流れ着いたモノ
エンゾ大陸から北東に離れた洋上には、名もなき小さな島があった。この島のことを知る者はほとんどいない。何故なら、この島の周囲には大海蛇やそれに匹敵する強大な生物が無数に生息しているからだ。
ただし、そんな島にも住民はいた。彼らの起源はエンゾ大陸で虐げられていた一族だとされている。流浪の日々を送っていた彼らは、とある神に気に入られ、安住の地としてこの島を与えられたと言う。今では約千人ほどがこの島に住んでいた。
この伝承は島民の間に伝わる口伝なので、事実かどうかは定かではない。だが、純朴な島民はこの口伝を信じており、彼らは自分達を救った神に祈りを捧げながら平穏な日々を過ごしていた。
「ふんふんふ~ん♪オイラは真面目な働きも~ん♪ご主人様の~ためならば~♪今日も身を粉に頑張るぞ~♪」
そんな島を自作の歌を歌いながら、機嫌良く軽やかにスキップしている者がいた。その者が歩いているのは帝国の都市部を思わせるような立派な舗装路である。小さな島とは思えぬほどに高度な技術の産物と言えた。
その者はしばらく道を歩いていたのだが、南側の海が騒がしいことに気が付いた。何かあったのだろうかと舗装路から離れて声のする方へと向かうと、騒ぎの原因はすぐに判明する。それは海岸に打ち上げられた巨大な物体のせいだった。
それは無数の海草が生えるゴツゴツとした横に長い岩のように見える。しかし、そうではないことは力なく開かれた大きな口がハッキリと主張していた。口の反対側には尾鰭があることからも、これは岩ではないのは明らかだった。
「おお、アイン様だ!」
「ちょうどええ時に来てくだすった。ありゃあ何じゃろうか?」
「はいは~い。ちょいと待っててくれよ」
島民の使う言語がディト語であることからも、彼らの起源がエンゾ大陸にあることは間違いない。ただし、大陸から隔絶された島で長い年月が経過したからか、彼らの用いるディト語には独特な発音と奇妙な訛りがあった。
閑話休題。アインと呼ばれた者は巨大な物体に接近すると、そっとその表面に手を触れる。その状態でしばらく硬直したかと思えば、感心したようにその巨体を眺め始めた。
「何かわかっただか?」
「うん。こいつは海帝鯨って言ってね、深海にすむ鯨の一種らしいよ。住んでる場所の関係で滅多にお目にかかれないんだけど……随分と状態が良いね」
「はぁ~、そんなモンがいるだか」
「ほんにアイン様は物知りだぁ」
島民は感心しつつアインを褒め称えるが、当の本人は苦笑いするだけである。それよりもアインが気になっていたのは、海帝鯨の死骸に外傷がほとんどないことだった。全くの無傷ではなく、少しだけ食べられた痕はある。しかし、どれも死因に繋がるような傷ではなかったのだ。
また大きさから考えて成体ではあるようだが、老衰するほどの年齢でもなさそうだ。もしも病気だった場合、それが島民、ひいてはアインの主人に害をなす可能性がある。アインが詳しい死因を調べるべきかと思った時、海帝鯨の死骸がビクンと動いた。
「何だぁ!?」
「生きとるだか!?」
死んでいたと思われていた海帝鯨が動いたことで、島民は驚いてしまう。腰を抜かす者もいれば、勇気のある漁師などは持っていた銛を向ける者もいた。
死亡を確認していたアインは、冷静に動いている原因が死骸の中にあるとわかっている。動いている部分を良く見ればそれが腹部だけだということもわかるだろう。アインはその原因が何であれ、島民を害する何かであれば即座に排除するべくいつでも動けるように構えていた。
「ヒェッ!?」
「何か出たぁっ!?」
「……腕か?」
何度も何度も海帝鯨の腹部が動いたかと思えば、内側から肉を突き破って何かが突き出て来る。唐突なことに怯える島民とは裏腹に、アインは油断することなく出てきた物体を観察していた。
それはヒト種の腕、それも籠手に包まれたもののようだった。血塗れなので色は判然としないが、尖っている指先で分厚い海帝鯨の腹部を貫いたらしい。アインは凄い力だな、と思わず感心してしまった。
そうこうしている内に、腕が出てきた傷口からもう一本の腕が現れる。二本の腕は扉を開くようにして傷口を強引に広げていった。ブチブチと生々しい音と共に海帝鯨の唯一柔らかい腹部が裂けていく。島民達は固唾を飲んでその様子を見守ることしか出来なかった。
「「「ばっ、化物だあぁぁぁっ!?」」」
「あっ!?ちょっ、バカ!」
そうして海帝鯨の中から現れたのは、赤黒いドロドロの何かに包まれたヘドロの塊だった。正確に言えば固まってゼリーのようになった血液と、溶けかけ血肉や骨などが混ざった胃の内容物の塊である。そこから籠手に包まれた両腕だけが出ていたのだ。
見た目も酷いが、その臭いも最悪だった。血の臭いに加えて腐臭と吐瀉物のような刺激臭まで放っている。腕が出てきたことでてっきり人型の何かが現れると思い込んでいた島民は、想像の埒外にも程がある異形の登場に恐怖して逃げ出してしまった。
アインは無闇に刺激したら危ないと言いたかったのだが、彼の心配は杞憂に終わった。海帝鯨から現れた謎の怪物は、怯えた村人の悲鳴を無視してその場で立ち尽くしている。その後、腕の位置から考えて頭だと思われる部分が上を向いた。
「外……か……!生き……延びた……ぞ…………!」
「おいおい、話せるのかよ。って、ぶっ倒れやがった」
化物は両手を燦々と輝く太陽に伸ばしてから、掠れた声で何かを呟く。そしてそのまま気を失ったのか前のめりに倒れてしまった。
ベチャリと湿った音と共に砂浜に汚物が撒き散らされる。アインは言葉を発したことに驚きつつも、用心深く警戒しながらその化物に近付いた。
「そんじゃ、まずは本来の姿って奴を拝ませてもらおうかね」
アインは倒れた化物に向かって掌を向ける。その掌からは霊術によって水が生み出され、それなりの勢いで放出して汚物を洗い流そうとした。
しかしながら、その汚物は中々落ちなかった。最初は汚物の粘り気が強いからかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。汚物の下には何故か分厚い砂の層があったのである。その砂が汚物の水分を吸い込んで粘土のようになっていたのだ。
アインは水圧を強くて汚物を流しながら、この化物の中身が何をしていたのか理解した。恐らく海帝鯨に丸呑みにされてしまった後、胃液で溶かされないように全身を砂で包み込んで守っていたのだ。そして内側から腹部を突き破って出てきたのである。
どうすれば深海に住むと言われる海帝鯨に食べられる状況になるのか、そしてどれだけの期間を腹の中で過ごしたのかわからない。しかし腹の中で生き延びた耐久力もさることながら、それ以上に諦めず生き延びる精神力に感嘆していた。
「綺麗にしたらご主人様のところに連れていくか。きっと興味を持つだろうし。こっちの海帝鯨も運ばなきゃなぁ……ゼクスとズィーベンを呼べばいいだろ」
これからどうするのかを決めたアインは、汚物の混ざった砂を洗い流していく。まず露になったのは上半身だ。形状は一般的なヒトのそれであり、うつ伏せになっているので顔はわからない。無駄な贅肉など一切ない鍛え上げられた筋肉と幾つもの傷痕が刻まれた肌から、彼が歴戦の戦士であることは明白であった。
ただ、それはアインにとって嬉しい話ではなかった。アインに目の前の戦士を連れていかないという選択肢はない。何故ならアインの主人は好奇心が強く、仮に放置したとしても島民からの噂で知れば必ず連れてこいと命じられるからだ。
だが、主人の安全を考えれば友好的かどうかわからない戦士を近付けるのは不安である。主人が不覚をとるとは思えないが、忠実な僕である彼は少しでもリスクを軽減したかったのだ。
何らかの対策は講じるべきだろう、などと考えていると彼は驚くことになる。それは腕に付いている籠手だと思っていたモノは、倒れている者の前腕と同化していたことに気付いたからだ。
さらに汚物を流して露になった下半身も、常人とは大きく異なっている。膝から下は前腕と同じ鎧のような何かで覆われ、腰の付け根からは蠍のような尻尾が生えていたのである。
「どうなってんだ?こんな生物はデータベースにもないぞ。これは何が何でも連れていかなきゃな」
アインはそう呟くと謎の人物を……冥王蠍の魔人をひょいと肩に担ぐ。そしてそのまま主人の住む屋敷に向かって歩き始めるのだった。
◆◇◆◇◆◇
(ここは、どこだ?)
私が目を開け……ようと思ったが、開く目蓋がなかった。前にもこんなことがあった気がする。あれは何時だった?どんな状況だった?ダメだ、思い出せない。
目蓋どころか、今の私には眼球すらなかった。にもかかわらず、周囲の状況は何故か把握することが出来ている。私は鬱蒼とした森、それを構成する大木……の表面に付着しているキノコになっていた。
(声も出ないし、動くことも出来ん。闘気と霊力は微かに持っているが、戦闘など不可能だろうな)
私は自分の現状を冷静に、そして何故か他人事のように分析していた。キノコという脆弱な生物では百年間生き延びるという使命を果たすことなど不可能であるのに、焦燥も絶望もしていなかったのだ。
その理由を考えていると、私の傘の部分にポツリと一滴の雨粒が落ちてきた。どうやら雨が降り始めたらしい。ただし、その雨は一気に勢いを強めてバケツをひっくり返したかのような土砂降りとなった。
雨粒が当たる力だけで樹皮から剥がれ落ちそうになるほどの大雨だ。その雨を降らせる真っ黒な雲からはゴロゴロという雷鳴が聞こえて来たかと思えば、轟音を伴って近くの大樹に稲妻が落ちたではないか。
立派な大樹とは言え、雷を受けて無事でいられる道理はない。落雷の衝撃で大樹は真っ二つに裂け、ブスブスと煙を上げながら炎上した。
最初、私は土砂降りの雨によって消火されると思っていた。しかしながら、どうやら雷が落ちた大樹は油分を多く含んでいたらしい。一度着いた炎の勢いは弱まるどころかどんどん大きくなり、天高く火柱が登るほど強くなったのだ。
燃える大樹が弾ける度に火の粉が舞い、風が火の着いた木の葉と共に周囲へと撒き散らす。火の粉や木の葉が付着した木々もまた、煙を上げて燃え始めたのである。
どうやら雷が落ちた大樹と周囲の木々は同種かそれに近い種類だったらしい。小さな火種が燃え尽きる前に表面が激しく燃え、森は瞬く間に火の海と化してしまった。
私が付着している大木もまた、例外ではいられない。燃えやすい品種だったらしい。ラピの爪先ほどもない小さな火の粉が火種となって、大木はメラメラと炎を上げ始めたのだ。
無力なキノコでしかない私は自分を必ず焼き殺すであろう炎から逃げることも耐えることも出来ない。そのまま炎に飲み込まれ、私は至極アッサリと死んでしまった。
「……やっぱり夢だったか」
キノコの私が燃え尽きた私は、目を覚ましながら呟いた。キノコになっていても落ち着いていた理由は、それが夢だと心のどこかでわかっていたからのだ。
既視感があったのも一度似たような夢を見たことがあるからだろう。あの時は小魚になったのだったか。何にせよ、自分が死ぬ夢を見るのは気分の良いものではないな。
「それにしても、ここは……?」
『やあ、お目覚めかい?』
「なっ……!?」
私が横たわっていたのは柔らかいベッドの上だった。取りあえず現状を把握するべく周囲を観察しようとした私に声を掛ける者がいる。その姿を見た私の頭の中は真っ白になってしまった。そこにいたのは……死んだはずのオルヴォだったのである。
次回は4月9日に投稿予定です。




