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 文学というものが消えて、逆に文学が世の中に与える影響とか、小説を読む事が人生に快さを与えるという宣伝がなされる。これは矛盾ではなく、通常の事態でしょう。

 

 どのみち文学は個人を、したがって人間を描く芸術ですが、人間がいなければ文学も消えます。個がなければ文学が消える。現代における資本主義の自由は「選択肢」として現れます。選挙にしろ、商品購買にしろ、選択肢があれば自由があると思いこむという心性が蔓延していて、だから自由があるようで無意識的には窮屈であるような状態があるのだと思います。

 

 例えば「オタク」が「アイドルを応援する」という行為、ここに悲劇的な物語を見る事はできるだろうか、と自分は考えた事があります。ストーリーとしては病に倒れて、死に近づきつつも、あくまでもアイドルオタクとしてそのアイドルを応援するのをやめない。そういう行為を自分の哲学として完遂する物語は果たして可能だろうか。

 

 もちろん、話としては可能だろうし、一定の支持も得られるかもしれませんが、しかし冷静に考えればアイドルというのはそういう風に応援するものではないでしょう。また、そんな風に自己の実存を賭けて応援されてもアイドルの方でも困るでしょう。にも関わらず、アイドルが応援するのが生きがいになっている、それは良い事だ、という喧伝が散々され、現にそれが人生のすべてであるような人は沢山いる。もちろん趣味としてやる分には大変結構、素晴らしいでしょうが、一人の人間として生まれてなぜ市場が用意した物語を選択するのが自分の人生なのか、なぜそれが自分の生きがいとならねばならないのか?と疑問を持つ自由も認められていいのではないかと思います。

 

 饗庭孝男は「芭蕉」という松尾芭蕉の評論も書いていますが、そこで松尾芭蕉の物語を、はじめは江戸の才人として点取俳諧に勤しんでいたが、それにも飽いて、莊子の哲学に影響を受け、西行に対する憧れを抱いて旅に出た俳人として描いている。この時、重要なのは芭蕉の旅への憧れが本物になったのは、それほど体が強くもなかった彼が自分自身の死を賭けて旅に出た為であって、そうした弱小の身体を賭ける事によってはじめて、才人の手慰み事でしかなかった俳句を自立的な芸術に化する事ができた。ここには普遍的な芸術家としての姿があるが、それは世界を捨て去る身振りが自己の獲得と芸術の自立性を伴っているという意味においてだと思います。

 

 現在でも、タレントの作った俳句にランキングをつけるという現代的「点取俳諧」が存在する。古い誤謬が、世界に対する芸術の卑俗化が、過去と同じように起こっているのであれば、現在の芸術家も結局、やるべき事はかつてと同じではないかという風に思う。明治・大正の青年らを見舞った自我の問題は、一部の天才らによって、自我の内部にある普遍性の問題を提出する事ができた。その事は、例えば松尾芭蕉や良寛の詩的実存とも関連するだろう。


 私は饗庭孝男の本を読みながら、現在の芸術家がすべき事も過去とあまり変わらないのではないだろうかという感想を抱いた。ただそれが現実に「露出」されるかどうかは別問題である。少なくとも、世界に溶ける事は芸術ではない。芸術は個的存在である事を目指すが、それは天才という個人の人格性を伴う。しかしそれはただの随伴現象に過ぎぬ。芸術が個を目指すのは、人はその生涯を通じて一人の人間とならねばならぬからであって、そうした運動は具体的には芭蕉のしたように、先人への思いを胸に旅に出る事だったりする。

 

 松尾芭蕉の「おくのほそ道」はその仮構性が今では指摘されているが、元からそれは夢の旅であった。その夢を現実にしたのは、松尾芭蕉という一個人の老躯であって、彼が死を覚悟しつつも旅に出たという事実だった。俳句という趣味的産物を芸術という自立したものにする契機はどこにあるか。人は、現在のように緊急事態になれば、芸術など捨てて顧みないだろう。所詮、多くの人にとっては芸術は人生を彩る装飾物の一つでしかなく、現在にはもっといい装飾物が他にあるからだ。だが、この人の軽蔑する場所に真の芸術家が切り込める場所のようなものがある。そこから芸術というものが、つまり人に嘲笑される場所こそが、芸術が崇高になる機縁でもあって、二つは同じものの両面に位置する。

 

 この場所から歩いていくのが真の芸術家だが、その歩みは上書き(アップデート)だけを絶対視している世界には見えないだろう。が、そこにこそ芭蕉のような人間が歩き始めた最初の場所がある。ここから人は歩いていく事ができるが、歩く事を教えるのは先人である。市場や社会が用意した選択肢をいかに効率よく選択するのかが道ではない。道なき道を歩くのが旅であろう。その旅、芸術の歴史を渡る旅は、芸術家の実存それ自体を、自己に捧げられた供物として消化する事により、果てしなくいつまでも続いていくであろう。

 

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