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けしもの屋日誌  作者:
15/23

14 「海角の文房具屋」

   14 「海角の文房具屋」 


   ひき続き十一月十六日金曜日 晴れた


 僕の身の上語りを初めてから、ムータン婦人との距離は、更に数ミリは縮まった。

 訪問の度、少しずつ語る僕の話を、婆さんは表情を変えず、けれど確実に愉しんで聞いている。 時々、嫌味混じりの合いの手が入るのだけど、その言葉が、僕の話をちゃんと聞いている証拠。


 (おおむね)良好な雰囲気のおかげで、剥離・除去作業は順調に進み、十月最後の訪問日には、最後の一面の四分の一を残すだけとなっていた。

 ただこの壁が一番の曲者で、何度も重ね塗ったペンキや壁紙のために、半立体化している部分が数か所。

 僕はためらうことなく、半立体を平面に戻し、こびり付いた汚れを拭い取っていった。

 これが終わればいよいよ下地塗り、そして、婆さん希望の「真白」を塗ることができる。

 手にも自然力が込もるというもの。

 拭う度に、最初の壁色である赤が(よみがえ)る。 派手ではない、落ち着いた深みが品格を感じさせる茜色。 なのに、婆さんはこの色が好きではないという。 嫌いならば仕方がないけれど、少し惜しい気もする。 僕はむしろ、真白よりこの色の方が婆さんには似合っていると思うから。

 だけど、当の本人が嫌いと言うなら仕方がない。 僕は要望に副うまでだ。


 拭っていく中で、小さな灰色の染みを見つけた。

 どうせならその汚れもさっぱり落としたいと思い、汚れ落としを含ませた布で拭った。

 けれど全く落ちる様子が見えないので、少し力を込めて拭いた。

 そして、異変が起こった。


 灰色だった染みは濃さを増し、赤の中に黒々と浮かび上がった。

 布の汚れが壁に移ったのかとも思い、新しい面で拭きなおした。

 しかし、最初は大豆程の大きさだった染みは、更に黒く大きくなる。 何度新しい布に替えても結果は同じ。 それどころか、拭えば拭うほど染みは鮮明に、しかも大きくなっていく。

 まるで、零した水が地面に広がると同じ、壁の四方へまき散らされるように成長し、一定の大きさになると拡張を止めた。

 理解できない現象に絶句していた僕の背後で、椅子の倒れる音が響いた。

 振り返ると、口元を覆った婆さんが真っ蒼な顔で目を見開いていた。




「このガキっ、どこに目ぇつけてやがんだ。 気ィ付けて歩きやがれっ」

 

 肉厚の身体にぶつかった衝撃と浴びせられた怒声ではっと我に返る。

 途端に喧騒。 人いきれ。 通りすがりの人々が、ほんの一瞬僕に視線を置いて流れ去っていく。


「あ、す、すみません」


 ふう、と息を吐く。 ぶつかったのが怒鳴るだけの普通のおじさんでよかった。

 ここは海角。 天涯の広々とした歩行者の少ない(みち)とは違う。 考え事をして歩いていてはいけない。 罵声を浴びせられるだけでは済まない場合もあるらしいのだから。


「おーい、(さい)、なにぼやっとしてんだよ、こっちだって」


 溢れる人ゴミもなんのその、慣れた足取りでずんずん先を行く(しゅう)が、路の真ん中で立ち止まり手をぶんぶん振っている。 秀の声はかなりでかいしよく通るのだけど、周囲の人々の話声も負けていない。


「ボケっとしてると財布抜かれるぞ。 そんなことになったら、オレの目的が果たせなくなるだろ、気を付けろよ」


 いつの間に、秀の目的遂行が第一になったんだ?


「なあ阿彩(さい)、どうしたんだよ。 そんなボーっとしてるのってお前らしくないぞ。 なんかオナヤミゴトがあるのか? 美味しく物を食べるためには、不要物は腹にため込まないにかぎるんだぞぉ」


 横に並んだ僕に、秀は眉をしかめて説教ぶってみたのち、肩に手を置いてにかっと笑う。 秀なりに心配をしてくれているらしい。


「まあ、あると言えばあるんだけど……」


 秀に話したらこじれるだけだと思う。


「よし、じゃあその不要物のハナシをじっくり聞くために、あの店に入ろう。 あそこのモツ煮込み、すげー美味いんだ。 そろそろ冬限定メニューも出てると思うんだよな――」


「――さっき、休憩とか言って芒果(マンゴー)布甸(プリン)とタピオカ入り牛奶(ぎゅうにゅう)布甸(プリン)を二杯ずつ食べなかったか? 海角に着いた直後にはワンタン麺二杯肉包子(にくまん)四個串焼き六本を、〝燃料〟とか言って食べたよな。 お前の目的の半分は達して、僕の目的はまだ果たせていないぞ」


「十軒は回ったじゃん、目的の品がなかっただけでさ。 とにかくさ、固いこと言わずホレホレ、行こうって。 これ食ったら次の店案内するよ。 とっておきの店だぞぉ。 それにさ、彩はめったにこんな外れ来ないだろ? これも社会勉強だって。 なんでも経験しときゃ役立つって、ほら入った入った」


 確かに、秀のおかげで思いもしない場所にある小規模店を、最短距離で巡ってはいる。

 それは認めるし感謝しているが、飲み食いしている時間の方が長くないだろうか。

 おまけに、回ったどの店にも大差ない品物しか置いてなかった。 製品名が違って成分は一緒。 それでは買い求める意味がない。 資金に余裕があったとしても、無駄な買い物をいまはしたくない。 秀の手を借りるにしても、重量級の荷物を天涯まで持って帰るのは大変だ。 買う物は必要最低限にしたい。 だからこそ、これまでに試用していない製品を見つけたいのだけど、なかなかどうして簡単ではないらしい。

 微抵抗する僕の背をグイグイ押す秀の勢いに負け、ついに観念して店に一歩足を入れる。

 もう好きにしてくれ。


三少爺(サン・シャオイエ)


 右方から青年の声。

 二人揃って顔を向けると、公孫(こうそん)家の使用人である()(こう)が立っていた。


光哥(こうにい)? なんでここにいんの?」


(さい)様。 三少爺がいつもご迷惑をおかけしています」


 丁寧に頭を下げる李光は今年二十七歳。 知らなければ大学生くらいにしか見えない。

 大井と同じく非常に真面目で、誰に対しても敬語を崩さない。 公孫家内における、秀の良き理解者でありお目付けでもある。 代々公孫家に住み込みで仕えているらしく、秀のおむつ替えもしていたらしい。

 秀は彼の事を〝光哥(こうにい)〟と呼ぶ。 使用人であれ年上なのには違いないし、実兄達より秀にとっては親しみやすい存在なのだ。

 僕も彼の事は好きなので、秀につられて光哥と呼んでいる。


「光哥、どうしたの? 秀に用事があるんだよね? 僕に遠慮は要らないよ」


 李光はいま一度軽く頭を下げると、秀の顔に視線を移した。


翠環(すいかん)様が探しておられます」


四妹(ス―・メイ)が? なに、また熱でも出した?」


 翠環は秀の三歳下の妹で、この兄をとても慕っている。 病弱で、ほとんど屋敷から出られないので、自由に外を飛び回る秀が語る、面白おかしい話を聴くのが好きなのだ。 秀も、十人いる兄弟姉妹の中で、翠環だけは特別に可愛がっている。


「左様でございます。 急ぎお戻りを」


「――わかった。 と、いうわけだ彩。 悪い」


 頭を掻きながら秀は僕に頭を下げ、僕が渡していた地図に赤丸と住所を書き込む。

 ついでに、モツ煮込みの持ち帰り用注文も忘れない。 しかも三人前。


「〈百彩堂(ひゃくさいどう)〉? 天橋路九段って、ここは白雲路だから、中環駅近くだよな?」


「中環駅には近くなるけどかなり奥まってんだ。 試しにその文房具屋に行ってみ」 


「文房具屋? 〈百彩堂〉って、聞いたことはあるような……」


「ああ、文房四宝(ぶんぽうしほう)の老舗で知る人ぞ知るって店だったらしいからな。 いまはただの文具しか扱ってない廃業寸前の店なんだけど、すんげー面白いんだ。 毛虫婆さんちなみに攻め落とすの難しいとこなんだけどさ、上手く入り込めたら、意外と掘り出し物があるかもだぞ。 なんてたって別名〈けしもの屋〉だからな」


 婆さんの家と同じく攻め難い? 秀好みのミステリースポットと文房四宝の老舗――どうにも釣り合わない。

 まあ、古い建物に幽霊話の一つや二つあっても特別不思議ではないけれど、秀の「すんげー面白い」場所は、かなり胡散臭(うさんくさ)い場所、ということになる。 ムータン婦人の家も良い例だ。 そも、店なのに「入り込めたら」って、どういう意味だ? 〈けしもの屋〉って別名も微妙なんだけど……。


「――わかった、行ってみる。 助かったよ。 翠環によろしく」


「今度遊びに来てやってくれよ。 四妹、お前のこと哥哥(アニキ)と思ってんだからさ」


 持ち帰りの品を片手に、秀は李光と人ごみの中に消えて行った。 見送る僕にモツ代の請求が来る。 翠環への土産なら、甘い物の方が良かったんではないだろうか。

 時間は五時。

 夏と違い陽が沈むのが早い。 ぼやぼやしていたら暗くなる。 天橋路に行くのなら路面電車で五駅戻らなくてはいけない。

 文房具屋なら閉店時間も早いかもしれない。

 慌てて乗り場に行き、丁度到着した中環前駅往きへ飛び乗る。


 駅前大路はさっきまでいた白雲路より人で溢れていた。 大路の両脇に並ぶ店数も半端ではない。 既にネオンで煌びやかだ。

 行き交う人々の話声のこれまた大きいこと。 怒鳴りあっているみたいだけど、声の主の顔はだいたいどれも笑っているので、喧嘩ではないのだろう。

 考えてみれば金曜夜の始まり。

 一般的に、人々が一番浮かれる時間なのかもしれない。 これから気に入りの店にでも繰り出して、大いに飲み楽しもうってところだろう。 あの男女の一団はさしずめ合コンか? 笑って話しつつも、表情がいま一歩固い。 まだ互いに探り合いしてるって感じ。


「――なんて、人間観察してる場合じゃないか。 えっと、天橋路は……こっち」


 地図と道路標識などの案内板を頼りに天橋路九段を目指す。

 進めど進めど、人人人――。

 あまりの熱気に人酔いしそうだったけれど、脇道に入りいくつ目かの角を曲がったあたりから、急激に人数が少なくなった。

 更に進むと、通行人はいないに等しくなる。 路の両側に並ぶ店舗も、早々とシャッターを下ろしている。 駅前の店はあんなに客で溢れていたのに極差が激しい。

 この周囲は十四・五階建の古いビルに囲まれているため、大きく西に傾いた陽の光は届かない。

 街灯はあるけれど、電球が切れかけているのか薄暗い明りしか提供していない。


「道、間違ってない――よな……」


 道を尋ねたくても、誰もいないのでは尋ねようがない。 きょろきょろ周囲を見回していたら、錆かけた街灯の柱に、白ペンキでここの住所と思しき地名が書かれていた。

 天橋路八段。 間違っていないようだ。

 地図と照らし合わせ、さらに小路を進むと、少し大きな路に出た。


「海――」


 海角に来て、初めて海を目にした。

 しかも、半分沈んだ太陽が水平線上に金と朱の線を引いているなんとも美しい眺め。

 左右をビル影が黒く塗りつぶし、夕空と太陽、そして海とのコントラストを際立たせる。 これは天涯にはない眺望。


「なんて、見惚れてる場合じゃないって」


 時間は五時四十五分、秀が印を付けてくれた地図によれば、斜め前の路地を抜けたあたりに(くだん)の店はある。

 この店に求める品がなければ次を探さなくてはいけない。 時間は貴重だ。

 海の見える路を横切り、最後の小路に入る。

 街灯もない暗く狭い路地。 初めての場所でこの暗さ、足が少し遅くなる。 これで道を間違っていたら悲惨。

 不安が首をもたげ始めた頃、突然小路が途切れ、ぽかりと開けた空間に出る。

 長方形の空間の左右は瓦屋根の葺かれた古めかしい石壁があり、所々に大きな植木鉢の樹木が置かれている。 どれも見事な枝ぶり。 その傍には、陶磁製の円卓と(とう)

 これら後から置かれたもの以外、すべてが灰色だけれど、ちょっとした趣のある院子(にわ)のよう。 周囲のビルより低い壁の向こうから夕陽がこの限られた世界を明るく照らす。


「――なんだ、まともそう」


 何故か、ほっと胸をなでおろす。

 視界のど真ん中に、古めかしい構えの建物。

 これまでの通りでは見かけなかった、木と石が見事に調和した家屋。 重厚で「老舗」というに相応しい店構え。 

 間口は六間程か、奥行きは分からない。


 紅灯篭が入り口の左右にぶら下がり、ゆらゆらと摩訶不思議な光を放つ。 秀じゃないけれど、志怪や伝奇小説を思い起こさせる雰囲気。 中から出てくる老板女(おんなしゅじん)(何故か女性のイメージ)が、実は既にこの世の人ではなく、店を訪れた客に絶ち難い思いをよよと涙ながらに語る……なんて話の舞台にしてよさそう。

 傾いて、書かれた文字も判然としない看板が、更に想像をたくましくさせる。 いったい、創業何年なんだろう。


「――秀に感化されたかも」


 自分の想像に呆れつつ、重そうな木製ドアの前に立つ。 何故かまた少し緊張。

 開店時間も閉店時間も何も書かれていない。

 けれど硝子の張られた窓からのぞき見える店内には、黄色い明りが灯されている。

 少なくとも店員はいるのだろう。 それならば躊躇(ためら)うより行動だ。

 見た目通り重い木製のドアを引くと、カラランと古びたドアベルの音が響く。 どことなく懐かしい感じ。


 ――などと悠長なことを思えたのは束の間。


 ふいに視界が霞む。

 外から見えた灯火の黄光が滲んで見える。 まるで霧か霞みの中にいるみたい。


 なんで?



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