病室にて
立ち合い成立と共に行司の声が響き、観客の歓声は最高潮だ。土俵中央でがっぷり四つに組み合う狛ヶ峰と江戸錦。江戸錦が仕掛けて引き付けて寄ると、負けじと引き付け返す狛ヶ峰。中央まで寄り戻す。再度攻勢を仕掛けたのは江戸錦だ。右を深く差し直して寄るが、左の上手も深い。狛ヶ峰が右からすくうと体が入れ替わり、一転江戸錦が土俵際のピンチ。狛ヶ峰がこの機を逃さず腰を落として前に出ると、力尽きた江戸錦は土俵を割った。
寄り切って狛ヶ峰の勝ち。
「勝ったよ! 緑のお相撲さん勝った!」
浩太郎が大喜びだ。
「浩太郎、お相撲が好きかい?」
「いま、好きになった! あの緑のお相撲さんみたいに強くなりたい! パパは、あのお相撲さんより強い?」
息子からの質問に、思わず苦笑いする浩介。
「天下の横綱と比べられたらかなわないなあ。パパなんか、狛ヶ峰に比べたら豆粒みたいなもんだよ」
今よりもう少し幼かった時分、幾分身体の自由が利いていたころ、浩太郎にとって父浩介は、押しても引いてもびくともしない巌のような存在だった。その父ですら豆粒扱いしてしまう狛ヶ峰の強さに、浩太郎は素直に感動した様子である。
「狛ヶ峰って、凄いんだね!」
「そうだよ? 横綱っていって、お相撲さんのチャンピオンなんだからね」
浩介も、もともと大相撲に興味を持っているクチではない。ただ、番付やよく見かける決まり手は知っていたし、彼が物心ついたときに綱を張っていた現理事長にして第○代横綱北乃花のことはなんとなく記憶に残っていた。相撲というものに興味を持ち始めたばかり浩太郎相手に、浩介が求められる相撲の知識は、今はその程度で十分だった。
意外にも大相撲というものに興味を抱いた浩太郎に、浩介はその知っている限りの大相撲に関する知識を話して聞かせた。
目を輝かせて聞き入る浩太郎。
「ねえ、お相撲明日もある?」
「いや、明日はないなあ。今日が千秋楽だったからね」
「次、いつ?」
「二箇月後の九月だな。今度は秋場所、両国だよ」
「楽しみ!」
「ストレッチ、頑張ろうな」
「うん!」
そのときから、横綱狛ヶ峰は親子にとってのヒーローになった。
狛ヶ峰が勝った日は治療を頑張ったご褒美の日。負けた日は治療を頑張らなかった日。
狛ヶ峰が優勝すれば浩太郎は治療に励んだし、優勝を逃したり休場すれば、頑張りが足りなかったんだとよりいっそう浩太郎を奮起させた。
そんな或る日のことだった。
病室で浩太郎の十回目の誕生パーティーが開かれていた。両親、祖父母の他には中岡をはじめとする当直の看護師数人と、それに担当医。
日常生活のほとんどを病室で過ごす浩太郎の気が少しでも晴れればと、彼を取り巻く人々が企画したささやかなパーティーだ。
殺風景な病室は浩介雅恵夫婦や病院スタッフの手作りの飾りで愉しげに彩られている。
「今日はゲストが浩くんに会いに来てくれてます」
ハッピーバースデーの歌をみんなで歌い終えると、雅恵がそう切りだした。
思わぬ母の言葉に、
「ゲスト?」
と、浩太郎が目をぱちくりさせる。
病室のドアが開かれた。開かれたドアの向こう側に立っているのは山のような大男だ。
浩太郎は驚いたような表情のまま固まって動かない。大男とドアの隙間を縫うようにしてカメラマンが一人、病室に入ってさかんにフラッシュをたいたが、浩太郎にはカメラマンの姿などまるで見えていないようだった。
「浩太郎くん、お誕生日おめでとう」
野太いが慈愛に満ちた声。インタビューのマイクと、テレビのスピーカー越しにしか聞いたことのない声。
浩太郎はクチをぱくぱくさせながら、ようやくひと言
「狛ヶ峰……」
と絞り出したあとはもう声にならなかった。両手で顔を覆い、ただ涙。
感動のあまりファンに泣かれるというのは恐らく初めてなのだろう。病室に入った狛ヶ峰は困惑しながら
「なんで泣いてるの。浩太郎くん、今日誕生日でしょ」
と、大きな大きな掌で浩太郎の背中をさする。見渡せば泣いているのは浩太郎ひとりではなかった。両親も祖父母も、病院スタッフの誰しもが、ヒーローとの邂逅を果たした浩太郎の涙にもらい泣きしている。
「弱ったなあ……」
狛ヶ峰が困ったように呟くと、病室のみんなが泣き笑いした。
「浩太郎くん、プレゼント持ってきましたよ」
狛ヶ峰がそう言って浩太郎に差し出したのは、自らの手形を朱で捺したサイン色紙。
「浩太郎くん江」
と、特に宛名を記した特別のサイン色紙である。他に優勝額を模した表彰状サイズのブロマイドに狛ヶ峰のサインを記したもの、狛ヶ峰入幕から先場所までの全取組を記録した非売品のDVDなどが、狛ヶ峰から浩太郎に、誕生日プレゼントとして手渡された。
「横綱、そろそろ」
付け人の狛王が狛ヶ峰に時間を告げる。きっと忙しいのだろう。
病室を出る際、狛ヶ峰は浩太郎にこう言った。
「浩太郎くん、私も来場所、優勝を目指して頑張ります。なので浩太郎くんも、治療を頑張って下さい。来年の誕生日も来るよ」
突然のサプライズだっただけに、結局浩太郎は圧倒されっ放しで、狛ヶ峰とろくに会話を交わすことも出来なかったが、まさか天下の横綱が自分のために誕生日パーティーに顔を見せてくれるなど、思ってもみなかっただけに、それもやむを得ないことだっただろう。
単に贔屓の力士だというだけでは、一小学生のためにわざわざ病室を見舞う狛ヶ峰でもなかったが、浩介が病床の息子をなんとかして励まし、喜ばせたい一念で宮園部屋宛てに手紙を送り、今回のサプライズが実現したものだった。宮園親方から協会に申請がなされ、協会側は「月刊角力」の記者、カメラマンを帯同することを条件にこれを許可したという経緯である。
多分に協会の広報的な意味合いの強いサプライズではあったが、浩太郎にはそんな大人の事情は関係がなかった。ただ、あのテレビの中でしか見たことのないヒーロー、狛ヶ峰が、自分のために病室まで来てくれてお見舞いをしてくれたというだけで十分な意味があった。