調整
あー、生後二百三十六日の今日も死ぬかと思った。油断すると私の外骨格すら溶けてしまう強酸に一日中放り込まれていたのだから当然である。これも闘気の鍛練なのだろうが、毎日死と隣り合わせと言うのは辛いものだ。時にはゆっくりと静養したい。切実にそう思う。
「拘束。随分と仕上がって来たわい。直にデビュー戦もあることじゃし、最終調整に入るかのぅ」
ゲオルグの一言で私の身体が鎖で雁字搦めにされる。私がまともに動けないのを確認した後、振り返ることもなく地下室から出ていった。きっと全て自分の管理下に置けていると思っているのだろう。何時か必ず隙を見て殺してやるからな。
だが、ゲオルグは完全に私を管理下に置けている訳ではない。私に小さな友人が出来たことを知らないのだから。その友人は資料棚と床の間からするりと現れ、葉っぱの服に付着した埃を払うと私の足下にやって来た。
「蠍くん!今日もカッコいいな!よいしょ!」
一ヶ月弱前に合ったポピ族はあれから地下室に居着いていて、他の気配が消えたと判断したらひょっこりと現れて私と遊んでいた。節足をよじ登っては外骨格をペチペチと叩いたり撫でたりと忙しい。初めて会った時から毎日同じことを繰り返しているだけなのに、飽きることはないのだろうか?
私はゆっくりと尾節を下ろしてポピ族に近付けてやる。すると待ってましたと言わんばかりに飛び付いてしがみついた。その状態で尾節を左右にゆっくり揺らしてやるととても喜んでくれる。私にとって数少ない癒しの時間だった。
「とうっ!あー、楽しかった!」
ポピ族は勢いをつけて空中で一回転してから私の背中に飛び降り、嬉しそうに笑いながら私の頭部まで這ってきた。そして私の牙を撫でて悦に入っている。どうやらこのポピ族は蠍の形状が気に入っているらしく、私といるだけでも幸せだと言っていた。
そんなポピ族だが、不意に悲しそうな顔になって身体を起こす。そして私に告げた。もうここを去らねばならないと言うことを。
「楽しかったけど、ここのフル族がそろそろ気付きそう。悲しいけど、行かなきゃね。お別れだよ」
ポピ族は口調こそ元気一杯だが声色は暗い。私と離れることがとても悲しいと見える。それほど懐いて貰ったことには嬉しさを感じるが、だからこそ去ってしまうと言われたら寂しさを抱いてしまった。
だが、その方がポピ族にとっても良い選択である。ここの主であるゲオルグに捕まれば何をされるかわかったものではない。最悪、私の餌にしようとするかもしれない。仲良くなった相手を食べるなど絶対に嫌だ。
しかし、餞別くらいは贈ってあげたい。この孤独で苦痛でしかない生活に彩りを与えてくれる二人の内の一人なのだ。その旅立ちに華を添えてやるのは私の義務と言っても過言ではあるまい。
私は右の鋏を自分の頭に近付けると、口の近くにある小さな鋏を切断する。実は蠍には大小二本ずつ、合計四本の鋏があるのだ。口に近い方はとても小さく、武器にはならないが食事の時に重宝する。その一本を自分でちょん切ってポピ族に差し出した。
「えええっ!?大丈夫!?」
「キシィ」
「むむっ?ひょっとして…くれるの!?」
最初は心配して叫んだポピ族だったが、私の意図を理解したのか驚いていた。少しだけ躊躇した後、ポピ族は大事そうに鋏を受け取ってくれた。ポピ族は私の頭部をしっかりと抱き締めてから床に飛び降りる。複眼の上に垂れた水滴のことは気にしてはならない。別れが辛くなるだけなのだから。
ポピ族は鋏をベルトにしている蔓に差し込むと、地下室の壁の前まで走っていく。そして両手で壁に触れると、そこがドロリと溶けて見る見るうちにポピ族専用の抜け穴となった。こうやって人里に入り込み、悪戯をしてから逃げるのだろう。
そして最後に壁の穴を綺麗に塞いで去っていった。ここにポピ族が穴を空けたと言われて信じる者は少ないほど全く違和感がない。これだけでもポピ族が中々捕獲されない理由が良くわかると言うものだ。
ポピ族がいなくなった地下室は静かなものだった。この静けさを寂しく思う反面、懐かしさと安心感を覚える自分に私は驚いていた。友と騒ぐ時間も良いものだが、暗がりで孤独に過ごす時間も好きだと初めて知ったのである。
真っ暗な地下室で一人でいることを楽しみつつ、何時ものように浅い眠りをとっていると誰かが近付いてくる気配を察知した。ふむ、この振動は奴隷か。今日は少し遅かったが、世話の時間になったということだろう。
「失礼…します…」
奴隷は何時ものように律儀にノックと挨拶をしてから地下室に入る。そして私の前に餌である大きな肉団子を置き、外骨格を磨き始める。私は黙ってそれを食べる間に奴隷は身体についた汚れなどを布で拭う。これが何時もの流れであった。
しかし、今日の肉団子はこれまでとは様子が違った。なんと生肉なのである。混ぜ物も入っているものの、毒物や血晶石の粉末ではない。どれもその逆で薬効のある草花だと私の中の知識が教えてくれる。
こんなことは今まで一度もなかった。一体、どんな風の吹きまわしだ?ゲオルグが好意でこんな餌を用意したとは到底思えない。何か裏があるはずだ。
「あの……これ……」
私がゲオルグの真意について考えていると、奴隷が私の鋏を拭いながら左腕の前腕を私に見せ付けた。何のつもりだろうかと不思議に思っていると、奴隷はガチガチに巻いてある包帯を解いていく。するとそこに隠されていたのは、以前に私が日頃の礼にと気紛れにあげた毒針の脱け殻であった。
奴隷が辿々しい口調で説明した話をまとめると、この針を大事に保存していたのだが、同じ部屋の奴隷に見付かりそうになったらしい。そこで左腕の包帯の中に隠すようになったようだ。
「貰ったもの……汚して……ごめんなさい」
うん?ああ、膿で汚してしまったことを謝っているのか。どうせ脱け殻でしかないし、気に病むことなどない。あげたものなのだから自由に使えば良いのだ。
だが、今の私には自分の考えを伝える方法がない。それ故に鋏を横に振って気にしていないと伝えようとしてみた。しかし、奴隷には伝わっていないようで首をかしげるばかりだった。
奴隷のことは放っておいて、私はゲオルグの狙いについて考える。そこで思い当たった可能性は一つだけ。奴が今日の去り際に言った最終調整という言葉である。デビュー戦とは間違いなく『闘獣会』のことだ。それに向けた最終調整として、万が一にも私が体調を崩さないようにしていると考えるのがもっとも納得がいく。
遂に衆目に曝されながら戦う日が近付いてきたらしい。正直に言って気が重いものの、毒物よりも酷い物体を食べなくても良いのは嬉しい。一本になった小さな鋏で千切っては食べ、千切っては食べを繰り返した。
私が食べ終わった時、奴隷は外骨格と床の掃除を既に終えていた。左腕の包帯は再び巻かれており、私の複眼には毒針を隠していると言われてもわからない。本人は汚れることを気にしていたが、私はむしろ良い隠し場所だと感心していた。
次の日、ゲオルグが私に課した訓練は…何もなかった。最終調整と聞いていたので拍子抜けである。何もさせられず、地下室から出ることすらないまま夜となって奴隷がやって来た。しかし、その手に餌の肉団子はなかった。
「ご主人様が……今日から……ご飯はないって……ごめんなさい」
奴隷は私の外骨格を拭いながら昨日と同じように謝った。いやいや、お前が謝る必要などないだろうに。私が怒りの矛先を向けるとすれば、それは飯を抜く指示を出したゲオルグに対してだけだ。
それに飯を抜かれた所で何の問題もない。毎日食べろと命令されているので我ながら忘れかけているが、蠍は少食なのだ。少し餌がない日が続いたところで全く問題はないのである。
しかも昨日の食事は非常に栄養価が高かった。腐肉と毒物でも平気で生き延びられる私だ、あの餌ならば一ヶ月どころか二ヶ月ほど食べずとも余裕だと本能が言っている。むしろゲオルグの無茶な鍛練がない分、もっと長持ちしそうだ。
だが、私はゲオルグのことをみくびっていたらしい。奴隷が世話を終えて去った翌朝、地下室にやって来たゲオルグはあろうことか私の檻に飢餓の霊術回路を起動させたのである。一日中食べていないと餓死しかねない霊術によって、私は激しい飢えに苛まれ始めた。何のつもりだ!?
「生物が最も力を振り絞る状況を知っておるか?それは生死の境を彷徨っておる時よ。デビュー戦のその日まで、お主には飢えてもらおう。心配はいらぬ。死なぬように調整するでな」
それからの一ヶ月はまさに地獄であった。霊術と闘気の鍛練こそなくなったものの、その代わりにいつまでも続く飢えに悩まされることとなったのだ。何もすることはなく、ただ空きっ腹を抱えて苦しむ日々。何かを食べたい。そんな渇望が頭の中を支配していた。
一番辛かったのは夜になって奴隷がやって来た時である。目の前にやって来る少女はいつも通りに甲斐甲斐しく世話をしてくれた。それはとてもありがたいのだが、食欲に支配されつつある私の複眼にはご馳走に見えてしまったのだ。
「蠍さん……わたしを食べますか?」
必死に理性と恩人に食欲を抱かせたゲオルグへの憎悪で本能の誘惑を強引に抑えていた私だったが、奴隷がそう提案した時には正直に言ってかなり揺れた。しかし、諦めだけが浮かぶ奴隷の瞳と恐怖から震える身体を見て己を律することに成功した。私はプイと奴隷から頭部を背けて狸寝入りする。奴隷はそれから何も言わず、掃除を終えて去っていった。
一人になった私は自分の心の弱さを恥じていた。恩人を食べるという行為を魅力的に感じたのは、私の心の弱さが原因である。身体は大きく頑丈になったし、霊術と闘気の技術も磨いて強くなった。
しかし、強くなったのは外側だけ。内面はまだまだらしい。それを鍛える方法は私の知識の中にはなかった。
何とも頼りない知識である。私は誰もいない檻の中で惨めな気持ちのまま浅い眠りにつく。私を癒してくれたポピ族はもういない。孤独と飢餓、そして敗北感を抱きながら日々を過ごし…ついにデビュー戦の時がやって来た。