾いた音が上がる。 同時に、凶暴店員の言葉が途切れる。
「――……な、何しやがる、爺ィっ」
なんとか屋外へ逃れようと、柜台と扉の間のくぼみに隠れていたので、凶暴店員に何が起こったのか分からない。 顔を出して確認しても大丈夫か、判断に迷う。
「紅鳥が、表で白獏君が暴れているって言うから来てみたんだけど、君、何をしていたのかな?」
第三の人物の声。 「白獏」というのが、あの凶暴店員の名前らしい。
しゃらん、という音に顔を上げると、目の前に紅鳥姑娘が屈みこみ、僕ににこりと微笑みかけていた。
幅広い袖口から小さな手を出して、床についていた僕の手をそっと取り、引っ張る。 どうやら「出て来て」と言っているらしい。
姑娘に引っ張られ、少しドキドキしながら立ちあがり、柜台の陰から出る。
正面に、凶暴店員白獏と、長い黒髪で顔半分を隠した長身の男性が立っていた。
古典的な艶のある濃紫の長袍に身を包み、口元を大ぶりの金扇子で隠しているが、微笑んでいるのは雰囲気で伝わる。
「君だね、白獏君の被害にあったのは。 申し訳なかったね、怪我はないかい?」
「何が悪――」
白獏が反論しかけた途端、スパーンと、気持ちのよい打撃音が店内に響く。
見ていたはずなのに、一連の動作が確認できなかった。 が、黒髪の男性の扇子が、白獏の頭頂部を打ち据えたのは間違いないと思う。 白獏は頭を抱え、痛みに耐えている模様。
「白獏君は、〝反省〟という言葉を、早く覚えようね。 ここ、でいう公序良俗という言葉に含まれる、数々の道義的礼節も、もう少し身に付けなければだな」
「何が反省で何が道義で礼節だ。 あんたが言うのがちゃんちゃらおかしいってんだ、この倒錯衣装爺ィが」
パチン、と扇子がたたまれ、男性の口元が露わになる。 やはり微笑している。
けれど、髪に隠れていない左目だけが、笑っていない。 白獏以上に切れ長の鋭い黒の瞳が、白獏を突き刺すように見据えている。
男性は扇子で、白獏の顎を持ち上げる。
「まだ、言いたい言葉、は、あるかね? 大切な店員の最期の言葉だ。 傾聴するよ」
笑っているのに言葉が怖い。
別に直接的な表現があるわけでもないのに、黒い。 いや、笑ったままで婉曲的だから、余計に怖いのか。 しかも、発する気が半端なく重い。 離れて見ているだけの僕がひしひしと感じる程の威圧。 ならば、目の前で浴びせかけられている白獏の心中や如何ばかりか。 ちらと、表情を窺ってみる。 やはり、明らかに気圧されている様子。
紅鳥姑娘が、「倒錯衣装爺ィ」と呼ばれた男性のもとへ行き、僕を助けた時と同じように首を振った。 悲しげな音がその場を満たす。 男性ははらりと扇子を広げると、今度は目も一緒に微笑んだ。
「冗談だよ、紅鳥。 白獏君でも、うちでは大切な人材だから、消すのはいよいよ、の時。 その時はこんな前置きはないから。 だから、白獏。 あの少年にしたことを反省する、よねえ?」
ひきつった、ぎこちない動きで白獏は肯首した。 促されて、かなり嫌々そうだけれど、僕へ謝罪の言葉も口にした。
さらりと怖いことを言った(気がする)男性が、どうもこの店のトップらしい。
「さて、と――」
男性の視線が僕に向けられる。 思わず姿勢を正す。 改めて見ると、顔半分しか見えないけれど、容貌の際立った男性だ。
「君は、〈百彩堂〉へ買い物、に来たそうだけれど、何を、お求めかな?」
パチン、と扇子の音が響く。
*
「――彩、結城彩」
婆さんの逼迫した声で、夢から戻された。
「――ば……さん?」
「気分はどうだ?」
明らかに安堵の息を吐いたのが分かった。
どうやら僕は、寝台に寝かされているようだ。 婆さんは傍らの椅子に座り、僕の手をずっと握っていた様子。
「……ああ、僕、倒れて……いえ、少し頭が重いですが、大丈夫です」
起き上がろうとする僕の肩を、婆さんが押さえた。
「無理をするな。 もう少し、横になっておくんだ」
確かに、まだ少し眩暈が残っているので素直に従う。 意外な事に、婆さんが再び僕の手を握った。
「ムータンさんが、ここまで僕を? ずっと傍に?」
「――仕方なしにだ。 この家で倒れてどうにかなられたら、あたしの面子に関わる。 まったく、お前が言いつけを守らなかったからだ。 ……二度と、するんじゃないよ――……」
ぎゅっと僕の手を握った後、婆さんは立ち上がり、背を向け房間を出て行った。
婆さんの去った室内を見渡す。
代赭色の壁に、磨かれた焦茶の家具と窓枠。 ここからも、院子の白牡丹が見える。
初めて通された房間。 作業をしている房間と比べたらとても狭い、個人の空間。
寝台と小さな桌子に椅子の他、白牡丹を描いた掛け軸が一幅、寝台と対面する壁に掛けられている。
掛け軸の右上部には句が書かれている。 内容は、思慕の念――。
『白は、「悼む色」だね――』
ついさっきまで夢で反芻していた、昨日の店でのやり取りが思い出される。
『その御婦人は何故、〝白〟に、こだわるのだろうね』
何故、なんだろう――……。