前編
小国なれど資源豊かなアークベルグ王国には、
建国の折、王に降りかかるあらゆる災厄を払い、
支え続けた四大公家の存在が不可欠であったと云われている。
豊かなこの地を狙った隣国を退け、王国に貢献し、その礎となった四大公を称え、王は”大公”の位と大公家の嫡娘に王家に嫁ぐ”栄誉”を、時に降嫁を受ける”権利”を与えたのである。
現在、王家には、王子が三人。姫が一人。
婚約から逃げるように、国境の防衛を理由に王宮を離れた第二王子を除いて、
皆、婚姻または、婚約状態にある。
中でも、王家嫡男であり王太子ミケーレ・エル・アークベルグ殿下は、
成婚半年で、新婚ほやほやというやつである。
その殿下が、昼下がりの王太子宮、一面のバラ香る四阿で、繊細な百合の花の彫刻が施されたティーテーブルを前にして、神に祈るように指を組み合わせ、蒼くなったり、白くなったりと忙しない。
王太子専属近衛騎士である私はそんな殿下の斜め後ろで、
唯一、今この場の空気が異常であることに気づいている。
───まずいな…ミカ様の天使のような顔が、土気色になって来ている。
正直、面倒なことに巻き込まれたなと私は思っていた。
これは例の病だ…。
それも今回は超弩級の破壊力…。
こんな不幸は数年前に、第三殿下の鶴の一声で移動になったバーミリオン卿に降りかかれば良かったのに…。
何が『昔から憧れていたセラフィウム家のマリー様専属侍女と、お近づきになれる!』だ。
リア充爆発しろ!!
…おっと、今はそれどころではなかった。
全く、この王太子殿下、ミカ様の”メルメル病”は酷い有様である…。
とゆうのも、ミカ様の向かいに座す、メルティーナ王太子妃殿下こと、元メルティーナ・エル・メタトローナ大公家令嬢は、
その名の通り、王国の”知恵”と呼ばれるメタトローナ大公家の次女であらせられた。
大変聡明であり、幼い頃の顔合わせのお茶会で、当時まだ王子だったミカ様に、本来の婚約者候補、嫡娘で姉のエカテリーナ様を素通させ、『あなたは天使?それとも女神様?』と云わせたほどの美しさだ。
あの日のエカテリーナ様の怒りの形相を、
当時、シャイな王子の乳兄弟兼お友達としてお茶会に呼ばれた私は今も忘れていない…。
それでも、その後、可愛い妹のために、
健気に笑顔で王子の婚約者の座を譲ったエカテリーナ様こそ、私的にはマジ天使。
そして今や俺の嫁(願望)。正直、エカテリーナ様の方が…。
私の考えていることを察知したかのように、ミカ様は振り返り私を睨みつけてくる。
「今、メルに対する不敬なことを考えたな?いくら乳兄弟といえど許さんぞ。」
恐るべし、メル様レーダー。
流石、王太子というべきか、普段のメル様へのヘタレっぷりが嘘のように、人を従える者としての有無を云わせない空気を纏っておられる。
普段からメル様にも、すこしくらい強気でもいいだろうに…。
なんせ、メル様を天使だの女神だのと出会ってから、ずっと、崇拝地味たことをしているので、まるで壊れ物を扱うように、兎に角、ぎこちない。
それが、忙しい合間を縫って、毎日欠かさず行うメル様とのこのお茶会でも、婚姻後半年経つのに、見合い初日ぐらいのダメダメっぷりなのだ。
「…そのような事は考えておりません。」
侮辱したつもりはないが似たような思考を読まれてばつが悪くなり、私は思わず俯いてしまった。
ある意味、肯定したように見えてしまっただろうか。
私たちのやり取りに、
ふふふっと貴婦人の笑みを浮かべるメル様。
寛容で聡明なメル様、どうかお許しください。と、心のなかで唱えておく。
メル様の今日の装いは、絹糸のような金色の髪を緩く巻いてあって、華美にならぬ程度の装飾品と薄化粧、そして、白いレースを幾重にも重ね、胸元や袖口、裾にあしらった上品な水色のデイドレスを纏っている。
柔らかい印象のタレ目がちなブルーサファイアの瞳に、桃色の唇も相まって、
まさに、"妖精の女王"のようであるからミカ様の病も仕方ない気さえしてくる。
一瞬、気が逸れていたのか、先程までの会話を思い出したミカ様の顔は、再び、どんどん蒼くなってきいる。
そろそろ何か声を掛けるべきか迷っていたその時────。
ガツンと鈍い音をさせながら、ミカ様がティーテーブルに顔を突っ伏して肩を震わせ泣き出してしまった。
そして、ぶつぶつと呪文のように、何事かを呟いている。
「まさか、私のメルが…。私のメル…。そんなはずは…。」
──ああ、まずい。とても、まずい。
さっきまでなんとか、王太子の意地で我慢できてたのに!
突然の事に、メル様は驚いて目を白黒させているし、その後ろに控えていたメル様の侍女アントニアも思わず、両腕を胸元に引き寄せ、ひっと悲鳴を上げ仰け反っている。
事の起こりは、ミカ様がメル様会いたさに午前に執務を詰め込み、なんとか終わらせて王太子宮に飛んで帰って、お茶会の席についた直後に起こった。
アントニアの淹れたお茶がお二方の前に置かれ、今日の話題はメル様の一声で始まったのだが…。
それがこの事件の始まりとなるのだった。
「ミカ様…私…。」
なんだか云いにくそうに、恥じらうように話すメル様を、鼻の下が伸びるのを必死に我慢しながら、ミカ様は待っていた。
すると、メル様の乳母の娘でメタトローナ大公家からついてきた侍女のアントニアが不敬にも、待ちきれないように前に進み出て得意げにこう言い放ったのだ。
「メルティーナ王太子妃殿下がご懐妊なさいました!」
いや、貴女がドヤ顔をしてどうするのかと…。
気持ちは分かる。ヘタレすぎて恐らく初夜、何事も…起きるべきことも起こさず、
済ましたと予測できるミカ様に、焦れる気持ちは近しく仕える者、皆が持っている。
共通の心配の種だった。
王太子が婚姻を結んで、まず、望まれることは、世継ぎをもうけることだ。
有り得ないとわかってはいても、口さがない者たちの格好の付け入る隙になりはしないかと皆、気が気ではなかった。
──それが解消されたということ。
それは、うっかり不敬してしまうほど、本当に喜ばしいことだ。
だが、しかし、私の立つ斜め後ろから見ていても、
明らかに動揺していると分かるミカ様。
まさか、事を成した記憶が…。
え?まだ?え?
普段、少々のことでは動じない私の額にも嫌な汗が吹き出てきた。
「…喜んではいただけませんか?」
どこか寂しそうなメル様に、怒りでオークのような顔になりつつあるアントニア。
何とか正気を取り戻したミカ様は笑顔で、
「勿論、嬉しいさ。突然のことで驚いてしまっただけだよ。」と、答えたのだ。
どこかほっとした様子のメル様はこの国の国母となるお方らしく穏やかに瞳を細めて柔らかく微笑んでおられた。
いや、だがしかし…喜んでいいのだろうか?
ミカ様はどう見ても心当たりがなさそうである。
そして、現在、泣いていたミカ様は突っ伏したとき同様に、がばりと勢いよく起き上がると、一息に…。
「やはり、私のせいなのだろうか?私が臆病風を吹かせて初夜に『いやーギリギリまで執務をしていたから眠いなー。本当は寝てはいけないんだけど眠いなー。』と無理やり寝てしまったから貴女を軽んじたと思われているのだろうか。」
それ、わざとらしい大声だったので、扉の外まで聞こえてましたよ。
もっとこう…『イヤーギリギリマデシツムヲシテイタカラネムイナー。』と、殿下は何人?というイントネーションと早口で。
遂に、メル様狂が過ぎて、機械人形にでもなったのかなと思っていた。
メル様が面食らったように、答えられずにいると、ミカ様はまだまだ、言い募る。
「それともやはりこの顔と髪の色なのか…?それとも王太子としての資質か?」
顔については、ミカ様も充分整っておられるのだが、いかんせん第二、第三王子が王家の色持ちで、規格外の美形であるため、劣って見えてしまうらしい。
髪の色に関しても、確かに王太子は第一王妃のご実家、王国の"盾"ケルビナー大公家の隔世遺伝で、本来、王家の色とされるミルクティーの髪色ではなく、青みがかった漆黒の色である。
王太子としては、他の王子たちより劣っていると思い込んでいるがゆえに努力家で、メル様が絡まなければ、他の王子たちより協調性もあるし、王太子としての決断力もある。正直、執務のことになると別人なのだ。
まわりも、皆、ミカ様を慕うものたちばかりだし、
もって生まれたカリスマ性か、
自然に人心掌握してしまう。
第二、第三王子も第一王女も、兄を慕い、飽くまで下につくという態度を崩さない。
メル様はそれらの事をすべて、ご承知の上、婚姻の承諾をなさった筈だし、今更、否やはあるまいに…。
「いや、それは考えにくいかと…。」
「では、エドワルド・アシュクロフト卿!いったい、一体、誰がメルの乙女を散らしたとゆうのだ!」
思わず口を挟むと、段々と高ぶる気持ちからか、ミカ様の声が大きい。
「なんてことを!メル様が王太子殿下以外に、肌を許したと思っておられるのですか!!」
我慢ならないとばかりに、アントニアが鬼気迫る顔で腰に手をあて仁王立ちになって猫のように毛を逆立てている。
そこで当人であるはずのメル様だけがとても冷静に、アントニアを手で制して下がらせると深々とミカ様に頭を垂れた。
「ミケーレ様、まずは侍女の不敬をお許しくださいませ。」
ハッとしたように、主に謝らせてしまったことを恥、アントニアが納得行かない顔をしつつも、同じく頭を深々と垂れ謝罪の言葉を述べる。
それらを呆然と見ていたミカ様も正気を取り戻したように、狼狽えだした。
「そんな事はいいんだ。それよりも、わ、私はけして、理想的な夫ではないのかもしれないが、メルを愛している。メルが…。メルが本当に愛する人の子を身籠ったとゆうのなら。メルの名誉のためにも、私の子として育てることも厭わない。だから、教えてくれないか。その子の父親は誰なのだ?」
真剣な面持ちで愛の告白をした男というより死刑宣告を待つ、囚人のように次の言葉を待つミカ様の姿に、私までも生きた心地がしなくなってくる。
そんな男たちの形相がメル様には滑稽に見えたのか、淑女らしからず、吹き出すように声をだして笑い出したので、今度はこちらが目を丸くして驚く番らしい。
「覚えてらっしゃらないのですか?三ヶ月前、ミケーレ様はひと月ほど外交のために同盟国を周っておられて、お帰りになった日に帰還式をしたでしょう?」
その頃か…と、ゴクリと唾を飲み込み肯定するミカ様。
卒倒しそう…。
…まだ、意識は保ってくださいよ。
三ヶ月前といえば、メル様との時間を確保するためにミカ様は必死だった。
本当の意味での初夜を未だ迎えられていない罪悪感からか、はたまた、愛想を尽かされるのではという恐怖か、単なるメル様狂か。
最側近たちは皆、巻き込まれるようにミカ様の組んだ過密スケジュールをこなす羽目になっていた。
例にもれず、私も参加させられていたのだ。
もう、思い出すのも嫌だ…。
特に最後が酷かった…。
野営には慣れているが、未開の地の多い国で、見たこともないような種類の大量の虫に囲まれての野営は本当に酷い。
極彩色のうねる虫たちを見て誰もが食欲を失い、帰りは喜びと早くその国を出たい一心で、早足とゆうか駆け足だ。
そのお陰か帰りは疲労困憊ながらも予想以上に早く帰りつけた。
嫌なことを思い出し唸っていると、メル様の視線が急にこちらを向いたので、心臓が早鐘を打つ。
───私?私がなにかしでかしたのか?