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けしもの屋日誌  作者:
11/23

10 「初訪問・其の弐」

   10 「初訪問・其の弐」


   同・昨年十月十一日金曜日 晴れ



 後日、公孫(こうそん)(しゅう)に初訪問日の話をしたところ、「へえぇえ? 追い返されなかったんなら、お前、婆さんに気に入られたんじゃネーの? さすが、〝ご婦人オトシ〟の(さい)少爺(ぼっちゃん)だなぁ」と、へらへら笑いながら言った。 誰が「ご婦人オトシ」だ。 妙な綽号(あだな)をつけるのは、阿秀(しゅう)の趣味その二。

 いや、趣味というより無意識のクセ、と言うべきか。


 「気に入られる」。 つまりは「気に入り」になる、こと。


 その意味するところは、「心にかなうこと」「好きなこと」、対象は「人や物」様々。


 つまり、僕は婆……もとい、老婦人に、好意を抱かれた、もしくは、好感を持たれた――と、阿秀は言いたいらしい。

 まだ一日しか行ってないが、その〝たった一日〟の内に吐かれた暴言及び暴挙の数々を思い出すに、どれをとっても「気に入り」という言葉とは、結び付かない。

 いや。 結び付けたくも、ない。




「勝手に敷地内に入り、大変申し訳ありませんでした。 僕は、天堂中央第一学院一年に在学している、結城(ゆうき)(さい)、と申します。 何度か、表から声をお掛けしたのですが、お返事が聞こえなかったもので……。 失礼ですが、ムータン婦人――でいらっしゃいますか?」


 僕は、心底申し訳なさそうに頭を下げた後、遠慮がちに婦人の貌を覗き見た。

 口の端や目尻に数本、小さな皺はあるものの、その容貌は玲瓏(れいろう)、言葉を交わさなくても、犀利(さいり)な頭脳の持ち主であろうと推測される。

 老婦人は僕の問いに応えず、珍獣でも観察するように、侵入者である僕を頭の天辺から爪先まで、じっくりと時間をかけて観た。


「あの――」


 あまりに長い沈黙に耐えかね、僕が先に口を開く。 このあたり、僕の経験値がまだまだ低いことの表れだろう。


「よく、喋る餓鬼だ。 しかも、言葉が汚い。 気色の悪い」


「――……」


 返す言葉が見つからなかったのは、言うまでもない。

 言葉が汚い? こんなことを言われたのは、生まれてこの方初めての経験。

 恐らく、僕の顔は強張っていたに違いない。

 僕の問いに答えないまま、婦人は野良猫でも追い払うように手を振り、玄関へ回るよう言った。


 玄関から、薄暗い廊下を抜け、居間と思われる、院子(にわ)に面した房間(へや)へと通される。

 微塵も期待はしていなかったが、まず座ってお茶を勧められる、とか、互いに自己紹介をし合う、等の儀式はなかった。

 いや。 そも通されたこの房間(へや)は、そんな和やかな時間を過ごせる空間じゃあない。


「来ちまったんなら仕方ない。 せいぜい働いてもらうとするよ。 ここだ。 この房間(へや)の壁を、綺麗に塗りなおしておくれ。 前に来た奴等は、中途半端で遣り逃げしたんだよ。 見な、お陰でこの有様だ。 壁色は真白がいい。 塗り終わったら、お前のここでの務めは終わりだ。 来る必要はないよ」


「――……」


 婦人の一方的な言葉は、半分も耳に入っていなかった。 意識の九割九分までが、視覚に奪われていた。

 三十平米程の広さの、洋風な房間(へや)の壁面は、超前衛芸術(モダン・アート)の描きかけか?と思いたくなる斬新さ。

 〝アート〟という表現は、芸術を愛する人々に失礼かもしれない。

 調度品は、中央に置かれた紫檀と思しき木製の椅子と桌子(つくえ)以外、まったく何もない。

 房間の入り口で、呆然と立ち尽くした僕の頬に風が触れる。 鳥の声も遠くに聞こえる。

 視線を少し上げる。


 初めて、少し離れた正面の景色に気付く。

 院子(にわ)に面し、両開きの大きな扉がある。

 どちらも開放されていた。 扉の上半分は硝子板が嵌められており、閉じていても、院子がよく見えるだろう。 下半分の木枠部分には、控えめだが、凝った彫刻が施されているようだ。

 扉に縁取られた院子の緑と花々は、一幅の花鳥画の様で、掛け軸を観賞しているような、端整な眺め。


 が、僅か三度程、視線を斜めに動かすと、別世界へ踏み込む。 というより、突き落とされる。


 本来の壁の色や模様は、まったく判らない。

 上から幾度も、ペンキを塗ったり壁紙を貼ったりした痕跡が見られる。 その場しのぎで行った作業らしく、塗りに(ムラ)があったり、壁紙が剥離したり破れたりしている。 本物の廃屋の室内の方が、余程マシな状況じゃないかと思えるほど、ゴテゴテと、あらゆる色と柄が入り混じった、ひと言で言えば「趣味が悪い」壁面。

 題するなら「混沌」、といったところか。

 長く見ていると、溢れる色柄に酔ってしまいそうだ。


「ぼさっとしてるんじゃないよ、餓鬼、〝奉仕〟したくて押し掛けて来たんだろう?」


「僕には、〝結城彩(ゆうき さい)〟という名があります」


 憎憎しげな老婦人の言葉に、思わず言い返してしまった。 しかし、誤った反論とは思わなかったので、勢いで言葉を続ける。


「僕は自己紹介をしました。 若輩者が、無礼な口を利くと思われるかもしれませんが、用事を言いつけられる前に、お名前くらい、教えて下さってもよいのではないでしょうか?」


 老婦人は、表情を変えることなく、底の見えない黒い瞳で僕を見据えた。 怒り出すかと思っていたが、意外にも、老婦人は皮肉気味ではあるが、笑顔を浮かべた。


「はん。 まったく、近頃の餓鬼は口ばかりが立つ。 だが、お前の言い分ももっともだ。 あたしの名はムータン。 ムータンでも婆さんでもババアでも、好きに呼びな」


 ムータン婦人はすっと身を翻すと、奥に続く房間へ向かい、小振りの茶盤と熱水瓶(ポット)を手に戻ってくる。 茶盤の上には茶壷(きゅうす)とふたつの茶杯(ちゃわん)が載っていた。


「今日は空気が乾燥している。 まずは喉を湿らせな。 作業はそれからでいいよ」


 円形の桌子(つくえ)に茶盤を置くと、婦人は慣れた手付きで熱水瓶(ポット)から茶壷へ湯を注ぎ、茶杯へ注ぎ分ける。 青茶の芳醇な香りが、開け放たれたままの窓から入る微風に乗り、房間の入り口に立ったままの僕まで届く。

 茶は蜂蜜色の輝きで、熟した果実のように、とろりとした香りと柔らかな味わい。




 ――と、この瞬間だけを切り取ると、確かに婦人の態度は好意的にも思える。


 しかし、それは早計というもので、第一第二の印象が、ムータン婦人、こと〝婆さん〟の本性を余すことなく現していたのだ。


 この三十分後から、僕は婦人の一方的申し付けに、ただひたすら従事することとなる。


 どう思い返しても、初訪問は〝衝撃〟の大安売りで、好印象はない。


 もっと端的に言えば、最悪――だった。




※「公孫秀」を名前で呼ぶ時の「()秀」の「阿」は、親しみを込めた

   仲の良い者同志での呼び方です。 気の置けない仲間同士でよく使うようです。

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