15 「気分は連日厄日」
※ 文末に、まったく意味のない落描きを置いています。
イラストなど見たくない方は、挿絵の非表示を推奨いたします。
内容には全く無関係です。 しかも態度が悪い…です。
15 「気分は連日厄日」
十一月十七日土曜日 曇りのち晴れ
ムータン婦人宅へは、十時に着けばよいのだけど、少し早めに家を出た。
時間ぎりぎりで慌てるより、少々余裕を持って行動するに越したことはないから。
まあ、一時間以上の余裕は、「少々」とは言わないけれど……。
十一月も半ばになると、真っ昼間の陽光の下でない限り、暑さは大して感じなくなる。
空気が軽く爽やかになるこの時期は、散歩するにはもってこいだ。
天涯の空気はもともと澄んでいるけれど、秋に入り更に透明さを増した。 空の青も、日差しが和らいだせいか心なし優しい。
もっとも今の僕は、澄み渡った青空や清々しい涼風を、「わあ、気持ちが良いねえ」などと、悠長に楽しめる気分ではない。
その一因は、昨晩、悶々と考えている内に刻々と時間だけが過ぎ、結局、一睡もせぬまま朝を迎えてしまったから。
不眠であろうと、朝の定例コース(座禅→行水→朝餉)は変わらぬ時間に終えた。
若干、食が進みにくかったものの、いつも通りに全てをこなし、養分摂取も十分だ。
普段なら、この一連の過程で完全に目が覚めるのだけど、今日はどうにも頭がすっきりしない。
むしろ、時間が経つ程に身体は重く、気力ゼロになっていく――。
「これではまずい!」と、かろうじて活動を続けている脳の一部が警鐘を鳴らす。
ムータン婦人の家に着くまでには、頭をしゃっきりさせておかなければ「嫌味の嵐」だ、という思いもあったし、室内でじっとしていると、昨日の悪夢、を思い出すだけなので、目覚まし+気分転換……といった目的で早めに家を出たのだ。
そう。 じっとしていては思い起こす隙を与えてしまう。 考える隙を与えぬよう、極力身体を動かしておこうと思ったのだけど、鉛のように重い身体が、気を紛わせるだけのアクティブな行動を取りきれないでいる。
「――……っ」
背中にぞぞっと寒気が走る。
思い出しかけたものを、脳内から追い払うべく頭を振る。
と、眩暈がした。
たかが頭を振ったくらいで眩暈を起こすなんて、やっぱり、疲れているんだ。(もちろん、睡眠を取っていないことも大きいけれど。)
この「疲れ」=昨日の影響が、全身隅々余すことなく残っているのを、引きずりたくなる足や異様に重い腕から改めて、ひしひしと感じる。
頭の中も凝固した溶岩が詰まっているみたい。 重いし、まったく動く気配なし。
それでも、眩暈覚悟でもう一度頭を振る。
「……と、とにか……く、昨日の事は忘れて、そう、忘れて、今日の作業に集中しなきゃ。 今日こそあの染みを消す、本日の目標本日の課題……」
自己暗示にもならない言葉をぶつぶつ繰り返しながら、やたら遅い歩みで婆さんの家を目指す。
普段なら二十分弱で着くけれど、この歩調では三十分はかかる。 出発時間を一時間以上の早めたのは、あながち間違いではなかったかも。
九時三十五分、目的地の門前に到着。
「余裕を持って」が、僕の基本姿勢とはいえ、いくらなんでも早過ぎた。
「――遅れても文句の嵐だけど、早過ぎても嫌味の乱打だよな、きっと……」
ため息交じりに、既に見慣れた家屋をじっくりと見遣る。
変わらずの、荒れ果てた外観。
屋根に生えているのは、背の高い草とばかり思っていたけど、一か月の観察結果、どうも樹木の若木だと判明。 成長したら婆さんの家は根っこの下だ。
内装が終わったら、外側も直さなくてはいけないと思う。 自然のままに風化するのも、趣があって、それはそれで良いかもだけど、婆さんが住んでいる間は無事に立っていてもらわないと困る。
この家が倒壊したら、これまでの僕の努力は、全て無駄になってしまうわけだから。
「――まずは、現在の内装作業を終わらせることだよな。 うん」
嫌味の五つ六つ言われたところで今更、だ。
覚悟を決めて、二十分早く玄関を叩く。
インターホンくらい付けて欲しいのだけど、居留守を使われたらどの道意味なしなので、敢えて婆さんに要望はしない。
「ムータンさん、彩です。 予定より早いですけれど、いいですか?」
大声で三・四回呼ばわったが、無反応。
更に数回、手と口を動かしたけれど、結果は同じ。 いつもの居留守攻撃かと思ったけど、何か、違和感を覚える。
念のためドアノブに手をかけてみたけれど、当然のようにカギはかけられたまま。
「ムータンさん、ムータンさん?」
確認するように呼び掛けても、応えはない。
妙に、静かすぎる気がする。
周囲には人家がないのだから、静かなのはいつものことだけれど、あまりに何も聞こえない。
さやと葉を揺らす、僅かな風の音すらしない。
嫌な予感がする、というのはこういう感覚なのだろうか?
次の行動を具体的に考えるより、より速く身体が動く。
初訪問日以来初めて院子への小道を通り、白い木戸の前に立った。
「――ムータンさん!」
悪い予感というものは当り易いらしい。
深い赤の衣をまとったムータン婦人が、院子の真ん中に倒れていた。
院子を包み込む緑の中で、その赤が妙に生々しく映える。
「ムータンさん、ムータンさんっ」
「院子には入るな」という婆さんの言葉は欠片も頭になかった。
覚えていたとしても、人命救助のためならば、禁止事項だって破らざるを得ない。
古い木戸を押し開くと、初めて足を踏み入れた院子を駆け抜け、婆さんの傍らに膝をついた。
「大丈夫ですかっ、ムータンさん、ムータンさんっ」
肩に手をかけ、軽く身体を揺すってみたけれど、まったく反応がない。
転倒した時に頭を打っていてはいけないので、下手に動かすのは危険。 身体を揺するのはやめた。
救急車も呼ばなくてはだけど、この家、電話なんてあったっけ?
「ムータンさんっ、大丈夫ですか、聞こえますか? 僕の声、聞こえませんか? ムータンさんっ」
婆さんの耳元に顔を寄せ、大きな声で呼びかける。 繰り返し、繰り返し――。
頭の芯が、急速に凍えていくのが分かった。
嫌な予感は、恐怖に変わろうとしている。 冷たくなっていく手で、投げ出されていた婆さんの手を握る。 僕の手以上に冷たい。 体温を感じない――。
「――聞こえないの……婆さん。 ねえ、婆さんっ、聞こえたら指先だけでもいいから動かしてっ。 なあ、ばあさんっ、聞こえてるんだろっ??」
手にも声にも力が入ったのが良かったのか、握った手に、弱いながらも反応が返ってきた。
「――出て、お、いき……」
薄く眼を開いた婆さんの言葉に、肩の力が抜けた。
多少朦朧とはしていても、意識はあるようだし、毒が弱いながらも、憎まれ口も利ける。
ようやくほぅっと、息が吐ける。
相手が落ち着けば、こちらの調子も戻るというもの。 病人相手ではあるが、ガツンとひとこと言いたくなった。
「まったく、こんな状態で何を言ってるんですか。 だいたいですね――……」
屈めていた背を伸ばした途端のこと。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。
続いて激しい眩暈。
まるで最悪の車酔いをした時のよう。 真っ直ぐ立ってなどいられない。
「言った……だろうが、お前は、院子には入るなと――。 お前にこの院子は――……」
先よりしっかりした婆さんの声が上から降ってくる。
布をたっぷり使った婆さんの裙子が、しゃらりと、動く度に波音を立てる。
婆さんは体調が戻ったのか起き上がり、既に立っているらしい。
代わりに、今度は僕が緑の絨毯の上に倒れてしまっている。
婆さんがいつもより早い口調で何かを言っているが聞き取れない。 いや、聴く気力もない。
あっという間にブラックアウト。 まさに、闇の底へ落ちるよう。 かなり気持ちが悪い。
まったく、
昨日から一体、なんなんだ――?