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 日本にもかつて近代というものがあった。その中心は明治・大正あたりで、そこには強いロマンティシズムがある。だが、このロマンティシズムは往々にして有島武郎や北村透谷の自死、また石川啄木や宮沢賢治らの夭折のような形にもなっていった。急速に近代化していく日本の中で「無用」の芸術を追求するには自己そのものを賭ける必要があったのではないかと思います。自己の実存と共に芸術の成立がある。これは今ではわかりにくくなっている。

 

 ではその近代はどこで終わったかと言うと、太平洋戦争の敗北だと思います。敗北、と今言いましたが、仮に勝っていても状況は変わらなかったでしょう。戦前の知識人が、戦争を境に、あるいは沈黙し、あるいは伝統と接続し戦後の社会から顔を背け、あるいは死んでいったという状況がそれを裏側から示しています。私は太平洋戦争という事態それ自体が、明治から始まった近代的自我の追求の終焉を意味していると思いますが、もう少し延長するなら三島由紀夫・川端康成の自死で決定的になったと思います。そこで命がけで文学をやるという営為が終わって、文学そのものも消滅した。命がけで文学をやる、という言葉自体が空語となった。

 

 饗庭孝男は西田幾多郎について面白い事を書いています。これは近代の終わりと関わりがあると思います。

 

 「いいかえるならば、彼の努力は、明治の初期に高まった啓蒙思想と、その手による国家と人間の制度化ーーたとえそれが望ましい形におわらなかったとしてもーーから疎外された明治の「青春」の「内面」を救抜することができたとも言えるだろう。それがほかならぬ、西田幾多郎の「哲学的営為」であったのである。」 (「日本近代文の世紀末」)

 

 饗庭孝男は複雑な言い方をしていますが、私は南井三鷹さんの西田幾多郎哲学の要約などを読んで、要するに西田哲学の肝は、全体と個との融和であると感じました。それは、制度と個との一致という風になっていく。「浮雲」から「それから」に現れている、明治の青年らの孤独と実存が時間の流れの中で秩序やシステムの中に合一されていく。その過程を肯定的に先取りしたのが西田幾多郎だと感じました。

 

 これを弁証法的統一と呼ぶのか、主体の秩序に対する敗北と言うのか。どちらにせよそこで文学は死に、それは明治・大正という存在にかつてあった日本の「青春」の終焉だという事ははっきりしています。青春という時期をアルチュール・ランボーは「地獄の季節」と名付けたわけですが、北村透谷や有島武郎の自死は青春の暗さを現しているとも言えます。青春期は活発なエネルギーが多方向に伸長していきますが、それ故の矛盾や悲劇も起こりえます。そうしたものが日本の近代、青春期だったわけですが、それらは西田幾多郎的なライン、当時の葛藤する個人は大きな秩序に飲み込まれる形で終わったと思っています。

 

 この事情を太宰治の「鴎」という短編に見る事ができます。この短編は戦争中の話で、作家である太宰が、自身の暗い内面と、戦争で高揚している現実とを対照的に考えていき、それでも自分の芸術はどこかにあるはずだと考える作品です。

 

 小林秀雄は戦争の初期には戦争を称賛する文章を書きましたが、次第に沈黙していきました。小林秀雄が沈黙した場所と、太宰がうじうじと悩んだ場所は同じ場所ではないかと思います。この時、文学が存在できる空間は小さく縮まり、消えていこうとしていたのだと思います。

 

 ではこれは戦争が悪いのでしょうか。もう少し見方を変えるなら、明治の青年、無用の文学なるものを弄んでいた青年がいつの間にやら「大御所」の位置に入ってしまい、それ故、当初存在していた葛藤が消えてしまったと言っても良さそうです。近代の葛藤が社会によって消化され、理解されてしまうと、それを演じていた人はもう同じ事をする必要はなくなった。

 

 私は小林秀雄という人がとても好きですが、小林秀雄は批評家として「食っていく」事ができました。ある時期からは結構金も稼げていたようです。それは、文学的な営為がいつからか社会秩序と合一した事を意味していたと思います。

 

 それ自体はいい事である、と今の世は言うでしょうが、物事には裏面というものがあります。漱石・鴎外のような超エリートにとってすら「文学は男子一生の仕事たりうるか」という問題がつきまとっていました。だから鴎外は、明治国家に殉ずる形で、本当はやりたかったであろう文学を余技にまわしました。漱石は思い切って職業作家の身分に飛び込んだ。この飛び込んだ、とう事の意味が今ではわからなくなっている。それは一大決断であったので、というのは文学は所詮、無用の長物でしかなかった。しかし、だからこそと言うべきか、そこに全てを賭ける時、白熱したものが現れたのです。私はそう思います。

 

 小林秀雄と漱石では世代が違います。小林秀雄がもし批評で食っていけなかったらどうだろう、と考えた事があります。小林秀雄は批評家ではなく作家になった、ならざるを得なくなったのではないか、と夢想した事がある。というのもその時には、世界を睥睨する自意識そのものが世界の機構に巻き込まれて悲劇の形を取るだろうと予想されるからです。

 

 明治の文学における悲劇とは、そういう悲劇ではなかったか。小林秀雄が社会的に発言を許され、地位も与えられるようになっていく時、明治の青年の苦悶は消えていったと見るべきでしょう。もっとも小林にしろ谷崎にしろ川端にしろ、彼らは伝統と接続する事によって自分達の世界観を守ろうとしました。戦後の社会は空虚な、物質と大衆性の勝利した社会だったからで、そこには何もないと見ていた。その見識自体は正しかったでしょうが、この時に、明治以降の青年の物語は完全に終わったのだと思います。

 

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