牛の首
「なぁ、お前『牛の首』って話知ってるか?」
「……なぁに、それ? 知らないけど」
ちょっとした自慢話をするかのような調子で問い掛けてきた啓太に対して私は露骨に顔を顰めた。
幼馴染みだからわかる。こういう話し方をする時は怖がる私を面白がって心霊系オカルト系、はたまたスプラッタ系の話をするのだ。
ほら、予想通りにんまり得意気な顔になってる。
「牛の首ってのはよ、都市伝説なんだけど」
「あーはいはい。興味ないから」
「って、おいおい、つれねぇな。聞いてくれよ」
通う大学の五号館まである校舎のうち、最も古く最も寂れた一号館の階段を登りながらの会話。私の素っ気ない態度に一転、情けなく眉尻を下げる啓太。
「だって、私がそういうの苦手なの知ってるじゃん。なのになんでそういう話ばっかり振ってくるの?」
「聞いてくれるのが杏奈しかいないんだよぉ。俺友達いないから」
さり気なくあまりにも可哀想な情報を流された。まぁ、友達いないのは知ってるけど。
「だから、付き合ってあげてるでしょ。それで、今日はどこに行くの?」
「恩にきるぜ! もつべきものは幼馴染みだな! 今から行くのは心霊学を専攻してる教授のとこ。牛の首ってのはさ、内容が現代に伝わってない話なんだよ。わかってるのは滅茶苦茶恐ろしいって事だけ」
「なんか……その話も怪しいけど、心霊学の教授ってのがもっと怪しい。そんな講義受講できたっけ?」
「まあ、細かいこと気にすんなよ。とにかくその先生なら牛の首を究明してるかもだろ? 牛の首の真の内容がどんなのか……くぅーっ、気になるぜ!」
俄然テンションの上がる啓太に呆れてため息を吐きつつ、私はその背中を追う。真夏の猛暑日に講義でもないのに一号館の上層階を目指す物好きは私たち以外にいない。
昔から変わり者で浮き気味だった啓太。だけどいざというときには人一倍優しい事を私は知っている。私がこうして啓太に付き合ってあげてるのは単なる同情とはまた違う。ちょっぴり、啓太に好意を抱いているからだ。
昔、私が同級生にイジメられていた時に啓太が助けてくれた事は一生忘れないし、一生感謝し続けるだろう。
「おっ! ここだぜ」
やがて一号館の五階、それも一番隅にある部屋に辿り着くと啓太が意気揚々と声を上げた。
陽光を浴びて黄ばんだドアを啓太が無遠慮に開け放つと、むあっとした熱気と、ツンとした埃臭さが鼻を突く。
書類やら食べ散らかされたカップ麺の容器やお菓子の袋が散乱する部屋の奥にもぞっと動く人影が一つ。
牛乳瓶の底のような眼鏡にイソギンチャクのような頭。ぎょろりとした目をこちらに向け、無精髭に覆われた口をぐにゃりと歪曲させる男は底知れぬ不気味さを醸し出していた。
「おんやぁ〜? お客さんとは珍しい。歓迎しますよぉ〜、入って入ってぇ〜」
「はーい! 失礼しまーす」
粘つくような口調も相当気持ち悪く、私はこの先生を生理的に受け付けない事を悟った。啓太がお構いなしに部屋の中へと入るので、私も渋々後に続いた。
「けひひっ! お客さんなんて久しぶりだぁ〜。今日はどんな御用で?」
「実は俺たち、牛の首について詳しく知りたくて! 詳しい事はわかってないみたいだけど、先生ならなんか知ってるんじゃないかなぁ、なんて」
「けひひひひ! 牛の首ですかぁ! いいですねぇ〜、私としては心霊や都市伝説に興味を持ってくれる学生は大歓迎ですよぉ〜。何分ゼミ生も一人もいなくてねぇ〜。おっと関係ない話でしたねぇ〜。ところで、牛の首の話を聞く上で危険があるのは知ってますかぁ?」
異様な程に首を曲げて問い掛けてくる様はこの人が妖怪なんじゃないかと思えるほど不気味で気持ち悪い。開けた口に覗けた歯は黒く溶けていて吐き出される息からは嫌な臭いがした。
「あ、俺は知ってるけど、杏奈。知らないよな?」
「え、うん」
「一応伝説の中だとその話を聞いた者はあまりの恐ろしさに三日と経たずに死んでしまうって言われてるんだよ。あの……嫌だったら帰るか?」
そういう事か。正直、私は怖い話やグロテスクな話は苦手だけどそういう呪い殺すとか呪われて死ぬかととかいう話はあまり信じていない。それくらいならばノープロブレムだ。
それに、どうしても牛の首の話を聞きたい啓太が私を気遣って帰る選択肢を示してくれた事がとても嬉しかった。
「大丈夫よ」
「けひひっ! それじゃあ『牛の首』開幕ぅ〜」
◇◆◇◆◇◆
「全国各地に伝わる恐怖の都市伝説、牛の首。各地によって伝聞は違うんですけどぉ、そもそもいつ頃から存在する話なのか? 一九六〇年代にとある小説家が同名同内容の小説を発表してるんですがねぇ〜、彼曰く、その時には既にその類の話が出回っていたみたいなんですよぉ〜。
ここまでは牛の首と検索すればあっさり出てくる情報なんでお兄さんは知ってるかもしれないねぇ〜」
啓太は目を輝かせながら、うんうんと大きく頷いている。続きに期待して胸踊らせているのがよく分かる。
「私は独自に調べましたよぉ〜。牛の首についてねぇ。全国に伝わる伝聞を網羅していく中で私は一つの結論をだしましたぁ。牛の首とは牛の怨霊、怪異ではなく死んだ人間の強すぎる呪いなんじゃないかってねぇ〜。明治、江戸、更には戦国時代まで遡って資料を漁る日々はもうホントに大変でしたねぇ〜。
ですが私の努力は実を結びましたよぉ〜。誰が書いたかも分からない手記や寺に伝わる文献の中に『牛首』『牛頭』『牛の頸』という言葉が散見されたんです。しかも、割と限定的な地域でねぇ〜。それ等の言葉がよく見られたのは武蔵、下総、上総、常陸、それにあとは京都」
「どこだ?」啓太が首を傾げて杏奈に問う。
「今でいうと東京とか千葉、茨城周辺よ。でも、なんであとは京都?」
私の疑問にこの不気味な教授は嬉しそうにその特徴的な笑い声を上げる。
「けひひ! けひひひひっ! その京都と言うのが決定的でしたぁ〜。これは、あの方の呪いだとねぇ〜。ある文献には『生首の吼える様はまるで猛牛のようだ』とあるんですよぉ〜。
史実になっているだけでも関東大震災後の大蔵省庁の謎の大量死。戦後のGHQ主導による工事中の事故など、かのお方の呪いによる被害は枚挙に暇がありません〜」
「おぉっ! で、で!? それは誰の呪いなんですか?」
興奮した啓太が身を乗り出して問い掛ける。念願だった牛の首の真相が知れる事がとても嬉しいのだろう。
しかし、啓太の興奮とは対象的に常に笑みを貼り付けていた教授の顔が能面のように変わる。
「この辺でやめときましょうかねぇ」
「えぇっ!?」
啓太がそりゃないよと言わんばかりに驚く。
「私の牛の首の研究は限りなく真相に近づいていると思うんでねぇ〜。その呪いを興味本位で知りたがるきみに語る事は、きみに呪いが降りかかる可能性がある。私はねぇ〜、これ以上牛の首の犠牲者を出したくはないんですよぉ〜」
そう言った教授のギョロ目が散らかった机の隅に向けられた。その視線を追うとそこには学生と思しき人たちの写真が複数飾られている。
「もしかして……その人たちは……」
その問いを口にすることは憚られ、私は口を濁したが教授はゆっくりと首を縦に振った。
「えぇ。私のゼミの生徒たちでしたぁ〜。この子たちは私から牛の首の真相を聞き、その後行方不明です。きっと……呪い殺されてしまったんでしょうねぇ〜。だから私は牛の首を語る事をもう辞めようと思っているんですぅ〜」
「そんな! 俺は大丈夫ですよ! お願いします、牛の首の真相を俺に教えてください!」
啓太は既に好奇心に囚われてしまっている。
だけどこの教授の言っていることは矛盾していないだろうか? 私たちがやってきた時、牛の首の話を聞きたいと聞いて喜び勇んでいなかったか? それは単なる心霊研究家の性によるものだったのか?
教授は啓太の熱意を前に悩んでいたようだったが、席を立つと紙コップに飲み物を入れて私たちの前に差し出した。
「ここからの話は自己責任になりますよぉ〜。気を落ち着けて、覚悟して聞いてください〜。気が付かなくてすみませんねぇ〜。暑いでしょう? エアコンが壊れていましてねぇ〜。喉を潤しながら聞いてくださいねぇ〜」
「ねぇ啓太、本当に聞くの? 私ちょっとやだよ」
「杏奈ごめん! 今回だけだから! もう杏奈に無茶言わないから今回だけ頼むよ! どうしても牛の首の真相が知りたいんだ」
懇願する啓太に私は不本意ながら了承してしまった。呪いとかは信じてない私だけどなんだか凄く嫌な予感がする。
「けひっ! それじゃあ、始めましょうかねぇ〜」
耳障りな笑い声を発し、教授は語りだしたのだったーー。
「ん……」
酷い頭痛を感じ私は目を覚ました。
「ここは?」
暗くて何も見えない。じっとりとかいた汗が気持ち悪い。なに? 一体何が起きたの?
動こうとしてみたが手足が拘束されているみたいでまったく動けない。
「気が付きましたかぁ〜」
暗闇の中からあの教授の粘つくような声がした。状況が掴めない。
「あ、あの……ここはどこですか? 私はいったい?」
「あなたは丸一日もの間眠っていたんですよぉ〜。もっとも、眠らせていたんですがねぇ〜。けひひひっ!」
眠らせていた? どういう意味だ? 暑さでかいた汗とは違う、寒気を伴う汗が噴き出す。
「啓太は……啓太はどこ!? 啓太!」
「そんなに叫ばなくてもすぐ近くにいますよぉ〜」
そう言うと教授は蛍光灯を点した。
そこに映る光景に私は絶句し、そして叫ぶ。
「え、けいた……? 啓太ぁ!!」
そこには寝台に縛り付けられ頭を固定された啓太がいた。啓太の頭の上には水滴を滴らせる仕掛けが施されており、そこからぴちょんぴちょんと、一定のリズムで啓太の額に水滴を垂らしている。
啓太の様子……それは余りにも悍ましいものだった。大きく見開いた目の焦点は定まっておらず、半開きの口からはよだれをだらだらと垂らしながら「あ……ああ……あ……あ」と不明瞭な声を洩らしている。ガクガクと体を痙攣させ、ズボンには失禁したのであろう染みが広がっていた。
それはもう、私の知る啓太ではなくなっていた。
「いやあぁぁぁぁぁぁ!!!! 啓太ッ! 啓太ぁッ!!」
私の声に反応することなく、啓太は自分の額を見つめるかのように白目を向くほど上を向いている。
「けひっ! ほぉら、けいたくぅん……もぉ〜少しで額に穴が空きますよぉ〜」
教授の言葉を聞いた途端、啓太の小刻みに痙攣する体がビクンと大きく跳ねた。
「あううぅぅぅぅう!! あ、あう、あううぅぅぅぅぅう!! あっ! あぁ……あ…………あ……」
水滴から逃れようともがいた啓太だったが、身をよじることもままならず、直ぐにまた小刻みな痙攣を繰り返す。
実際には額に穴なんか空くはずがないのに。
「どうして? こんな……」
私は絶望を感じ涙を流した。なんでこんな酷い事を。啓太が、私たちが何をしたと言うのか。
「牛の首の真相を知ってしまったらどうなるか聞きましたよねぇ〜?」
教授が嫌に甘ったるい口調で問うてくる。
「あまりの恐ろしさに全身の震えが止まらず三日以内に死ぬんですよぉ〜。それが牛の首のすべてなんですよぉ〜!!」
叫び出す狂人は口から唾を撒き散らしながら悦に浸る。
「大切なのは内容じゃない! 伝説通りに幕引く事なんですよぉ〜!! 牛の首を聞いた者はすべからくこんなふうに死ぬんです!! ゼミ生もおんなじ様に死にましたぁ〜。
私は牛の首の伝説を知る語り部として後悔しながら仏門に入ろうかと思っていたんですがぁ、そんな矢先にやってきたのがあなたたちだぁ〜」
教授の血走った目が自我の崩壊した啓太を見下す。
「本当はもう十分だったけどぉ〜、けひっ! 辞められませんよねぇ! 堪りませんよねぇ!? この壊れていく姿!! けいたくんも暫くはずうっと『杏奈だけは助けてください! 杏奈は俺に無理やり連れて来られただけなんだ! 杏奈だけは!』って言ってましたぁ! まあ、結局壊れちゃって廃人同然ですけどねぇ〜」
「狂ってる……アンタ狂ってるよぉ!!」
「けひっ! けひひひひっ! いいえ〜。狂うのはあなたですよぉ〜。けひひっ!」
私を助けようと必死に叫ぶ啓太の姿を想像すると胸が締め付けられる気がした。
もう一度啓太に目を向けると力無く弱々しく体を震わせている。もう、元の啓太には戻らないんだ……。
私は思った。
ああ、世の中には怖い話や気味の悪い話が沢山あるけれど、そんなの全て何てことない。幽霊だって妖怪だって呪いだって怖いものか。
そんなものより……。
「は〜い。それじゃあそろそろ、杏奈さんの番ですよぉ〜。ゆっくぅ〜り額に穴が空いていきますからねぇ〜」
下卑た笑みを浮かべた狂人が私の顔の上にも同じ装置を設置する。
額に一雫の水滴が滴った。
人間の積み重ねてきた飽くなき悪意と業深い残虐さ。
それに勝る怖いものなんて…………あるものか……。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
某県、とある山奥の寺。
「ここだ、ここ。牛首神社! すいませーん」
境内の奥から一人の老僧がゆったりとした足取りで出迎える。
「あぁ、こんな山奥までよく来ましたね。貴方達も、牛の首の真相を聞きに来たのですか?」
「そうっす! もう興味ありありで、車飛ばして八時間かけて来ちゃいましたよ」
「遠路はるばるご苦労でしたが辞めておきなさい。私はね、もう牛の首の真相を語る事は辞めたのですよ。死なせてしまった者たちへの懺悔を込めて」
「マジ!? ホントに都市伝説の通りじゃん! そんな事言わないでさぁ、おじいちゃんお願い! 教えてよ! ここに来た事誰にも言ってないし、聞いたこと全部秘密にするからさ」
「う〜む。仕方ありませんね。それじゃあ奥へお上がりください。暑いでしょう? 今飲み物をお持ちするので待っていてください。けひっ! けひひひひひっ!」
飽くなき悪意は尽きる事を、満ち足りる事を知らない……。
作中で語られているある人物の呪いは、伝えられていることは事実ですが、牛の首の伝説との関連性はありません。