2. フィヤットル山
「・・・ちゃん?おねえちゃん?」
そこは不思議な場所だった。
暗闇の中で突っ立つ私は、白いスクリーンに映し出されたエインの姿を見ていた。
でも何故だろう、スクリーンの中、笑顔を浮かべているであろうその顔は、黒い靄で塗りつぶされている。
それでも誰だか分かる、愛しい弟の名を呼ぶ。
(エイン?あぁ良かった、そこにいたのね。)
自分を呼ぶ、懐かしい声に向かって必死に手を伸ばそうとするも、両脇に垂れ下がった腕はぴくりとも動かせない。
「おねぇちゃん!」
ふいに後ろからも声が聞こえて首だけで振り返ると、別のスクリーンに泣いているのであろうエインが映る。やはり顔は靄に塗りつぶされたままで、細かい表情までは伺いしれない。
(お気に入りの服が破けてしまって泣いているのね。大丈夫、すぐに直してあげるから。)
泣き顔のエインを慰めるために近づこうとしても、縫い付けられたように足が動かない。
「おねえちゃん・・・」
「おねえちゃん!!」
「おねえ、ちゃん?」
四方から聞こえるエインの声。そのどれもに手を伸ばそうと、足を向けようとしても、金縛りのように体が動かない。
馬鹿みたいに突っ立って、私を取り囲むほどに増えたスクリーンを眺めるばかりだ。
どうすることもできずに俯いた足元、闇の向こうに見えるのは、血だまりの中で倒れているエイン。
傍にいるのは、血まみれの剣を持って立ち尽くしている、白銀の髪の少女
(エイン!エイン!誰が、こんなことを!)
声を出そうともがくも、ヒューヒューと掠れた空気の漏れる音しかしない。
しかしその音に呼応するように、血まみれの剣を持った少女がゆっくりとこちらを向く。
そのくすんだ灰青の瞳がこちらを捉え、口を開く。
『お前だろ?』
「っはぁ!・・・はぁはぁはぁっ、はぁ、ぁ・・・」
弾かれたように飛び起き、息を吸うことを忘れていた肺に無理矢理空気を流し込んだ。
そのせいで荒れた呼吸を落ち着けようと胸に手を当てると、震えているのか細かな振動が胸に伝わる。
無様に震える手をぎゅっと握りしめ、目を固く閉じて夢の残滓が去るのをじっと耐えていると、なんだか無性に笑い出したい気分になった。
(わざわざ夢で教えてくれなくたって、充分覚えているわよ。)
いつの間にか暖炉の火は消え、部屋の温度は急激に下がっていた。
それにも拘わらず全身にびっしょりと汗をかき、首に纏わりつく髪が鬱陶しい。髪を払うついでに、夢見の悪さで痛む頭痛を払うように、軽く頭を振った。
しばらくしてようやく呼吸が落ち着き、窓の方に目を向けると、窓辺の花に光を射していた太陽は、随分と高い位置に上っていた。
(少しだけのつもりが、うっかり寝入っちゃったみたいね。)
震えそうになる体に鞭を打って立ち上がり、未だ胸の内に残る夢の闇を、呼吸と共に押し出そうと息を吐いた。
「ゆっくりしている場合でもないわね。あんまり時間、ないのかもしれないし。」
そこにあるのを確かめるように、左手首ごとブレスレットをきつく握りしめ、これから向かうフィヤットル山を見据えた。
***
「想像はしてたけど・・・想像以上に険しいわねぇ。」
街を出てから数時間、ところどころ岩がむき出しになっている山肌を登り続けてきた。
森の中を抜けた方が登りやすいが、大きな迂回となってしまうためこちらの道を選んだのだが、まだ雪が残る岩壁、それも場所によっては脆い部分もあるので、足をかける場所に気をつけながら登る作業は骨が折れた。
骨身に染みる寒さではあるが、動きの妨げになりそうな毛皮のケープとレッグウォーマーは脱ぎ、手袋も革製のものに変えた。
使い慣れた短剣2本も腰のホルダーに挿してある。必要最低限の荷物が入っているポーチの位置を少し直しながら、一息ついて改めて上を見上げた。
霊峰フィヤットル山、その昔は死者が天に昇るための山とも言われており、その呼び名の通り、頂上は天を差すように伸びている。
切り立った崖も目立つ山だが、中腹までは比較的樹木が生い茂っており、雪深いヴェントゥールの街にとっては、この森が生活の助けとなっていた。
一方で自然の脅威は、そのまま自然を守る力となり、あまり人間の手が入っていない山深くの森は、精霊が自然と湧き出ており、あちらこちらで精霊石を見ることができた。
精霊石は精霊の力が結晶化したものだと言われているが、確かなことは未だ解明されていない。
それぞれの属性の色味を持ったものが多く、そこらへんにある石のようなみかけのものから、クリスタルや宝石のように美しい見た目のものもあり、精霊石かどうかの判断は、リーファ達調査員の人間でなくては簡単に見分けがつかないだろう。
フィヤットル山では後者である、美しいクリスタルのような精霊石がそこここに結晶化していた。
精霊石の発生地を確認しつつ歩を進めていると、少し高地になってきたのか、薄くなりかける呼気を白い息と共に吐き出す。
その時、視界の端からこちらに向かって飛んでくる小さな白い塊が目に入った。
「キィ!」
手の平大の小人に羽が生えたようなそれは、顔中に憎悪の表情を浮かべており、リーファに向かって氷が煌めく鋭い爪を振り下ろそうとした。
「そんな見え透いた攻撃はね、目をつむっていても避けれちゃうわね。」
軽く踏み込んで左に跳ぶと、リーファを捉えるはずだったその爪は空を裂き、慌てて振り返ろうとしたそれは、突如空中で霧散した。
「もとは水の精霊、だったのかしらね。もう何も考えず、ゆっくりお眠りなさい。」
腰のホルダーから引き抜いた短剣でエルゴの核を砕いたリーファは、刀身を下に向けて柄を額にあてて祈りの形をとると、穏やかに呟いた。
(噂通り、随分精霊石が目立つわね。精霊の発生が他の地よりも多い?まぁその分、低級とはいえ、エルゴの数も多いんだけど。)
エルゴが初めて確認されたのは100年以上前だと言われている。
精霊自体は、豊かな自然が残るところで自然発生しており、彼ら自体は人間に対して何ら影響を与えない。
ただそこに在るだけだ。
しかしなんらかの事象によって精霊が自我を持つことがある。
そうした自我を持った精霊をエルゴ、そこからさらに知能を持った精霊をコギトと、人間たちは呼んでいた。
(これだけ精霊が豊富なら、エルゴやコギトも増えるのかな。波長をすごい感じる。)
山の中腹を過ぎたあたり、さらに森奥深くに入った頃から、襲いかかってくるエルゴの数が増えている。
こちらに襲いかかってくるものは核を砕き、無へと還す。様子を伺って襲い掛かってこないものは、面倒なのでそのまま無視した。
(・・・!!なに、今何かに見られていたような・・・)
突如、それまでとは明らかに異なる波長を感じて辺りを探ると、見あげた山肌の中腹に、ぽっかりと穴が見えており、何かが立ち去る後ろ姿が見えた。
(あそこ、か。気付かせる為にわざと気配を出したわね・・・。罠っぽいけど、ここまで誘われちゃあね、乗るしかないわよね。)
全身から噴き出す嫌な汗には気づかないフリをして、その後ろ姿を追った。