11 「後悔と意地と小さな怪我」
11 「後悔と意地と小さな怪我」
以降、明記ない限り昨年
十月十九日土曜日 快晴
週二日、各二時間。
火曜日と金曜日、午後三時から五時。
それが、僕が学院側から言い渡された、独橋路四番地への訪問予定日時。
のはずだった――。
それが週三回に変わったのは、今週火曜の午後三時五十分頃の話。
「手際の悪い餓鬼だ。 そんなちんたらやっていたんじゃお前の卒業までかかるんじゃあないかい? 白を塗る前に、緑の黴が生えちまうだろうよ」
訪問二回目の火曜日。 ムータン婦人開口一番の台詞。 今日も華やかな大紅一色の装い。
「すみません。 なにぶん、慣れない作業なもので――。 慌ててやって、壁に傷を付けてもいけないですから……」
ビニールシートの上に置いた脚立に跨り、皮スキ(汚れ落とし用のヘラ)の柄を握り締め答える。 こびり付いたペンキをこそぎ落とすため、顔は壁に向けたまま。 ついでに、無駄と思いつつ自分の名前を強調して言ってみる。
「先週末にこっちの用件は言っておいたのに、当日になって道具を運び込むとはなあ。 まあ、この一連の段取りで、小僧、お前の手際の悪さは分かったよ。 昨日のうちに運び込んでおけば、下準備の三十分を無駄にせずに済んだんだよ」
念押しが効いたのか、〝餓鬼〟から〝小僧〟には昇格した。 その変化に意味があるか?と考えると、虚しい気もするが……。
どの口が「昨日のうちに運び込んでおけば」というか? 昨日夕方訪ねた時、居留守を使ったのはどこのどいつだ? 承諾もなしに、邪魔になるのが目に見えている道具を無断で置いていく訳にもゆかず、僕は重い脚立・ビニールシート他を、再び学校へ持ち帰るはめとなった。 あれら重量級かつ嵩張る荷物を担いで学校からここまで往復するのは、育ち盛りの健康な少年でも、かなりの重労働だったんだ――などとは言えないので、「申し訳ありませでした」と、せいぜい素直に謝る。
「あたしゃね、他人と一緒にいることが嫌いなんだ。 落ち着いて茶も飲めやしない。 こんな押し付けの訪問なぞ要らんと、ずっと断っていたんだよ。 それを、役所の奴等やお前の学院の生徒会何たら共が、連日押し掛けてはぎゃんぎゃん喚くもんだから、面倒になって、二年前から承諾してやった。 だがどうだい? 仕方なしに受け入れてやったのに、こちらの要望を言って遣らせたら、どいつもこいつもちんたらしてなかなか進みゃしない。 それだけでも腹が立つってのに、ちょっと注意をしたら泣き出す、脚立を倒して壁をへこませたり床にペンキをぶちまけたのもいた。 その内には、来る顔が週毎に変わった。 鬱陶しいったらなかったよ。 だからもう、今度こそお断りだと言ってやったのに、懲りもせず、今度はお前を送り込んできた」
ねちねちと、婦人は作業する僕の背に言葉を浴びせかけ続ける。 自分だけ、淹れたてのお茶を愉しみながら。 独特の甘い香りが風に乗って届く。 桂花茶と推察。 庭先の金木犀の花を摘んで乾燥させたのだろう。 合わせた茶葉は、さしずめ弱発酵の青茶。
埃避けのため頭に巻いたタオルと、顔半分を覆う巨大マスク。 首にもタオルを巻いて、流れる汗を吸わせる。 手には軍手。 ただし滑るので、皮スキを握る右手はしていない。
塗料はがし溶剤の刺激臭が、淡い茶の香りを抹殺する。 これでも、「お肌に優しい低刺激 臭いも穏やか(自社製品比)」が売りの製品。 改良の余地はまだ十分にあると思う。
現在、作業に使う道具の半分は我が家からの持ち出し。
もちろん、活動に必要な経費は学院側が負担するし、訪問先家庭の都合により発生する費用は、基本、訪問先の家庭が出すことになっているが、何分にも、過去の担当者達がしでかした後始末をする、という側面が強いので、ムータン婦人に費用の全額負担を求めるのは憚られる。 費用のことなど口にしようものなら、「嫌なら来るな」で終わるだろう。 だがしかし、天涯区行政福祉課の職員と共に、「地域福祉に力を入れている」生徒会執行部は、「問題を抱えていそうな高齢者ほど、より、気にかけなくてはいけない」と主張。 特殊事例ではあるが、可能な限りムータン婦人の要望に副うように努力しようというのである。 実に前向きだ。 それにはまったく異論はない。
ただその裏に、二年間で堆積した婦人の不平不満を、今年度こそ解消、改善し、更には良好な関係を構築、伝統ある学院の名誉挽回を図りたい、という思惑が垣間見える。 ある意味、重要な局面である三年目の特命大使として白羽の矢が立ったのが僕。 新入りだというのに、ずいぶんと見込まれたもんだ。
ともかく、本格的に壁を塗り直すとなると他にも必要な道具はまだある。 銀縁眼鏡先輩、生徒会経理担当者と僕の三者協議の結果、作業完了後に、経費申請書を提出することとなった。
そんなわけで、現在学院側から支給されているのは、予備も含めた三組の軍手だけ。
朝晩は多少涼しくなってきた十月半ば。 しかし日中はまだまだ暑い。
放校後、急いで自宅に戻り作業しやすい服に着替えて来たのだけれど、埃よけにと長袖を選んだのは失敗。 暑くてすぐに袖をまくった。
作業は予想以上の肉体労働。
労働による体温上昇に加え、ムータン婦人の言葉による血圧上昇で、僕の体温は普段より、軽く一度は高くなっていそう。 マスクとタオルで蒸れ、更にコンマ五、高くなっているかもしれない。
「けれど、今年も訪問を受け入れていただけて本当に良かったと、執行部の者が言っていました。 あの、この壁塗りの他にご要望があるのでしたら、遠慮なく仰って下さい。 可能な限りの努力はいたします。 もちろん、僕に出来る範囲で、の話ですけれど――」
作業を続けながら、恐縮気味に返答。
謝罪と意見伺いは、相手の顔を見ながら口にすべきだと思うが、非礼を承知で態勢維持。
そも、婆さんは僕の謝罪など聞いてやしない。
僕は僕で、本心から婆さんの言うことを聞きたいと思っているわけではない。
しかし、訪問先で要望が出された場合、真摯に耳を傾け、可能な限り要望に副うよう努力する。 これは執行部の方針で、初訪問前日に渡された注意書きの五番目に記されている。 新米として無視するわけにもいかない。
だが、この注意書きに順じた言葉が仇となる。 この後、不毛なやり取りを何遍かした挙句、追加で土曜、午前十時から午後五時までも訪問することとなった。
その晩、激しい後悔に苛まれたことは言うまでもない。
翌水曜朝一番、執行部へ報告に行ったところ、「やっぱり結城君に頼んだ私達の目に狂いはなかったわ! もちろん、問題はなくてよ。 頑張って頂戴!」と、銀縁眼鏡先輩は、嬉々として激励の言葉を送ってくれた。
僕としては、「最初からあまり無理をしないで」くらいの台詞を、極僅かに、期待していたわけだが、ま、そんな展開を望むことが極甘、ということも予測はしていた。
ちなみに、ムータン婦人は日曜も作業に来いと言ったのだが、精神衛生を護るため、「予習などをしなければいけない」という、学生らしい理由を付け断った。 「そんなもの夜すれば十分だろうに、勉学も要領が悪いと見える」などと嫌味を言われたが、譲る気には更々ならなかった。 挑発に乗ってなるものか。
*
「今日もいい天気だ。 少々暑いが、花が喜んでいるよ。 ここ最近パッとしなかったからね。 ああ、その作業に区切りがついたら、表を掃いておくんだ。 昨晩の風で、葉が随分と散った。 集めた葉は、土に還すから捨てるんじゃあないよ。 そうそう、門脇の草木に、少し水を遣っておかなきゃだ。 重ねて言っておくが、院子には入るんじゃないよ。 素人の小僧に荒らされたくはないからね」
昨日に続き、脚立の上で黙々と作業している僕に、ムータン婦人は、今日も目に眩しい朱の裙子に込み入った刺繍の施された黄の衫子を見事に着こなし、晴れ晴れとした声で指令を出す。 壁との格闘前に、桌子と椅子を院子側の扉脇に移動させた。 風通し良く、眺めも最高の位置。 それは気分も良いことでしょう。
こんな瑣末な感情に阻害され、即座に返答できない自分の未熟さをまた痛感。 この超前衛芸術壁との戦いに、そう簡単に区切りなんぞ付くわけねぇだろうが――……。
ああ、心内言語が荒んでいく。
いけない。 もっと前向きに、思考転換を図らなくては。
今日はめでたい初土曜訪問。 訪問四回目。
昨日までの六時間の付き合いで、婦人との会話もそれなりに重ね、互いに「いけ好かない相手」と、とりあえず認識しあった。
この先、この非友好的印象に変化がもたらされるかは、「神のみぞ知る」だ。
婦人の淹れる茶は、非常に美味だろうということは、主に嗅覚で知っている。
味覚的には、初日の一杯だけしか味わっていないのだが、あれは、大井が淹れる茶に引けを取らない。 茶葉の良さもあると思うが、淹れ方の妙技に由るところは更に大きい。 あの一杯は、まさに口福だった。
今日は菊花茶のよう。 黒茶の厚みある発酵香と菊花のきりりとした香りが程よく混じり、マスク越しでも愉しめる。 今日は暑いから、このお茶はさぞ美味に違いない。
こめかみに流れた汗を、軍手で拭う。
ついでに腕時計を見る。
十一時前五分。 まだ一時間も経っていないのに、三時間は働いた気分――。
残りの壁面を見遣ると、軽い眩暈に襲われる。 前途遼遠。 昨日までの作業で進んだのは、せいぜい一面の五分の一程度。
過去、この壁と闘った素人達(この点は僕も同様)が、手順も考えず塗ったり貼ったりを繰り返した結果、壁の厚さが部分により不均一、ところによっては半立体という有様。
昨年度までの担当諸先輩が、訳も分からず、暴言に怯えながら遣らされた末のあり様だろうが、不器用にも程がある。 過去の壁紙やペンキを取り除いてから作業しろってんだ。 しかもこんな見苦しい、解体途中の家屋の如き有様で放って逃げ出すなんて、遣らされた経緯はさておき、プライドはなかったのか?
……と、何を考えてもため息が漏れるばかり。 過去を憎んでも無駄なだけだ。
とにかく、過去の遺産を剥ぎ落とし、壁面の汚れやカビをすっかり取り除いて壁面を均した後、ようやく、ムータン婦人ご所望の「真白」を塗ることが出来る。 壁を塗る作業をしたことはあるが、ここまで惨い壁を真っ更の状態に戻すのは初めてなので、実際、この作業にどれ程の日数を要するか見当がつかない。 だけど、少なくとも今月の訪問日内で二面は終わらせる。 来月半ばには塗りに入る。 当座の目標だ。
「小僧、手が止まっている。 まだ始めたばかりだってのに、もう疲れたってんじゃないだろうね?」
「そんな、まさかまだ疲れてなんかないですよ。 どうやったら効率的に作業が進められるかを、ちょっと考えていただけです」
声だけ笑いながら、皮スキを動かす手に力を込める。 平常心、平常心。
「お前、まったく感心するほど口と心が一致していない。 後悔を育てるのが、お前の趣味なのかい?」
それでいうなら、婆さんの趣味は他人をいびり倒すことだろう。
「あはは、そんな自虐的な趣味持っていませんよ。 でもなにぶん、まだ中等科に入ったばかりの〝餓鬼〟ですから、困惑してしまう場面は、たくさんありますけどね」
さすがは年の功。 僕の心中などお見通しというわけだ。 侮るべからず。
しかし、読まれたからといって気にするものか。
だいたい、そんな趣味があるかってんだ。
これはもう、僕の意地だ。
一度、自分の口から「行く」「やる」と発言した以上、僕は、胃に穴が開こうと嵐が吹き荒れようと、訪問を続け、作業もやり遂げる。
どういう経緯であれ、一度やると決めたことを途中で投げ出すなど、僕の沽券にかかわる。 諸先輩と同じに、婆さんに好き勝手にこき下ろされてなるものか。
「――つっ」
力加減を間違え、壁に当てていた左手に皮スキの角が刺さる。
「どうした? ドジをしたんじゃないのかい?」
椅子に腰を下ろしていた婆さんが、いつのまにか脚立の横まで来て僕を見上げていた。
心配しているというより、少し怒って見えた顔は、房間の中で一番光が薄い場所に立つせいか、顔色がとても悪く感じる。
「あ、ああ、いえ、ちょっと皮スキが滑って。 でも大丈夫です。 ほら、軍手をしていましたから、怪我はしていないです」
軍手をはずし、手をヒラヒラと動かして、まったく平気だということを見せる。
婆さんは「うちには薬なぞないから、怪我なんてされたら迷惑だよ」と言い捨て、椅子に戻った。
茶杯を持ち上げ、飲む間もなく置いた音が、静寂の室内に響く。 普段ならこんな音は立てないのに。
左手に視線を落とす。
厚手の軍手のお陰で、事実、流血まではしていなかったが、皮が少し剥け、薄く血が滲んでいる。
ジンジンと痛む薄傷を、改めて意識して見た。 傷の割にはズキンズキンと、脈打つような痛みがしぶとく続く。 ふっと、自分の心が、皮スキの角のように尖っていたことに気付く。
恥ずかしくなった。